【北京=永井央紀】中国は7日、日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件から81年を迎えた。国営中央テレビによると各地で記念行事が開かれたが、北京市郊外の中国人民抗日戦争記念館で例年実施している記念式典については、7日16時(日本時間)現在、公式発表がない。日中関係改善の流れに配慮し、最高指導者が参加するような大規模行事は見送るとの見方がある。国営中央テレビは同日、盧溝橋事件について「中華民
八王子は今も昔も街道が交わる交通の要衝。戦国時代の関東に覇を唱えた後北条氏は、小田原の本城に次ぐ城郭をこの地に築いた。八王子城築城の経緯を伝える史料は乏しいが、1582年(天正10年)ごろに普請が始まったといわれる。城主は三代目氏康の三男、氏照。天正18年、豊臣秀吉の関東征討で上杉景勝、前田利家の軍に攻められ落城した。城方の主力は氏照とともに小田原城に籠城中で不在。かり出された領民が城を守っ
有力な戦国大名だった甲斐の武田氏。一般には長篠合戦で織田・徳川連合軍に勝頼が大敗したことで弱体化し滅亡に至ったと思われているが、ことはそう単純ではない。偉大な父・信玄と比較され、後に暗愚とも評された勝頼だったが、長篠合戦で有力な家臣を失いながらも軍団再編に力を注ぎ、一時は信玄時代よりも広大な領国を誇った。では、武田氏はなぜ滅んだのか。日本中世史が専門で『長篠合戦と武田勝頼』『検証 長篠合戦』で
憲法の定める国事行為ではなく、被災地訪問や戦没者慰霊など象徴としての行為に照準を合わせた天皇陛下の「お言葉」は、よく考え抜かれたメッセージだった。国事行為は摂政や臨時代行で対応できるが、象徴としての行為は代行がきかない。象徴の務めを高齢ゆえ耐えられないと述べられた以上、退位の可能性を探るしかない理屈となる。天皇の退位をめぐる基本的な論点は、昭和天皇の退位論が焦点となった戦後早い段階で整理されて
政府は、天皇陛下が退位された場合、その後の呼称を「上皇(太上天皇)」とする方向で検討に入った。皇族としつつ皇位継承権は付与しない方針で、公務など活動のあり方が焦点となる。皇太子さまの即位後、皇位継承順位1位となる秋篠宮さまは「皇太子」の待遇とすることも検討。皇室予算の見直しも含め、20日召集の通常国会に提出する退位関連法案に盛り込む見通しだ。(関連記事総合2面、社会1面に)今の陛下が「上皇」と
山本五十六率いる連合艦隊がハワイを奇襲してから75年、終戦からでも71年が過ぎ去った。長い長いときを経て、日米の首脳がようやく開戦の地、真珠湾に一緒に足を運んだ。国と国との戦い、そこに参加した人と人との争い。その痛みの記憶が完全に風化する前に「和解」を象徴する機会を設けることができた。画期的なできごとと高く評価したい。曲折あった日米の絆いまでこそ簡単に「日米同盟」という言葉を口にするが、戦後
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