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WikipediaとJPhistoryに関するShalieのブックマーク (4)

  • 秀才 (日本) - Wikipedia

    秀才(しゅうさい)とは、律令制において式部省が行った最高の官吏登用試験。秀才試(しゅうさいし)とも。後に紀伝道の学生である最優秀者である文章得業生のみが受験できるようになり、また来は秀才の解答論文を指した「対策」の名称が広く用いられるようになり、秀才は文章得業生の別称となった。 概要[編集] 博く群書に通じ才学の高い人物を登用するため、「大事之要略」(国家戦略)を問う方略策と呼ばれる論文が2題を課して論理力と文章力を問うた。最高の成績である上上第から下下第まで9段階の評価がされ、第4位の中上第より上が及第とされたが、及第に至ること自体が困難であった。上上第の成績を得た者は正八位上の位が与えられたが、これは従四位の子が蔭位によって与えられる従七位よりも低かった(もっとも、蔭位資格者及び孝悌の顕彰を受けた者はその蔭位または叙位に1階上乗せされて叙されることになっていた)。また、上中第は正八位

    Shalie
    Shalie 2018/07/01
    "上上第の成績を得た者は正八位上の位が与えられたが、これは従四位の子が蔭位によって与えられる従七位よりも低かった"
  • 吉備真備 - Wikipedia

    『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作 吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。 出自[編集] 下道氏(下道朝臣)は下道国造氏で、孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫とされる皇別氏族[3]。下道国とは備中国下道郡付近の、下道・川上・浅口などの諸郡と想定される[4]。姓は臣であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定を通じて朝臣に改姓した。 経歴[編集] 遣唐留学生として入唐[編集] 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。 元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・

    吉備真備 - Wikipedia
    Shalie
    Shalie 2018/07/01
    この時代の国際感覚すごい。"天平勝宝8歳(756年)に新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた"
  • 外位 - Wikipedia

    外位(げい/がいい)とは、律令制における位階体系の1つ。中央の貴族・官人に与えられた内位に対して傍系と看做(みな)される。 新羅の外位制[編集] 日の外位制[編集] 日の外位制は、新羅の制度をまねて遅くとも天武天皇の時代には成立していた(『日書紀』天武天皇2年閏6月庚寅(673年7月25日)条)が、この外位は八色の姓による貴族・豪族層の再編成によって一旦は姿を消す事となる。 大宝律令制定時において唐の視品制を参考とする形で復活する。日では五位から初位までの5階にそれぞれ正従・上下が付され、合わせて20階で構成された(最上位は外正五位上、最下位は外少初位下となる)。 これらは主に地方豪族や農民などから郡司・軍毅・国博士・国医師などの地方の在庁官人に登用された者、及び蝦夷・隼人などの有功者を授与の対象とした。また、養老6年(722年)以後には辺境防衛や官寺造営のために私財を提供した者に

    Shalie
    Shalie 2018/07/01
    庶民(白丁)から進士になって貴族(従五位下東宮学士)にまで昇った勇山文継の説明から外位を知った。キャリアとノンキャリみたいのが律令制の頃からあったんだな。
  • 中井正清 - Wikipedia

    中井 正清(なかい まさきよ、永禄8年(1565年) - 元和5年1月21日(1619年3月7日))は、江戸時代初期の大工。大和国出身。中井正吉の子。通称は藤右衛門。徳川家康に仕え、幕府の建築事業で活躍した。 経歴[編集] 中井氏は、姓は古代史族の巨勢氏である。祖父巨勢正範は万歳城(大和高田市)の城主万歳則満に仕えていたが、天文7年(1538年)1月2日に筒井頼昭との合戦で討死した。子の正吉と正利は母と共に縁者である法隆寺の四大工の一つ中村家の番匠中村伊太夫に匿われ、そこで大工の技術を学ぶ。その頃に掘った井戸が清水で周囲の人がその井戸を「中井」と呼んだのに伴い中井氏を名乗るようになった。この中井正吉の長男が正清であり、永禄8年に法隆寺で生まれた。 正清が家康に仕える時期は諸説あり、家譜には天正16年(1588年)24歳の歳に伏見で知行200石で召し抱えられ(『寛政重修諸家譜』では天正12

    中井正清 - Wikipedia
    Shalie
    Shalie 2018/06/30
    NHKの歴史番組でフィーチャーしてたけど、宮大工や城普請の監督(京都大工頭)で従五位下にまで叙されるってすごいな。技術官僚の目指す姿かも。
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