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http://sharyoemi.hatenablog.com/entry/2019/07/09/215955 ホッテントリにあがっていたお○んこの話題で思い出したので書きました。 私の父と母は、お見合いで出会ったらしい。 私の父は新潟の中越出身で、母は神奈川出身、母方の実家は新潟に親戚があり、そんな縁でお見合いすることになったらしい。 父は背が高く若いころはスマートな感じだったため、母にはそこそこ好印象だったらしい。 ただ、父は地元の稼業を継いでおり母には嫁として新潟に嫁いでほしいということが念頭にあったようだ。 母としては都市部での生活を捨てて新潟に行くことにちょっと抵抗があり、というのもお見合いの席で父の言葉は、かなり訛りがきつくて、田舎くさいと感じてしまったようだ。 #今も父が丁寧に話す時、当人は標準語を話しているつもりでも、こちらからすれば越後弁が多彩に使われている。 結局、私が
『幼稚園行きたくない』。 先日、年中の息子から出た言葉。まさかわが子からこんな言葉を聞くなんて思っていませんでした。私の目には、毎日楽しそうに通っていると映っていたからです。 うちの幼稚園は、通常の保育時間(2時まで)の後に延長保育があり、働いているママ達はそれを利用しています。 どうやら息子はその延長保育が嫌なようでした。 これを聞くと、息子は延長保育でする活動が嫌というより、延長保育そのものが嫌なようです。 泣き出してしまいました。 仕事といっても、私は漫画家で在宅なので、頑張れば通常の時間にお迎えに行くこともできます。でもそれを1度してしまうと、毎回ねだられてしまうのも困る・・・と思い躊躇していました。以前にも息子に 「2時にお迎えがいい」と言われたことは何度かありました。でも「お母さん仕事なのよ、ごめんね。」と、流してしまっていたのです。 しかし今回は流せるレベルではない本気の泣き
文 リャマ 2018年に新卒入社した会社を退職した、はてなブロガーのリャマさん。「ここを辞めたら次はない」という不安から、つらいことがあっても辞められなかったというリャマさんですが、未来の「働く」を考えるために「働くことを休む」ことを決断しました。そう思うようになったきっかけとは? これから、どう「働きたい」のか。これまでのこと、これからのことを寄稿いただきました。 * * *数カ月前の自分に「あなた、無職になっても全然絶望してないし、毎日やること多くて楽しそうですよ」と言っても、絶対に信じないだろうと思う。 私の中で仕事を辞めるということは、イコール人生の柱を失うことだったし、漏れ聞こえる周囲の話は、選択肢を狭めるような悲観的な意見が多かったように感じる。 「転職して条件がよくなるのなんて相当優秀な人だけ」 「いまの職場でうまくやれないならどこに行ったって同じことになる」 「一度正社員を
この文は、文学フリマで『ちょっと三途の川見てきていいですか』という合同誌に参加させて頂いた時のものです。 若干の修正はしてありますが、いつもの記事とかなり違ったものにはなっているので、ご了承くださいませ。 00 めりさんからこの合同誌のお話を頂いたときに、即決で参加したい!と思った。「ちょっと三途の川見てきていいですか」、とっても素敵なタイトルだと思った。 ★ 17歳から19歳の、まさに青春、といえるはちゃめちゃに楽しいであろう時期に、統合失調感情障害(統合失調症と躁鬱の症状が両方ある病気)を発病してから毎日発狂するほど死にたかった。というか、現に発狂しまくっていた。ただひたすらに辛かったので、『死ぬ』ということ以外は何も考えて居なかった。 300錠を超える安定剤のOD、お風呂での瀉血、トラックへの飛び込み、あと少しのところでマフラーの結び目が解けてしまった首吊り、4回自殺未遂して、まぁ4
94歳の現役助産師・坂本フジヱさんは、5000人近い赤ちゃんを取り上げてきたという。昭和から平成にかけて70年以上、出産と子育ての現場にいる。 「3年前ぐらいから(ここで出産する人は)急速に減ってきましたね。若い人たちがいなくなったんです。大きな都会へね、仕事を求めて出ていった。この小さな村ではね、若い人たちが働ける場所がないですね。ですから、和歌山市から大阪、大阪よりも東京へ出ていってね」 「それに結婚する人が少ないです。男の人も一人が多いし、女の人も付き合ってる人がいてるのに結婚しない。で、結婚しても赤ちゃんをつくらない。将来の生活の不安ですね。子どもを育てたら必ずその子どもが自分たちの最期を看取ってくれる、っていう保証がない。だから、もうそれだったら、自分が働ける間に働いて、お金をためて施設で終末を終わろうというような考え方が多いんです」
こんばんは。ヒトデです この記事では、ちょっと重たい話をしようと思っています やはり自分にとっても勇気がいることで、少し手が震えます しかし先日結婚したこともあり、いい機会なので、また自分にとって結構大切なことでもあるので、もしよかったら読んでいただけたら嬉しいです 「きょうだい児」ってなんだ? タイトルの「きょうだい児」。ピンと来なかった方も多いと思います きょうだい児とは、障害や病気をもった子の兄弟姉妹のことをいいます あんまり聞いた事無い言葉だと思いますし、実際に僕もこの言葉を知ったのはここ数年のことです まあ結構重たい話なんですが、仮に障害を持った子が生まれると、どうしても親はその子へ付きっきりになります。当たり前です。大変だもん でもそんなとき、健常者として生まれた「きょうだい」達も、実は大変です 「きょうだい児」の抱える問題 きょうだい児にとって一番の問題は、単純に我慢が増えま
中高生の時は学生ズボン+制服ワイシャツで寝ていたし、大学以降(社会人時代含む)はスラックス+ワイシャツで寝ていた。 その理由は「夜寝るときに着替える」というシチュエーションに激しい性的興奮を覚えるからだ。 そもそも自分はパジャマそのものに性的欲求を抱く。 中学の頃一度パジャマで寝ようとしたことがあるが、「自分はパジャマを着ている」というシチュエーションに激しく興奮して勃起し続けて眠れなくなった(制服に着替えたらすぐに寝落ちした)。 パジャマのデザイン(余談だがボタンがないタイプの場合、キッチュな英字プリントがあればシコリティは非常に高くなる)、肌触り、着ているときの感触…それらは自分を性的に興奮させる。 パジャマはくつろぐ時や寝る時に着るものだが、そういうことを想起させる「夜寝るときに着替える」というシチュエーションには、性的興奮を覚えて当然だろう。 自室には性的欲求を満たすためのパジャマ
婚約者がお世話になった人が結婚式で勃起人をやりたいといいだした。発起人じゃなく。 その人は婚約者の父の部下にあたる人で、婚約者自身も大変お世話になったそうだ。 普通に無理だから、二次会でその役をやってもらうことにした。 実は私も結構そういうノリが好きだ。
将来を期待された若手歌人でした。 “今日も雑務で明日も雑務だろうけど 朝になったら出かけてゆくよ” “非正規の友よ、負けるな僕はただ 書類の整理ばかりしている” 歌が紡がれた背景には、どのような人生があったのか。 私たちの取材に、萩原さんの母親が手記を寄せてくれました。 萩原慎一郎さんの母の手記 「慎一郎は、中学受験で第一志望校に合格して、部活は大好きな野球部に入った。 しかし、監督から怒鳴られ、おどおどして萎縮している様子を真似して度々からかわれた。 野球部が終わると、必ず通学カバンがゴミ箱、掃除用具入れ、トイレ等に放置された。 『生きている価値がない』『顔が気持ち悪い』というような暴言や暴力が続いた。」 萩原さんの部屋は、今も当時のまま残されています。 いじめで退部を余儀なくされた後、萩原さんはこの部屋で読書に没頭するようになります。 萩原慎一郎さんの母の手記 「そのころ短歌に出会った
今、入所後に使う私物に貼る名札シール作ってる所なんだけど、涙が止まらず明日に響きそうなので吐き出しておく。 今週の水曜日、同居してた要介護3のばあちゃんがグループホームに入所する事になった。足が悪く半分寝たきりで、認知症も進んできたばあちゃんを俺と父親で1年くらい騙し騙し介護してきたんだけど、入所の順番待ちをしていたグループホームから先週「急遽空きができたんですが、入所されますか」と連絡が来たのだ。先方からは以前、申し訳ないが空きができるにはまだ半年以上かかると思う、と言われていたので寝耳に水だったが、予期せず、介護生活からの解放と70年以上実家に住んでたばーちゃんとの別れがやってきてしまった。いつか来るとは思ってたけど、もっと先だとばかり思っていたので、まったく心の準備ができていなかった。ことの決定権は父親と叔母(父の姉)にあった。毎日主に世話をしているのはお前だからと、俺の意思も訊いて
塩見さんが死んだ。 塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。 塩見さんとの付き合いは、もう20年にもなる。 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものな
塩見孝也。1960〜70年代、革命を目指し、武装蜂起を主張した赤軍派の元議長。70年、ハイジャックの共謀や爆発物取締法、破壊活動防止法違反などで逮捕。獄中20年。89年、出所。晩年はシルバー人材センターの紹介で東京・清瀬のショッピングセンターで駐車場管理人をしていた。享年76歳。11月14日、心不全のために亡くなった。 出会いのきっかけは、私が23歳の頃、ロフトプラスワンに「元赤軍派議長が語る!」的なイベントを見に行ったことだった。なぜわざわざそんなイベントに行ったかというと、当時の私は生きづらさをこじらせていて、近い過去に政治とかに怒って火炎瓶とか投げまくってた「政治の季節」に多大な関心があったからである。 翻って、自分の周りを見ると、半径5メートルの世界で消費活動だけしてろ、という空気の中、政治や社会に関心を持とうものなら「ヤバい奴」扱いされるという圧力に満ちていて、なんだかとっても息
諸般の事情でサイトが閉鎖されてしまった。原稿が一本無駄になってしまったので、はてな匿名ダイアリーに放流する。 🌑 お久しぶり~。とにかく更新が滞りがちなこの連載。今回はちょっと趣向を変えて、生まれて初めてアジアンエステに行った日のことを書くぞ。もう六年半も前の話だ。僕のドスケベオイルマッサージ道はこの日から始まったのだ! 某月某日、夜。駅前の商店街を歩いていると、妖しく点滅する立て看板が目に入った。 中国式マッサージ 60分¥6000 インターホンを鳴らすと、異様に背の低い老婆が出てきた。待合室に通され、メニューを渡される。メニュー表には複数のコースが書かれていたが、婆さんは90分一万円のコースをゴリ押ししてきた。僕は気圧されて、よくわからないまま一万円を払った。 部屋に案内されて、ベッドに腰かけていると、小柄な女の子が入ってきた。名前はナナちゃん。第一印象はツンとして見えるが、笑うと一
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