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文系>歴史と交通>鉄道に関するhozhoのブックマーク (39)

  • 悲願かなえた19km…西武秩父線、運行開始55周年へ 西武鉄道がキャンペーン あの花スタンプラリー開催中(埼玉新聞) - Yahoo!ニュース

    西武鉄道(社・埼玉県所沢市)の西武秩父線が運行を開始し、10月で55周年を迎える。西武鉄道は今後、記念ウォークやスタンプラリー、「旅するレストラン 52席の至福」記念運行などのキャンペーンを展開し、鉄道沿線や秩父地域の活性化に寄与していく。 西武秩父線は1969年10月に、当時私鉄最長とされた正丸トンネル(4・8キロ)で山を貫き、吾野駅(飯能市)と西武秩父駅(秩父市)を結ぶ19キロの路線として開通。同時運行した5000系特急レッドアローは、西武秩父駅から池袋駅間を最短83分(現在は78分)でつなぎ、これまで秩父鉄道経由で約3時間かけて都内へ通っていた秩父地域住民の悲願をかなえた。 記念キャンペーンの一環として、西武鉄道は5月19日までの期間、秩父が舞台のアニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)」スタンプラリーを、秩父アニメツーリズム実行委員会と連携して展開している。 秩

    悲願かなえた19km…西武秩父線、運行開始55周年へ 西武鉄道がキャンペーン あの花スタンプラリー開催中(埼玉新聞) - Yahoo!ニュース
    hozho
    hozho 2024/04/29
    “吾野駅と西武秩父駅を結ぶ19kmの路線として開通。特急レッドアローは、西武秩父駅から池袋駅間を最短83分(現在は78分)でつなぎ、秩父鉄道経由で約3時間かけて都内へ通っていた秩父地域住民の悲願をかなえた。”
  • ゲーム感覚で歩く! 鉄道廃線跡の意外に楽しい歩き方 [鉄道] All About

    ゲーム感覚で歩く! 鉄道廃線跡の意外に楽しい歩き方今や世代・性別を問わず、鉄道を趣味とする人が増えた。「乗り鉄」「撮り鉄」に加え、「もじ鉄」「着鉄」なんていう人もいる。筆者のおすすめは「廃線散歩」。廃止された路線の歴史を調べたり、鉄道の遺構や痕跡がないか探しながら歩いたりと、ゲーム感覚で楽しめる。 一昔前、いや二昔前は男性の、しかもマニアに限られた趣味と思われた鉄道は、今や世代・性別を問わず、趣味とする人がとても増えた。「乗り鉄」「撮り鉄」などの王道的なものに加え、駅の看板の文字が好きな「もじ鉄」、車両の色に合わせて服をコーデする「着鉄(きてつ)」なんていう人たちもいるらしい。 筆者がおすすめしたいのは、廃止された鉄道路線の跡を歩く「廃線散歩」。「なぜ、ここに鉄道が敷かれたのか」「なぜ、廃止になったのか」といった路線や沿線の歴史を調べたり、鉄道の遺構や痕跡がないかを探しながら歩くのだ。ちょ

    ゲーム感覚で歩く! 鉄道廃線跡の意外に楽しい歩き方 [鉄道] All About
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    hozho 2024/02/19
    “首都圏の鉄道廃線跡の中から、多くの人が楽しく歩けそうな3路線をピックアップし、鉄道廃線めぐりの世界へとご案内したい。”
  • 鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史

    JR鶴見線、南武線、相模線の3路線の歴史を見ると、いずれも私鉄(地方鉄道)として創業し、草創期は貨物輸送に経営の力点を置き、その後、太平洋戦争中に戦時買収によって国有化されたという共通点がある。鶴見線の国有化は1943年、南武線、相模線は1944年であり、今から80年前のことだ。 鶴見線、南武線、相模線にはもう1つ興味深い共通点がある。それは、貨物輸送上の必要性から、多数の支線がかつて存在したことである。今回は鶴見線、南武線、相模線の支線の廃線跡を歩きながら、一般的にはあまり知られていない各路線の歴史を掘り起こしてみたい。 設立100年の鶴見線 鶴見線の前身となった鶴見臨港鉄道は、今から100年前の1924年7月に設立された。初代社長の浅野総一郎は、浅野財閥(現・太平洋セメントの源流の1つである浅野セメントが中核)を率いた人物だ。大正から昭和のはじめにかけて、浅野は自ら見聞したヨーロッパの

    鶴見・南武・相模線の「消えた支線」知られざる歴史
    hozho
    hozho 2024/02/16
    “今回は鶴見線、南武線、相模線の支線の廃線跡を歩きながら、一般的にはあまり知られていない各路線の歴史を掘り起こしてみたい。”
  • JR南武線「浜川崎支線」以外にもあった支線、知られざる歴史を探る

    今年、JR鶴見線はその前身となった鶴見臨港鉄道の設立から100周年を迎える。鶴見臨港鉄道は、浅野財閥(現・太平洋セメントの源流のひとつである浅野セメントが中核)を率いた浅野総一郎らによって造成された鶴見・川崎の埋立地(末広町、安善町、白石町、大川町、扇町など約150万坪)の物流を担うため、1924(大正13)年に創立。その後、戦時買収を経て、戦後は国鉄(現・JR)鶴見線となった。 この鶴見線の特徴としてすぐに思い浮かぶのは、多くの支線が存在することだ。海に面した海芝浦駅と隣接する海芝公園が観光スポットにもなっている海芝浦支線。首都圏で最後まで旧型国電が走った大川支線。石油輸送を担い、いまも不定期ながら石油輸送で使われている旧・石油支線(終点の浜安善駅は1986年廃止。現在は安善駅の構内扱い)。鶴見区末広町の工場群の物流を担った鶴見川口支線(1986年廃止)などもあった。 浜川崎支線の205

    JR南武線「浜川崎支線」以外にもあった支線、知られざる歴史を探る
    hozho
    hozho 2024/01/28
    “南武線に注目し、かつて存在した支線跡を歩きながら、同路線の知られざる歴史を掘り起こしてみたいと思う。”
  • 日本全国の廃線を9割以上カバー 「全国鉄道地図帳」制作者の執念

    日本全国の廃線を9割以上カバー 「全国鉄道地図帳」制作者の執念
    hozho
    hozho 2023/12/26
    “約3年の歳月を経て、第2版が刊行されることになった。”
  • 史上最大の砲を積んだ「列車砲」その絶大な火力 でも「活躍たった1回」だったワケ | 乗りものニュース

    歴史上もっとも大口径の火砲が据え付けられたのは列車でした。その威力は1発で要塞を吹き飛ばすほどでしたが、様々な理由で活躍の場はかなり限定されることになりました。 マジノ線を破壊するために考え出された巨砲 歴史上もっとも大口径の火砲が据え付けられたのは、戦艦ではなく、鉄道車両です。第二次世界大戦のドイツ軍では、「グスタフ」と「ドーラ」という2門の列車砲が作られ、砲口径80cm、砲身長は32.48m、7tもの砲弾を約37km先まで飛ばすことができるという規格外の巨砲でした。第二次大戦前に問題となっていたフランスの対ドイツ要塞線である「マジノ線」を破壊することを目的として1934年からクルップで開発が始まり、1940年に製造されます。 拡大画像 「グスタフ」と「ドーラ」と2門が製造された80cm列車砲(画像:パブリックドメイン)。 砲を運搬する列車の貨車をそのまま砲台にし、火砲として使用する「列

    史上最大の砲を積んだ「列車砲」その絶大な火力 でも「活躍たった1回」だったワケ | 乗りものニュース
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    hozho 2023/09/30
    “第二次世界大戦のドイツ軍では、「グスタフ」と「ドーラ」という2門の列車砲が作られ、砲口径80cm、砲身長は32.48m、7tもの砲弾を約37km先まで飛ばすことができるという規格外の巨砲でした。”
  • 「貨物鉄道輸送150年」神奈川県横浜・川崎エリアの貨物線跡を歩く

    我が国における鉄道貨物輸送は、新橋~横浜(現・桜木町)間で旅客輸送が始まった翌年、1873(明治6)年9月15日に旅客と同じ新橋~横浜間で貨物列車が走ったのが始まりである。今年は「貨物鉄道輸送150年」の記念すべき年にあたる。 神奈川県の横浜・川崎エリアでは、明治期から戦後にかけて、貨物線が著しく発達した。写真は現役当時の神奈川臨海鉄道水江線(「神奈川臨海鉄道50年史」より) その後、神奈川県の横浜・川崎エリアでは、横浜港・川崎港の貨物量増加、臨海工業地帯の発展などにともない、貨物線が著しく発展。埠頭や工場をつなぐ専用線まで含めると、数えきれないほどの路線が敷設された。しかし、モータリゼーションが伸展し、トラック輸送が台頭すると、1970(昭和45)年頃をピークに鉄道の貨物輸送は斜陽化。数多くの貨物線が姿を消していった。 今回は、横浜・川崎エリアに存在する貨物線の廃線跡を探索する。 ■最古

    「貨物鉄道輸送150年」神奈川県横浜・川崎エリアの貨物線跡を歩く
    hozho
    hozho 2023/09/18
    “今回は、横浜・川崎エリアに存在する貨物線の廃線跡を探索する。”
  • 横浜駅焼失や列車転落「関東大震災」神奈川の惨状

    100年前の1923年9月1日11時58分、南関東を中心に未曾有の被害をもたらした関東大震災(大正関東地震)が発生した。 この震災に関しては、多数の死者を出した都内の火災による被害にフォーカスされることが多いが、地震の揺れそのものによる鉄道被害は、震源地に近い神奈川県南西部の小田原市付近が最も甚大だった。 揺れによる鉄道被災が甚大な神奈川 そのことは、『大正十二年 鉄道震害調査書』(鉄道省)の東海道線の被害に関するレポートにも表現されている。 「東京横浜地方に於けるが如き火災に因る被害を除き、直接震災に因るものは東京より西下するに従ひ漸次その度を増し、清水谷戸隧道を越え戸塚駅付近より一層甚しく、国府津下曽我付近最も劇しく、これより西するに従ひ被害の度を減少し、足柄信号所付近に於て再びその度を増し、御殿場駅に至りて減少せり」 稿では神奈川県下で多大な被害が発生した横浜市電、熱海線(現・東

    横浜駅焼失や列車転落「関東大震災」神奈川の惨状
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    hozho 2023/09/01
    “神奈川県下で多大な被害が発生した横浜市電、熱海線(現・東海道線の国府津―沼津間)、熱海軌道、箱根登山鉄道の震災被害の実態を、当時の写真や『鉄道震害調査書』の記述などを基に見ていくことにする。 ”
  • 戦艦大和と並ぶ極秘兵器は武装全部盛り その名は「鉄竜」 中国人が恐れた“陸上軍艦”とは | 乗りものニュース

    戦艦「大和」が旧日海軍の秘密兵器なら、旧日陸軍のそれには何があるでしょうか。満州事変以降、大陸で中国人から「鉄竜」と呼ばれた装甲列車は、謎多きまま歴史の舞台から消えていきました。 海の「大和」 陸の…? 旧日海軍はアメリカと艦隊決戦をするために、秘密兵器として戦艦「大和」を建造しました。旧日陸軍も中国大陸でソ連と戦う秘密兵器をいくつも用意していました。敵防御陣地前面という危険地帯で活動する、現代の無人地上車に相当する遠隔操作装甲車までありましたが、秘密兵器の多くは真価を発揮することなく消えていきました。そのひとつに、中国人が「鉄竜」と呼んだ「九四式装甲列車」があります。 拡大画像 九四式装甲列車の先頭に立つ警戒車。30cm探照灯を中央に、左右には九二式重機の銃塔が配置されている。下部には障害物を排除する排障器がある(画像:月刊PANZER編集部)。 装甲列車はその名の通り、鉄道を走

    戦艦大和と並ぶ極秘兵器は武装全部盛り その名は「鉄竜」 中国人が恐れた“陸上軍艦”とは | 乗りものニュース
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    hozho 2023/08/27
    ”終戦後は中国軍に接収されたと思われますが行方はよく分かっていません。九四式装甲列車は存在が秘匿された兵器でしたが、その威力を発揮することなく消えていきました。”
  • ヒトラーの演説とナチスのスローガン、鉄道車内のスピーカーから流れる オーストリア

    (CNN) オーストリア国内を走行中の鉄道の車内スピーカーからヒトラーの演説の録音が流れ、乗客に衝撃が走る出来事がこのほどあった。 乗り合わせた複数の乗客によると、演説の他「ハイル・ヒトラー」や「ジーク・ハイル」といったナチスのスローガンも聞こえてきたという。 当該の列車はブレゲンツとウィーンの間を走行していた。ウィーンで活動するユダヤ教指導者(ラビ)のシュロモ・ホフマイスター氏は、自身の乗車中に起きたこの出来事についてツイッターで投稿。演説やスローガンを聞いて笑い出す乗客もいたが、自分は極めて不快だったと述べた。その上で、列車を運行する側は説明などを一切せず、すべて無視していたと批判をにじませた。 ホフマイスター氏が15日、CNNの取材に答えたところによると、ウィーンに到着する約25分前、ザンクトぺルテン市内を走行中にスピーカーから奇妙な音楽と途切れ途切れの会話が流れ始めた。それが突然ヒ

    ヒトラーの演説とナチスのスローガン、鉄道車内のスピーカーから流れる オーストリア
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    hozho 2023/05/16
    “乗り合わせた複数の乗客によると、演説の他「ハイル・ヒトラー」や「ジーク・ハイル」といったナチスのスローガンも聞こえてきたという。当該の列車はブレゲンツとウィーンの間を走行していた。”
  • 東急の祖「五島慶太」は本当に“強盗"だったのか

    2023年3月11日、東急の前身・目黒蒲田電鉄(以下、目蒲電鉄)の最初の開業区間である目黒―丸子(現・沼部)間の開業から100周年を迎えた。同社の創立は、開業前年の1922年9月2日であり、この日が東急の創立日とされている。 東急は、創立100周年に合わせ『東急100年史』を編纂した。1973年4月の『東京急行電鉄50年史』発行から半世紀を経て編纂された100年史は、当然のことながら新たな視点で執筆されている部分も多い。 『100年史』で見直した視点 100年史の編纂に当たった、東急広報グループ主査の竹内敏浩氏は、大学時代に交通地理・交通史の大家として知られた故・青木栄一東京学芸大学名誉教授のゼミで学んだ経歴を持つ。学生時代に東急50年史を読んで下記の点に違和感を覚えたといい、100年史の制作に携われるのならば、見直したいとずっと思っていたという。 「当社は成長の過程で、池上電気鉄道(現・

    東急の祖「五島慶太」は本当に“強盗"だったのか
    hozho
    hozho 2023/03/11
    “五島慶太とはどのような人物だったのか。あらためて、その業績や人物像を見ていきたい。”
  • 国鉄に対抗「起死回生策」、福井鉄道200形の記憶

    現在のような低床式の路面電車がまだ存在しなかった時代、福井鉄道(福鉄)の200形電車は福井市内の路面区間に入ると、郊外型の大型高床式電車でありながら2段式のタラップを「パタン」と降ろして、乗客は「よっこらしょ」と言いながら乗り降りした。 福鉄200形は、昭和30年代、鉄道が華やかだった時代に郊外区間と路面区間を直通運転する画期的な車両として登場し、全国の鉄道ファンに親しまれてきた。2017年に引退したが、多くの人の熱意によりクラウドファンディングによって保存に向けた整備が進んでいる。 筆者は福鉄の社のある武生市(現・越前市)の出身で、幼いころから福鉄と共に成長してきた。鉄道好きとなったのも福鉄の歴代の電車、沿線による影響が大きい。今回は福鉄のこれまでと、200形の誕生から廃車、そして修復への過程をたどってみたい。 かつては3路線あった福井鉄道 福鉄は現在、越前武生駅から福井市の田原町駅ま

    国鉄に対抗「起死回生策」、福井鉄道200形の記憶
    hozho
    hozho 2022/11/20
    “福鉄200形は、昭和30年代、鉄道が華やかだった時代に郊外区間と路面区間を直通運転する画期的な車両として登場、2017年に引退したが、クラウドファンディングによって保存に向けた整備が進んでいる。”
  • 「東京最古の私鉄路線」とは? 造られるはずではなかった“終点”の128年後 | 乗りものニュース

    「東京最古の私鉄路線」と聞くと、山手線のターミナル駅に接続しているものと思うかもしれませんが、実は違います。目的の終着駅までの工事過程で、やむを得ず設けられた仮の終着駅が、その後の地域を変えました。 東京最古の私鉄路線は128年前に開業 東京で最も古い私鉄路線はどこでしょうか。国土交通省監修の『鉄道要覧』にて、在京私鉄各線のなかで最も古い“運輸開始実施日”の年月日は「明27.12.21」、今から128年前の1894(明治27)年12月21日とあります。 この路線、山手線のターミナル駅に接続する路線ではありません。JR中央線の国分寺駅(国分寺市)と、西武新宿線の東村山駅(東村山市)を南北に結ぶ「西武国分寺線」です。西武線の路線網のなかでも多摩地区の支線である点は、意外に思うかもしれません。 拡大画像 東村山駅西口に立つ「東村山停車場之碑」(乗りものニュース編集部撮影)。 西武国分寺線の前身は

    「東京最古の私鉄路線」とは? 造られるはずではなかった“終点”の128年後 | 乗りものニュース
    hozho
    hozho 2022/11/14
    “JR中央線の国分寺駅(国分寺市)と、西武新宿線の東村山駅(東村山市)を南北に結ぶ「西武国分寺線」です。”
  • 工業都市駅 - Wikipedia

    工業都市駅(こうぎょうとしえき)は、かつて神奈川県川崎市[2]に存在した、東京急行電鉄東横線の駅(廃駅)である。1939年(昭和14年)に開業し、1953年(昭和28年)に廃止された[3]。 歴史[編集] 1930年代、小杉町付近には南武鉄道(現:南武線)のグラウンド前停車場(1944年(昭和19年)に武蔵小杉駅に昇格)と武蔵小杉停車場(1944年に廃止)があったが、東横線の駅はなかった。この時期、工場が相次いで進出していたこともあり、通勤の利便性を図るために東横線に新駅が設置されることになり、府中街道(国道409号)の交点付近に建設され、1939年(昭和14年)12月11日に「工業都市駅」が開業した[4][5][6]。 その後、東横線と南武線の交点付近に1945年(昭和20年)6月16日、東横線の武蔵小杉駅が開業。当駅と北に200メートル(営業キロとしては0.3 km)しか離れていなかっ

    hozho
    hozho 2022/07/18
    “工業都市駅(こうぎょうとしえき)は、かつて神奈川県川崎市中原区小杉町三丁目に存在した、東京急行電鉄東横線の駅(廃駅)である。1939年(昭和14年)に開業し、1953年(昭和28年)に廃止された。”
  • 海底に眠るプラットホーム。関東大震災で沈んだ根府川駅の遺構をスクーバダイビングで巡る|さんたつ by 散歩の達人

    廃なるものを求めて廃なるもの、すなわち廃線跡、廃墟、その他うんぬん。写真作家の吉永陽一が朽ちていくものをじっくりしっとり、ときには興奮しながら愛でていく連載。 今回は11年前、2011年に訪れた関東大震災の遺構です。震災遺構を廃なるもの(=廃墟)として括るのはどうなのかなとも考えてしまいますが、この読み物では戦争遺構も紹介しており、歴史の遺構の括りとして紹介します(では城跡は?というと収拾つかなくなるので、明治以降の近代遺構としています) 。 今回の場所は地上ではなく、ましてや空からでもなく……海です。11年前の撮影ですが、おそらく現在も変化ないでしょう。 JR東海道線根府川駅は相模湾に迫り出す山腹にあります。ホームからは大海原が望め、温暖な気候と相まって長閑な空気に包まれている大幹線の駅です。駅は大正11(1922)年、東海道線の前身である熱海線開通と共に誕生しました。駅舎は大正13

    海底に眠るプラットホーム。関東大震災で沈んだ根府川駅の遺構をスクーバダイビングで巡る|さんたつ by 散歩の達人
    hozho
    hozho 2022/03/27
    “大正12(1923)年9月1日の関東大震災は、多くの被害がありました。根府川駅は、ちょうど進入してきた下り旅客列車と駅が地滑りによって海中へ没する大惨事、駅周辺の集落も土石流に飲まれました。”
  • 台湾を変えた日本人シリーズ:台湾縦貫鉄道完成の最大の功労者・長谷川謹介

    台湾の鉄道を利用すると、不思議な懐かしさに包まれる日人は多い。それも当然で、日人が台湾の鉄道建設に大きく関わったからだ。日統治下の台湾で、北の基隆から南の高雄に至る台湾縦貫鉄道の完成に心血を注いだ日人の鉄道技術者、長谷川謹介について紹介する。 清朝時代の鉄道を大幅増設へ 「台湾鉄道の父」は誰かを巡って、台湾で昨年、小さな論争が起きた。そのとき、話題になったのは清朝の台湾初代巡撫(知事に相当)の劉銘伝か、稿で紹介する日人の鉄道技術者・長谷川謹介か、という点だった。劉が巡撫だった時代に台湾に初めて鉄道が造られたが、それを抜的に改造し、大量輸送を可能とする南北縦貫鉄道を完成させたのは長谷川だった。 台湾が日の領土となった1895年、すでに北部の基隆から中部の新竹間に99キロの軽便鉄道が敷かれていた。これは劉が建設させたものだったが、20メートルで1メートル上昇する急勾配の上、最小

    台湾を変えた日本人シリーズ:台湾縦貫鉄道完成の最大の功労者・長谷川謹介
    hozho
    hozho 2021/11/14
    “日本統治下の台湾で、北の基隆から南の高雄に至る台湾縦貫鉄道の完成に心血を注いだ日本人の鉄道技術者、長谷川謹介について紹介する。”
  • 今は珍しい「鉄道絵葉書」で蘇る明治〜昭和初期の東京の姿 | GetNavi web ゲットナビ

    〜〜おもしろ絵葉書の世界1【帝都・東京編】〜〜 カメラが普及していなかった時代、写真の代わりに旅先で土産に絵葉書を購入する人が多かった。また家族や知人宛に絵葉書を使って便りを送る人も多かった。こうした古い絵葉書が今も多く残されている。 絵葉書に残された一世紀以上前の風景を改めて見ると、その変容ぶりがおもしろい。今回は、鉄道をテーマにした絵葉書に焦点をあてた。特に東京の絵葉書に注目、東京の街の風景の変化に注目してみた。 *絵葉書はすべて筆者所蔵 禁無断転載 【関連記事】 【保存版】西武王国を築いた「堤 康次郎」−−時代の変化を巧みに利用した男の生涯 【絵葉書の歴史】土産として内外で人気となった日の絵葉書明治から昭和初期にかけて、カメラは非常に高価で手軽な品物でなかった。ボディも大きく、旅先に持っていくこともほぼ不可能だった。 写真を撮影できない代わりに絵葉書が非常に尊ばれた。価格が手ごろで

    今は珍しい「鉄道絵葉書」で蘇る明治〜昭和初期の東京の姿 | GetNavi web ゲットナビ
    hozho
    hozho 2020/06/08
    “今回は、鉄道をテーマにした絵葉書に焦点をあてた。特に東京の絵葉書に注目、東京の街の風景の変化に注目してみた。”
  • あじあ (列車) - Wikipedia

    あじあは、南満洲鉄道(満鉄)が1934年(康徳元年/昭和9年)から1943年(康徳10年/昭和18年)まで、日の租借地である関東州の大連駅と、満洲国の哈爾濱(ハルビン)駅間の約950 kmを満鉄連京線・国鉄京濱線経由で運行していた特急列車である。超特急とも呼ばれた。 列車は流線形のパシナ形蒸気機関車と専用固定編成の豪華客車で構成される。そのほとんどすべてが日技術によって設計・製作されており、当時の日の鉄道技術水準を示すものとして重要である。(→新幹線の歴史も参照) 沿革[編集] 特急「あじあ」(1930年代) 初期生産型パシナ形973号機(1934年) 最終生産型パシナ形981号機(1936年) 勝利7型(パシナ形751号機)、1984年 開発[編集] 1932年(大同元年/昭和7年)の満洲国成立当時、黄海に突出した港湾都市大連と、首都新京との間は満鉄連京線によって結ばれており、大

    あじあ (列車) - Wikipedia
    hozho
    hozho 2019/07/14
    “日本の資本・技術で経営されていた南満州鉄道が、1934年(昭和9年)から1943年(昭和18年)まで大連駅 - 哈爾濱(ハルビン)駅間の約950kmを連京線・京浜線経由で運行していた特急列車である。超特急とも呼ばれた。”
  • 建設中の「東京駅」を活写 横須賀で“お宝”写真を発見(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

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    hozho 2019/03/06
    “明治後期に建設中だった東京駅の姿を収めた写真の原本が、横須賀市西行政センター(同市長坂)で発見された。”
  • 【PDF】鶴見臨港鉄道の過去・現在・未来