Q: 私は某大学の法学部に通う21歳の男子学生です。(質問とは、直接、関係はありませんが、触法精神障害者に興味があり、それについて卒業論文を書くため、日々、資料を集めております。) 質問に入る前に、長文になりますが、質問に関わってくることなので、少し、コンサータ の服用とそれによる私自身の感じたことを書かせていただきます。 私は、精神科にてADHDと診断され、コンサータ を服用して数年になります。コンサータ 服用当初は、コンサータ によって、感覚過敏から解放され、初めて、ゆっくりと本を読むことができるようになり、感動のあまり泣いてしまいました。この感動はあまりにも激しく、「私は、もう完全に『脳』を支配した」という優越感(あるいは、副作用としての多幸感に過ぎないのかもしれませんが)を得ました。ところが、数ヶ月たち、このコンサータ 服用後の精神の変調が、私の悩みの種になってしまいました。 私は
すべての物には終わりがあるということは、そこら辺の公園でPokemon GOをしているガキンチョも、 チェーン店の飲み屋でワイワイ騒いでいる大学生も、電車内でため息を連発しながらスマホをいじるサラリーマンも、 マック赤坂も、おっさんもババアも、ジジイもクソニートも、みんな知っている。 今日も一日が終わるし、宿題もやり続ければいつか終わる。 電車にだって終電はある。僕の好きな漫画はこの前打ち切りになってしまった。 死ぬということも同じで、人間はいつか必ず死ぬ。 僕はその事実を、今日が終わることも、来年にはこの大学を卒業することも、 先日上司と喧嘩してバイトをクビになったことと同様に、十分に理解している。 しかし、理解する事と受け入れる事は大きくかけ離れている。 僕は今21歳で、80歳ごろには多分死んでいるわけだが、自分の人生の25%をもう使ってしまったことが怖くて怖くて仕方がない。 一方で、
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