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写真と軍事に関するwackunnpapaのブックマーク (31)

  • 毎日新聞、戦中写真6万点アーカイブ化 東大・京大教授らと共同研究 | 毎日新聞

    毎日新聞社は18日、日中戦争や太平洋戦争中に戦地にいた特派員らが撮影した写真やネガを活用し、当時の状況を視覚的に分かりやすくまとめた「デジタルアーカイブ」の開発計画を発表した。渡邉英徳・東京大大学院教授、貴志俊彦・京都大教授らとの共同研究として、戦後80年にあたる2025年の完成を目指す。 対象の写真は、戦時中に中国大陸や東南アジアなどで撮影された6万点余。戦闘だけでなく兵士の日常や街の風景、特派員の取材風景なども収められている。終戦前後に軍から焼却命令が出たが、当時の社員が大阪社の地下などに隠し、これまで保管されてきた。 18日は東京大情報学環・福武ホール(東京都文京区)で共同研究発表会が開かれ、毎日新聞社の「戦中写真アーカイブ委員会」委員長、末次省三執行役員があいさつ。鯨岡秀紀・大阪社編集局長が、資料の特徴や研究の意義を説明した。

    毎日新聞、戦中写真6万点アーカイブ化 東大・京大教授らと共同研究 | 毎日新聞
  • 【写真まとめ】日米開戦から80年 市民から見た「1941年」:朝日新聞デジタル

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    【写真まとめ】日米開戦から80年 市民から見た「1941年」:朝日新聞デジタル
  • なぜメトロポリタン美術館に第二次大戦中の「日本のプロパガンダ写真」が大きく掲げられたのか | 米紙が辛口批評「性別を理由に無闇に称賛していないか」

    抑圧された生きづらい社会を生き抜いて活躍した女性たちの姿を見ると、勇気づけられるものだ。だが女性という「性別」だけにとらわれ、残した功績の裏側にある歴史を見落とすことは末転倒なのではないか──男性優位の写真の分野で活躍した日人女性、笹恒子の作品が展示されたことを受け、歴史家が米紙「ワシントン・ポスト」に寄稿している。 2021年7月2日~10月3日にかけて、「カメラの背面に立つ新しい女性(The New Woman Behind the Camera)」と銘打った特別展がニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)で開催された(現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに巡回中。会期は2022年1月30日まで)。これは、20世紀前半に活躍した重要な女性写真家の作品を紹介した写真展になる。 ニューオーリンズの黒人コミュニティで写真スタジオを開いて成功した女性写真家たちをはじめ、世界各地で

    なぜメトロポリタン美術館に第二次大戦中の「日本のプロパガンダ写真」が大きく掲げられたのか | 米紙が辛口批評「性別を理由に無闇に称賛していないか」
  • 77年前、米国に渡った5枚の写真 「日本の家族に返したい」 | 毎日新聞

    写真を米国に送ったのはワッセルさんの遠い親戚にあたる海兵隊員だったハリー・ダイニンガーさん(25歳で戦死)。マーシャル諸島に出征中の1944年3月、亡くなった日兵が持っていたこれらの写真を故郷の両親に送った。 送った理由は定かではないものの、同封されていた手紙には「僕たちが戦っている相手がどんな感じなのか分かると思う」とある。ハリーさんの故郷では当時日人に会ったことがない人が大半とみられ、ワッセルさんは「心配している母親に自分はこんな人たちに会ったと伝えようとしたのでは」と推測する。 その後、沖縄に転戦したハリーさんは45年5月に銃弾を胸に受けて故郷には帰れなかった。ワッセルさんは祖母の姉と結婚したハリーさんの兄、ボブさんにかわいがられて育ち、2002年、ハリーさんが戦地から両親に宛てた100通を超える手紙を地下室で見つけたという。「僕は元気だから心配しないで」「いい方向に向かうはずだ

    77年前、米国に渡った5枚の写真 「日本の家族に返したい」 | 毎日新聞
    wackunnpapa
    wackunnpapa 2021/05/25
    “これがリアルな兵士の心情で国のトップが伝えたい戦争とは違う”
  • 原爆翌日、遺体のそばに立つ少女 写真の龍さん死去:朝日新聞デジタル

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    原爆翌日、遺体のそばに立つ少女 写真の龍さん死去:朝日新聞デジタル
  • 東京大空襲後の朝、集合写真に写る赤ん坊 76歳の今…:朝日新聞デジタル

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    東京大空襲後の朝、集合写真に写る赤ん坊 76歳の今…:朝日新聞デジタル
  • 「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真 | 西日本新聞me

    亡くなった弟を背負った少年が、真っすぐ前を見つめる。原爆投下後の長崎で撮影したとされる写真「焼き場に立つ少年」は、11月に来日予定のローマ法王フランシスコが世界中に広めるよう呼び掛けたことで注目された。法王は言う。<このような写真は千の言葉よりも伝える力がある>。だが少年の身元も撮影場所も分かっていない。長崎市のある被爆者は今も、写真の謎を追っている。 写真は、米軍の従軍カメラマンだった故ジョー・オダネルさんが1945年に長崎で撮影。少年が焼き場で弟を火葬する順番を待っている場面だとされる。 「あの子じゃなかろうか」。長崎市の元小学校長、村岡正則さん(85)は10年ほど前、写真が長崎で公開されることを伝えるニュースを見て驚いた。同じ銭座国民学校(現銭座小)に通っていた少年にそっくり。学級は違ったが、何度か校庭で遊んだことがある。丸顔でおとなしい性格。転校生だったと記憶するが、名前は思い出せ

    「焼き場に立つ少年」はあの子?謎追う被爆者 ローマ法王注目の写真 | 西日本新聞me
  • 戦時中のB29墜落 新写真が見つかる 邑楽の元町長が撮影?|社会・話題|上毛新聞ニュース

  • 占領軍が記念撮影したヒロシマ 人気観光地だった爆心地:朝日新聞デジタル

    広島平和記念資料館(広島市中区)は10日、被爆直後から占領期にかけての広島市内の様子を伝える写真32枚を報道機関に公開した。米国とニュージーランドで調査し、新たに収集したものだ。爆心地付近で米国人らが記念撮影をする姿など、占領軍にとって広島が「訪れたい地」だったことをうかがわせる。 広島県内には1945年10月から米軍が進駐し、46年3月にニュージーランドも加わる英連邦軍が引き継いだ。今回収集したのは、この時期に各国の軍人らが撮影した写真だ。 45年秋ごろ撮影された写真では、広島市役所の看板が「CITY HALL」と掛け替えられていた。「CENTER OF IMPACT」(爆心地)と看板に書かれた無線用の鉄塔の前に2人が並ぶ写真は、48年12月に連合国軍総司令部(GHQ)職員が夫婦で旅行した際のもので、個人のアルバムに残されていたという。 原爆ドームそばの碑の前に並…

    占領軍が記念撮影したヒロシマ 人気観光地だった爆心地:朝日新聞デジタル
  • 広島原爆アーカイブ:被爆3日後の惨状生々しく 毎日新聞記者が撮った40枚の写真 | 毎日新聞

    (9)通・播磨屋町(現広島市中区通3~4番地)付近から東を撮影。手前に倒れているのは商店の多かった通沿いに立ち並んでいた鉄製の電柱。奥の建物は左から商工組合中央金庫広島支所、福屋旧館、福屋新館、中国新聞社、大林組広島支店。(爆心地から450メートル)=広島市播磨屋町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証 核廃絶の「原点」後世に残すべき記録 1945年8月6日午前8時15分、人類史上初の核攻撃で破壊し尽くされた広島。その3日後、毎日新聞記者が撮った原子野の光景は、「核廃絶の原点」として後世に残さなければならない記録となった。 毎日新聞社が所蔵する被爆3日後の写真は40枚。2016年秋以降、広島平和記念資料館(原爆資料館)などの協力を得て検証し、爆心地から210~1900メートルの範囲で少なくとも17カ所の撮影地点が判明した。撮影した国平幸男記者(故人)は「フィルム4

    広島原爆アーカイブ:被爆3日後の惨状生々しく 毎日新聞記者が撮った40枚の写真 | 毎日新聞
  • 広島原爆:きょう72年 8カ月後の息吹 | 毎日新聞

    被爆から約8カ月後のカラー写真。旧広島瓦斯社(中央)の右奥には旧燃料会館(現・レストハウス)、右端に旧川国民学校も見える=原医研提供 1946年春ごろに広島原爆の爆心地から500メートル圏内を写したカラー写真が、広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)で見つかった。写真は米軍病理学研究所(AFIP)から73年以降に返還された資料の一部で、原爆の威力を調べた米戦略爆撃調査団が撮影したとみられる。被爆から約8カ月後でも爆心地付近は焼け野原のままだが、バラックなどが確認できて少しずつ復興する様子がうかがえる。 当時、カラー写真の撮影技術があるのは米軍などに限られ、原医研は「被爆の実相が詳しく分かる貴重な資料」としている。

    広島原爆:きょう72年 8カ月後の息吹 | 毎日新聞
  • 広島原爆アーカイブ:「近寄るな」軍人、病床で最期の抵抗 | 毎日新聞

    大野陸軍病院で患者を診察する米国マンハッタン管区調査団。中央は東京帝国大の都築正男博士=広島県大野村(現廿日市市)で1945年9月10日、新見達郎撮影 広島原爆の投下から約1カ月後、広島県大野村(現廿日市(はつかいち)市)にあった大野陸軍病院を米軍の調査団が訪れていた。同行取材した毎日新聞記者が撮影した写真には、負傷者を囲むように立つ米軍人らが写っている。72年前の写真を手にした同病院の元看護師、古原(こばら)ユキエさん(92)=島根県浜田市=の耳に、原爆で傷を負った若い軍人の怒声がよみがえった。「近寄るな!」 写真は1945年9月10日の撮影で、古原さんは日米開戦の41年ごろ病院に勤め始めた。瀬戸内海を望む衛生的な職場だった。

    広島原爆アーカイブ:「近寄るな」軍人、病床で最期の抵抗 | 毎日新聞
  • 米軍空撮の3801枚公開 街並みや集落、戦中の沖縄鮮明に 県公文書館が公開 | 沖縄タイムス+プラス

    沖縄県公文書館(南風原町、真栄城香代子館長)は年度から、沖縄戦中に米軍が県内各地を空から撮影した写真3801枚を高精細化し、閲覧できる新システムの運用を始めたと22日発表した。戦災や戦後の基地建設などで変わる前の古い街並みや集落を見られるとして、多くの人の閲覧や活用を呼び掛けている。

    米軍空撮の3801枚公開 街並みや集落、戦中の沖縄鮮明に 県公文書館が公開 | 沖縄タイムス+プラス
  • 密かに撮られたポーランドのユダヤ人ゲットー

    密かに撮られたポーランドのユダヤ人ゲットー ユダヤ人写真家のヘンリク・ロスが第2次世界大戦中にポーランドで撮影したゲットー(ユダヤ人隔離地域)の様子。「死の収容所」に移動させられる子供たちや、追放される家族の様子などが写真に収められている。ロス自身がゲットーに収容されながら、命がけで撮影した。

    密かに撮られたポーランドのユダヤ人ゲットー
  • 「戦争の残虐性どこまで伝えるべきか」報道写真家らが議論 仏

    エジプト・カイロで、軍によって解任されたムハンマド・モルシ元大統領の支持者と警官隊の衝突で負ったけがの治療を受ける少年(2013年8月16日撮影)。(c)AFP/VIRGINIE NGUYEN HOANG 【10月15日 AFP】紛争を報道するとき、どこまで衝撃的なイメージを伝えるべきなのか──仏北西部バイユー(Bayeux)で開かれた「バイユー戦争報道特派員賞(Bayeux-Calvados)」のイベントで先週、熱い議論が交わされた。 トルコやアフガニスタン、スリランカ、インドの紛争や紛争後の問題を報じてきたインド人写真家、サミ・シバ(Sami Siva)氏は「難民たちが逃れてきた暴力を見せずに、彼らを受け入れるべきだと人々を説得できるだろうか?」と述べた。 しかしイラクのクルド人写真家、ユニス・ムハンマド(Yunes Mohammed)氏はこれに反論。暴力的な写真を報道することは、イス

    「戦争の残虐性どこまで伝えるべきか」報道写真家らが議論 仏
  • タイムズスクエアで終戦を祝う「キス写真」の女性が死去 92歳

    イタリア・ローマで開かれた「LIFE 偉大なフォトグラファーたち」展に展示された、カメラマンのアルフレッド・アイゼンスタット氏が撮影した写真の前を通る来場者(2013年4月30日撮影、資料写真)。(c)AFP/GABRIEL BOUYS 【9月11日 AFP】第2次世界大戦(World War II)の終結を喜ぶ水兵からドラマチックにキスをされる姿が、後に世界的に有名になった写真に撮影されていた女性グレタ・ジマー・フリードマン(Greta Zimmer Friedman)さんが8日、肺炎のため死去した。92歳だった。ニューヨーク・タイムズ(New York Times)が息子ジョシュア(Joshua Friedman)さんの発言として伝えた。 【関連記事】終戦祝う「勝利のキス」、米NYで再現イベント 日の降伏が伝えられた1945年8月14日、フリードマンさんは米ニューヨーク(New Yo

    タイムズスクエアで終戦を祝う「キス写真」の女性が死去 92歳
  • 60年代の北部訓練場ベトナム村 「まさか、こんな施設が」 沖縄の実態語る写真 - 琉球新報

    沖縄県東村と国頭村にまたがる米軍北部訓練場。7月22日には新たなヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の工事を国が強行し、反対する住民と機動隊が激しくぶつかり合う緊迫状態が続いています。豊かな自然に抱かれた地域ですが、1960年代にはベトナム戦のゲリラ戦訓練のための通称「ベトナム村」が設置され、東村高江の住民が戦闘訓練に動員されていました。2015年4月14日付の琉球新報に掲載された記事をあらためてご紹介します。(日付、年齢は掲載当時のものです) 北部海兵隊訓練場(当時)のゲリラ戦訓練施設「ベトナム村」。先端をとがらせた丸太を突き立て、外部からの攻撃に備えるベトナム現地の様子を模したとみられる様子が分かる=1964年ごろ、横堀洋一氏撮影 米軍が1960年代、ベトナム戦争のゲリラ戦訓練などのために沖縄島の米軍北部訓練場に設置した通称「ベトナム村」内部の写真が、13日までに見つかった。先端を鋭利に

    60年代の北部訓練場ベトナム村 「まさか、こんな施設が」 沖縄の実態語る写真 - 琉球新報
  • 長崎原爆:黒焦げの少年、身元判明か 法医学者ら写真鑑定 | 毎日新聞

    谷崎昭治さんの可能性がある少年の写真を手に説明する深堀好敏さん(右)と、谷崎昭治さんの妹西川美代子さん=長崎市の長崎原爆資料館で2016年6月13日午前10時25分、今手麻衣撮影 長崎原爆投下翌日に爆心地付近で黒焦げになった状態で写真に撮影された少年が、旧制県立瓊浦(けいほ)中1年だった谷崎昭治さん(当時13歳)の可能性があることが13日、分かった。谷崎さんの妹で長崎市の西川美代子さん(78)と長崎平和推進協会写真資料調査部会長の深堀好敏さん(87)らが市内で記者会見し、明らかにした。西川さんらが名乗り出たため、法医学者らが少年の写真を鑑定していた。 写真は、旧陸軍報道部の山端庸介氏(1917〜66年)が撮影。焼死した少年があおむけに倒れている。長崎原爆資料館に展示されているが、少年の身元は分かっていない。

    長崎原爆:黒焦げの少年、身元判明か 法医学者ら写真鑑定 | 毎日新聞
  • 「黒焦げの少年」身元判明か 長崎原爆 妹2人名乗り出て鑑定 「71年かかりやっと会えた」 - 西日本新聞

    谷崎昭治さん(左端)と西川美代子さん(右端)が写る、鑑定に使用された家族写真 写真を見る 長崎原爆資料館に展示されている写真「黒焦げとなった少年」=13日午前、長崎市の長崎原爆資料館 写真を見る 記者会見する(左から)谷崎昭治さんの妹、山口ケイさん、西川美代子さん、深堀好敏会長=13日午前、長崎市内 写真を見る 長崎原爆の写真調査を続ける長崎平和推進協会写真資料調査部会は13日、長崎原爆の投下翌日に爆心地近くで撮影された「黒焦げとなった少年」に写っている人物が、長崎市岡町の当時中学生の13歳、谷崎昭治さんの可能性があると発表した。昨夏、写真を見た谷崎さんの妹2人が「兄ではないか」と名乗り出たため、同会が専門家らに依頼し鑑定した。被爆から71年、原爆の悲惨さを世界に伝えてきた写真の少年が誰なのか、解明に近づいた。  写真は1945年8月10日、写真家の故山端庸介さんが撮影。故伊藤一長前長崎市

    「黒焦げの少年」身元判明か 長崎原爆 妹2人名乗り出て鑑定 「71年かかりやっと会えた」 - 西日本新聞
  • 復帰前沖縄の核兵器写真見つかる 実戦配備、生々しく - 共同通信 47NEWS

    沖縄の米軍嘉手納基地で戦闘航空団技師によってF100戦闘機に装着される水爆「マーク28」。最大1・4メガトンの破壊力を持つ。撮影日はキューバ危機が深刻化していた「1962年10月23日」となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)  沖縄・米軍嘉手納基地内で台車に備え付けられる核弾頭「マーク7」。潜水艦攻撃に使われるほか、複数のミサイルに搭載可能。爆発力は1~70キロトンとされる。撮影日はキューバ危機の最中の「1962年10月23日」となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)  核巡航ミサイル「メースB」。キャプションには「沖縄」とだけ書かれている。撮影日は「1962年4月」。メースBには爆発力1メガトンの核弾頭「W28」の搭載が可能。コンクリート製の格納庫で発射命令に備えていた(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)  土復帰前の沖縄の米軍基地

    復帰前沖縄の核兵器写真見つかる 実戦配備、生々しく - 共同通信 47NEWS