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観光と日本史に関するdaumanekoのブックマーク (92)

  • 徳川家茂や一橋慶喜が訪れた東本願寺と渉成園

    京都市下京区の京都駅の近くに東願寺が建っています。 その東願寺から東に3分ほど歩くと、当寺の飛地境内の渉成園(しょうせいえん)があります。 渉成園を拝観すると、立派なパンフレットを1部いただけます。 パンフレットには4種類あり、その中の「人物往来記 後編」では、幕末に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と将軍後見職の一橋慶喜が、渉成園を訪れたことが記されています。 大坂から二条城に戻る途中に立ち寄る 徳川家茂は、文久2年(1862年)に孝明天皇の妹の和宮をとして迎えます。 当時、江戸幕府は衰えていた権威を回復するため、朝廷と協力して国難にあたる公武合体を進めていました。 家茂と和宮の結婚は、この公武合体のための政略結婚です。 一方で、朝廷内では、天皇を中心とし、外国人を日から追い出そうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)の意見が強まっていました。 尊王攘夷派は、政治体制の改革と和

    徳川家茂や一橋慶喜が訪れた東本願寺と渉成園
    daumaneko
    daumaneko 2021/05/19
    東本願寺は、徳川家と結びつきが強かった。
  • 蛤御門を警備した水戸藩の藩邸跡

    京都市上京区の京都御苑の西側にイノシシで有名な護王神社が建っています。 その護王神社の北門近くの歩道には、水戸藩邸跡を示す石碑があります。 この辺りは、江戸時代には、徳川御三家の一つであった水戸藩の京都藩邸があった場所です。 大日史の編纂にも使われた 地下鉄の丸太町駅から烏丸通を北に5分ほど歩き、護王神社の北東角にやってきたところで下長者町通を西に曲がると、水戸藩邸跡の石碑が立っています。 石碑の後ろには、「此付近水戸藩邸跡」と記された説明書があります。 説明書には、この付近、烏丸通下長者町西入北側に水戸藩邸があったと書かれています。 石碑の北側には、ホテルの京都ガーデンパレスや放送局のKBS京都がありますが、江戸時代には、それらの敷地に水戸藩邸の建物が建っていたようですね。 藩邸が置かれたのは、江戸時代の前期で、貞享3年(1686年)の地図「旧藩々上邸箇所」に記されており、敷地は千三百

    蛤御門を警備した水戸藩の藩邸跡
    daumaneko
    daumaneko 2021/05/04
    水戸藩邸跡は、蛤御門のすぐ近く。
  • 四条通にある円山応挙宅址の石碑

    京都市下京区の四条烏丸付近は、商業ビルが多く建ち並ぶビジネス街です。 今は、たくさんのビジネスマンやOLの方たちが四条通の歩道を歩いていますね。 四条烏丸の交差点から東に数分歩くと堺町通と交わります。 その付近には金融機関が入るビルが建っているのですが、入り口付近には、江戸時代に円山応挙(まるやまおうきょ)が住んでいたことを示す石碑があります。 若き日の円山応挙の住まい 円山応挙は、江戸時代を代表する画家で、享保18年(1733年)に丹波国桑田郡穴生村(あのおむら)の農家に生まれました。 その円山応挙が、若き日に住んでいたのが、四条烏丸の少し東の四条通堺町東入るの辺りです。 今は、下の写真に写っている「圓山應挙宅址」と刻まれた石碑が立っています。 近くに説明書が設置されているので読んでみましょう。 円山応挙は、幼少より画を好み、17歳のとき、京都に出て狩野派の画家石田幽汀(いしだゆうてい)

    四条通にある円山応挙宅址の石碑
    daumaneko
    daumaneko 2021/01/13
    円山応挙が住んでいた場所には、今は金融機関が建ち並んでいます。
  • 朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺

    豊臣秀吉の朝鮮出兵で、日朝間の国交が断絶しました。 しかし、慶長5年(1600年)に徳川家康が使者を朝鮮に送り、被虜人200名を送還したことがきっかけとなって、両国の国交の回復が図られました。 そして、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日して以降、江戸時代に12回にわたって朝鮮通信使が来日しました。 朝鮮通信使の宿所は当初は大徳寺、後に西願寺近くにあった圀寺となりましたが、9回目の来日の時だけ能寺が宿所とされました。 徳川吉宗の8代将軍襲職を祝賀 朝鮮通信使の9回目の来日は、享保4年(1719年)のことです。 能寺の山門前に設置されていた「朝鮮通信使ゆかりの地」の説明書によれば、この時の来日の目的は、徳川吉宗の8代将軍襲職を祝賀することだったとのこと。

    朝鮮通信使の9回目の来日に宿所となった本能寺
    daumaneko
    daumaneko 2020/11/03
    朝鮮通信使も宿泊した本能寺。
  • 新発見の西寺跡  | 京都旅屋

    新発見のあった西寺跡を訪れました。 西寺(さいじ)は、平安京創建時に、朱雀大路を挟んで東寺と左右対称に設置された公の寺です。990年に主要な建物が焼失し、鎌倉時代の1233年に塔が焼失すると、以後は再建されませんでした。現在は敷地の一部が唐橋西寺公園として伝わり、講堂跡地には土壇がありますが、松尾大社の神輿を練り上げるために、後世に築かれたものとされています。 2020年9月よりその講堂跡の発掘が行われ、新発見がありました。講堂の規模は東寺よりやや小さく、伽藍配置が左右対称ではないことがわかったほか、仏像を安置する須弥壇(しゅみだん)跡の土壇が発見。大きさが東寺と比べると一回り小さく、東寺の仏像群とは明らかに異なる仏像配置であったことが判明しました。東寺は空海が密教の思想で、いわゆる立体曼荼羅を並べましたが、西寺はどうであったのか、興味は尽きないですね。 24日に訪れてみると、発掘現場をそ

    新発見の西寺跡  | 京都旅屋
  • 発祥の地をめぐる 固有の事物 - 京都を歩くアルバム

  • 書道の歴史をたどる - 京都を歩くアルバム

  • 織田信忠と本能寺の変 - 京都を歩くアルバム

  • 足利義昭の生涯 将軍から秀吉の一大名へ - 京都を歩くアルバム

  • 足利義昭の生涯 本能寺の変まで - 京都を歩くアルバム

  • 三好長慶 最初の天下人とその足跡 - 京都を歩くアルバム

  • 保津川の開削で仕事を奪われた丹波の馬借

    京都府亀岡市から保津川の急流を下る保津川下りは、観光客にとても人気があります。 その保津川は、古くから京都への物資の輸送に利用されてきました。 材木を筏に組んで嵐山の渡月橋付近まで流し、それを京都に運んで建築資材として使っていたんですね。 江戸時代初期の慶長9年(1604年)には、角倉了以(すみのくらりょうい)が、保津川の開削を計画し、さらに物資を輸送しやすくしました。 角倉了以の保津川開削 角倉了以は、前年の慶長8年にベトナムとの朱印船貿易を幕府に命じられ莫大な富を手にしました。 そして、国内では、山城と丹波の間の交易を計画し、幕府の許可を得ます。 それが、保津川の開削でした。 筏だけでなく、高瀬舟を使えば、保津川を使った輸送はもっと便利になります。 了以は、自らも現場で作業を行い、水路を完成させます。 また、水路に沿って舟を上流に引き揚げる綱を引くための人夫道も整備しました。 そして、

    保津川の開削で仕事を奪われた丹波の馬借
    daumaneko
    daumaneko 2020/07/11
    保津川を開削したのは角倉了以。
  • 山科 坂上田村麻呂の墓 - 京都を歩くアルバム

  • 朝鮮通信使が宿泊した大徳寺

    天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。 この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。 しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。 慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日軍の撤退で終わりましたが、日と朝鮮との国交は断たれたままでした。 そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。 使者を朝鮮に派遣し国交回復に乗り出す 徳川家康は、慶長5年(1600年)に朝鮮に使者を遣わし、その際、朝鮮から連れてきた被虜人200名を送還しました。 その後、家康は、慶長10年に朝鮮側の使者の松雲大師惟政(ソンウンデサユジュン)と伏見城で会見し、朝鮮への再出兵の意思がないことを伝えました。 これにより、慶長12年に朝鮮側から500名以上の使節団が来日し、国交回復が

    朝鮮通信使が宿泊した大徳寺
    daumaneko
    daumaneko 2020/05/22
    朝鮮通信使は、京都の大徳寺に宿泊しました。
  • 豊臣から徳川に嫁いだ旭姫の墓がある南明院

    能寺の変(1582年)の後、織田政権の後継者となったのは羽柴秀吉でした。 しかし、これに織田信長の子の信雄(のぶかつ)は不満を持っていました。 織田家の後継者となるのは、信長と血がつながっている自分のはずなのに信長の家臣であった秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていると思ったからです。 そこで、信雄は徳川家康に助力を頼み、秀吉と一戦交えることにしました。 小牧長久手の戦い 天正14年(1584年)に羽柴秀吉と織田・徳川連合軍との間で起こった合戦は、小牧長久手の戦いといいます。 この戦いは、織田・徳川連合軍が優勢でした。 合戦では徳川家康に勝てないと思った羽柴秀吉は、矛先を織田信雄に向けます。 信雄は、領国である伊勢の諸城を秀吉に攻略されると、戦線から離脱し城の長島城に引き上げました。 秀吉は、この時とばかりに信雄に講和を申し入れ、信雄はこれに応じました。 戦う理由が無くなった家康も、兵を引き

    豊臣から徳川に嫁いだ旭姫の墓がある南明院
    daumaneko
    daumaneko 2020/05/21
    旭姫の墓所は東福寺の南明院。
  • 新町御池にある肥前鹿島鍋島藩屋敷跡の石碑

    江戸時代、諸国の藩は京都に藩邸を持っていました。 京都は、江戸時代でも都でした。 天皇の御所もあり、文化や学問の中心でもあったため、各藩は京都に藩邸を持ち様々な情報を収集していました。 京都に藩邸を持っていたのは、福井藩、薩摩藩、土佐藩のような大きな藩だけではありません。 わずか2万石の肥前鹿島鍋島藩も京都に藩邸を持っていました。 佐賀藩の支藩 鍋島藩と言えば、佐賀藩を指しますが、その支藩だったのが肥前鹿島鍋島藩(鹿島藩)です。 鹿島藩は、佐賀藩主の鍋島勝茂の弟であった忠茂が、慶長14年(1609年)に佐賀藩から2万石を分与されてできました。 忠茂は徳川秀忠の御側小姓役も勤めており、現在の千葉県香取市である下総矢作(しもうさやはぎ)にも5千石を領していましたから、合わせて2万5千石が鹿島藩の実質的な石高でした。 しかし、寛永19年(1642年)に忠茂の嫡男の正茂が、佐賀藩主の勝茂と不仲とな

    新町御池にある肥前鹿島鍋島藩屋敷跡の石碑
    daumaneko
    daumaneko 2020/05/20
    鹿島藩の京都屋敷跡。
  • 京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑

    明治維新に貢献した4つの藩を総称して薩長土肥と言います。 「薩」は薩摩藩、「長」は長州藩、「土」は土佐藩です。 これら3つの藩は、幕末の京都で活躍し、当時の様々な史跡が今に伝えられています。 ところが、「肥」については、明治維新に貢献したことがあまり知られていません。 「肥」は、肥前のことで、佐賀藩を指します。 幕末の藩主は、鍋島直正で、号は閑叟(かんそう)といいます。 フェートン号事件で藩の洋式化を目指す 佐賀藩が、明治維新に貢献できた背景には、フェートン号事件がありました。 フェートン号は、イギリスの帆船で、文化5年(1808年)に長崎に来航します。 当時のイギリスは、ナポレオン戦争によりフランスに併合されたオランダと交戦していました。 オランダは、鎖国下にあった江戸時代でも日と交易をしており、長崎の出島で滞在するオランダ人もいました。 その長崎に突如現れたのがフェートン号です。 フ

    京都市下京区に立つ佐賀鍋島藩屋敷跡の石碑
    daumaneko
    daumaneko 2020/05/19
    佐賀鍋島藩の京都藩邸跡。
  • 新井白石の師・木下順庵の邸跡

    京都市中京区の錦市場から、西に歩き、烏丸通を横切った先に昔ながらの建物の門があります。 その門の下にひっそりと石碑が立っています。 その石碑には、「此附近 木下順庵邸址」と刻まれていました。 木下順庵は松永尺五の門人 木下順庵邸跡の石碑は、地下鉄の四条駅、または、阪急電車の烏丸駅から北西に徒歩約3分の場所にあります。 この辺りは、部分的に江戸時代のような雰囲気が残っていますね。 江戸時代の武士の学問の中心は朱子学でした。 そして、江戸時代の朱子学の祖と言われるのが、相国寺の僧であった藤原惺窩(ふじわらせいか)です。 藤原惺窩は、徳川家康に招聘されましたが、これを断り、代わりに弟子の林羅山(はやしらざん)を江戸に向かわせました。 しかし、松永尺五(まつながせきご)ら、多くの門弟は京都に止まり、やがて、日の儒学の主流派となる京学が形成されていきます。 その松永尺五の門人だったのが木下順庵(き

    新井白石の師・木下順庵の邸跡
    daumaneko
    daumaneko 2020/05/09
    京都にある木下順庵邸跡の石碑。
  • 復元された相国寺水路の石垣

    京都市上京区の京都御苑の北に相国寺が建っています。 相国寺は、永徳2年(1382年)に室町幕府3代将軍の足利義満が発願し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、義堂周信(ぎどうしゅうしん)を招いて創建された臨済宗のお寺です。 足利将軍が創建したお寺とあって相国寺は、今も広い境内を持っています。 しかし、創建から現在にいたるまで、相国寺は何度も焼失と再建を繰り返しているため、創建当時の姿を見ることはできません。 でも、2010年から2012年にかけて行われた発掘調査により、中世相国寺の遺構の一部が見つかり、移築・復元されています。 烏丸今出川に復元された水路の石垣 発掘調査が行われたのは、同志社大学良心館地点です。 地下鉄の今出川駅を出てすぐの場所に建っている同志社大学のキャンパスですね。 その同志社大学良心館の西側の烏丸通の歩道に中世相国寺の水路の石垣が復元されています。 近くに設置されている説

    復元された相国寺水路の石垣
    daumaneko
    daumaneko 2020/04/30
    京都は、まだまだ埋もれた史跡がありそうです。
  • 上御霊神社の御霊合戦旧跡の石碑

    戦国時代の幕開けとなったのは、文正2年(応仁元年/1867年)1月18日に始まった応仁の乱です。 この日、畠山政長と畠山義就(よしなり)との間で、畠山惣領の座を巡る合戦が起こりました。 畠山家の内紛だけでなく、足利将軍家の後継問題、斯波氏の内紛なども絡み、戦いは11年にもおよぶ長期戦となりました。 上御霊神社が応仁の乱発端の地 応仁の乱は、東軍と西軍に分かれて戦われました。 東軍を指揮したのは細川勝元、西軍を指揮したのは山名宗全でした。 畠山家は、政長が東軍、義就が西軍に加わります。 東軍の畠山政長は、京都市上京区の上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)に陣を構えます。 上御霊神社は正式には御霊神社といい、また、御霊の森とも呼ばれていました。 上御霊神社境内の説明書によれば、畠山政長が当地に陣を構えたのは、境内が広く周囲に堀や川があり防御に適していたこと、近隣に細川勝元ら味方の邸宅があり援軍を

    上御霊神社の御霊合戦旧跡の石碑
    daumaneko
    daumaneko 2020/04/29
    上御霊神社は応仁の乱勃発の地。