三島由紀夫と東大全共闘の「対決」の録画がTBSに残されていて、それを編集したドキュを有楽町で観た。...
繰り返せば、その時「政治と文学」の二項を媒介したのが、「人民戦線=青春」だった。ここにおいては、中野重治が転向して私小説を書くことも、小林秀雄が「私小説論」において、私小説をマルクス主義のタームで捉えることも、すべて「同心円」の中で矛盾なく捉えられることになるだろう。この時、私小説は、「純粋性のシンボル」として、マルクス主義=政治からの「転向」としてではなく、それと等号で結ばれるもの(「代補」と言うべきか)となったのである。 「いまでも私には小林多喜二の『党生活者』と嘉村磯多の『途上』とは、ほぼ同質のものとして残像している。というより、党に殉じた小林多喜二の生涯と純文学に礒じた嘉村磯多の生涯とほぼ等価で結びたい気持がつよいのである。」(「私小説と共産党」) 話を戻せば、書評に書いたように、本書から読まれる江藤の像は、『成熟と喪失』以降、私小説から遠く離れて(小谷野は、『成熟と喪失』を江藤の
天皇制の隠語 作者: スガ秀実出版社/メーカー: 航思社発売日: 2014/04/21メディア: 単行本この商品を含むブログ (9件) を見る 一言でいえば、最近の著者は、『吉本隆明の時代』、『反原発の思想史』と、(広義の)アナーキズムの蔓延に対して、ボルシェビズム、すなわち「党=普遍性」の復権を追究してきたといえるだろう。 例えば、『白水社』の連続インタビューにおいても、 http://www.hakusuisha.co.jp/topics/taisho/suga01.php 「アナに比べて、ボル的なものはどうも日本に合わないのではないか」という問いに対して、著者は次のように答えている。 それは、3・11を過ぎても変わらない68年以降の「気分」ではないでしょうか。丸山眞男は、「日本の思想」の「精神的雑居性」を原理的に否定し、「世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想」たり
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