笙野頼子の『金毘羅』の文庫版解説を安藤礼二が書いていて、最近笙野を論じられるのは安藤しかいないと栗原さんも言っていたけれど、やっぱり懸念を感じるのは、笙野が神社や神道にのめりこんでいくと最後は「右翼」になるんではないかということである。 もちろん笙野は、そうじゃないと言うわけで、出雲の神々みたいなまつろわぬ神々をことあげしているのだと言っているわけだが、そんなことは梅原猛だってやっているわけで、何だか今の笙野は昔の川村二郎みたいな感じで(というか安藤が若い川村二郎みたいなんだが)、だいたい民俗学とか神道とか言っていると、いつの間にかそうなる。富岡多恵子だって藝術院会員になるわけだし、南方熊楠なんて昭和天皇にご進講して天皇が「紀の国の産みし南方熊楠を思ふ」なんて歌を詠んでしまうんだからねえ。 谷川健一だって歌会始召人になるわけで、あれは雁が生きてたら何と言ったかねえ。だいたい国家というのは純