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音楽と思想に関するImamuのブックマーク (35)

  • 灰野敬二、ロスト・アラーフを語る | Mikiki by TOWER RECORDS

    やりたいから乱入する ――ロスト・アラーフ加入前に参加した〈実況録音〉はブルース・ロックのバンドとのことですが、加入の経緯と活動内容を教えてください。 「加入の経緯は思い出せない。高校を辞めた後に、都内の別の高校に行っている友達に誘われて彼の同級生のバンドに参加して、彼の高校の学園祭で1回だけライブをした。学外のメンバーが参加するのは異例のことで少し揉めたけど。多分その時のライブを実況録音のドラマーの高橋さんが観てくれて誘ってくれたんじゃないかな。錦糸町でリーダーの伊藤(寿雄)さんを紹介してもらった記憶がある。 実況録音はフリートウッド・マックみたいなブルース・ロックをやっていた。ベースはのちにカルマン・マキ&OZに入る川上シゲさんだった。ビアホールやジャズ喫茶で演奏したけど、音がでかい、ヴォーカルがわけわからん、と言われていつも途中でライブを中断させされた」 ――ロスト・アラーフに加入す

    灰野敬二、ロスト・アラーフを語る | Mikiki by TOWER RECORDS
    Imamu
    Imamu 2021/02/10
    「社会を批判しているくせに、奴らは自らも飲酒や喫煙など社会の悪習慣に染まっていた」「学生団体、ヒッピー、演劇集団、新興宗教、人が集まればろくなことをしない。だからフォーク・ソングは大嫌い」
  • ブライアン・イーノが語る、ポストコロナ社会への提言とこれからの音楽体験 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)

    2020年に音楽活動50周年を迎えたブライアン・イーノは、多くの顔を使い分けながら新しい歴史を切り拓いてきた。70年代からポップ音楽にアートの前衛精神を持ち込み、近年最注目されているアンビエント・ミュージック=環境音楽の概念を確立。デヴィッド・ボウイのベルリン三部作に貢献し、プロデューサーとしてトーキング・ヘッズやU2などに携わり、映画テレビ番組のスコアでも輝かしい功績を残してきたほか、インターネットの普及を牽引したWindows95の起動音や、iPhoneの自動音楽生成アプリ「Bloom」の制作などを通じて、科学やテクノロジーの領域にまで影響をもたらしている。リベラルな現代思想家としても知られるイーノは、パンデミックに見舞われた2020年に何を考え、どのような未来を思い描いているのか? ※この記事は2020年12月25日発売の『Rolling Stone JAPAN vol.13』に掲

    ブライアン・イーノが語る、ポストコロナ社会への提言とこれからの音楽体験 | Rolling Stone Japan(ローリングストーン ジャパン)
    Imamu
    Imamu 2021/01/06
    「Radio Garden~世界中のラジオを聴きながらひたすら散歩」「NetflixよりもMUBIというアート・フィルム専門の配信サービスのほうを」「人間は身を委ねるのが好きなんだと思う」「コンピューターにはアフリカが足りない」
  • 〈綺想異風派〉――80年代/90年代の音楽批評を分かつもの|後藤護

    ようするに〈マニエリスム〉のあるやなしや、である。 以下の引用が80年代地下音楽宣言の精華といっていい。 阿木譲「雑種と綺想異風派音楽」 境界領域が曖昧な80年代音楽は、歪曲的、超現実的、抽象的で、霊感と感情だけをたよりにマニエリスム世界を表現する。それらの誰とも、どっちともつかぬハイブリッドな《歪曲された遠近法》の中の迷宮世界は、拡大された微粒子間の隙間(空白)のように、ただ無感覚なものだ。 死という鏡と隣り合わせにあるヨーロッパは、再びゴチック・ロマンスやニュー・ロマンティックスを謳うことによって、中世の幻想の森に踏みこんでいる。その不可視の神の世界は我々の凸凹した精神のように、綺想異風な出で立ちで、すでに原子核分裂の放射能をうけたかのような症状を呈している。 しかし、暗い。 そしてとっくに狂いだしている。 雑種=それは多過ぎるゆえの詭弁。概念のニュー・モード。自己のサブジェクトへの信

    〈綺想異風派〉――80年代/90年代の音楽批評を分かつもの|後藤護
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    Imamu 2020/06/24
    「マニエリスムを筆頭に、音楽批評からそうした「曖昧なもの」「深淵なもの」「詩的なもの」が排除されたのは明確に90年代」
  • 「ゴシック・カルチャー」論じる新世代の暗黒批評家・後藤護さんインタビュー|好書好日

    文:篠原諄也 写真:北原千恵美 後藤護(ごとう・まもる)暗黒批評家、映画音楽ライター、翻訳家。 1988年山形県生まれ。『金枝篇』(国書刊行会)の訳文校正を担当中。また「高山宏の恐るべき子供たち」をコンセプトに掲げる「超」批評誌「機関精神史」の編集主幹を務める。黒眼鏡を着用。 苦しむ知性、滅びの美学 ――「暗黒批評」とは何でしょう? 暗黒批評……僕のやってることですよ(笑)。ただのキャッチフレーズなんですよね。もともとゴシック・ロマンスやフィルム・ノワールが凄い好きでした。それを日語にすると、暗黒小説や暗黒映画になるらしいと。ああ暗黒舞踏もあるなとか気づき始める。暗黒というのは、結構何にでもつくんだなと思っていたところ、とうとう哲学の人まで「暗黒啓蒙」(ニック・ランド)とか「ダークエコロジー」(ティモシー・モートン)と言い出したぞ!と。これはもう批評全体が暗黒化せねばなるまい!と思って

    「ゴシック・カルチャー」論じる新世代の暗黒批評家・後藤護さんインタビュー|好書好日
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    Imamu 2020/01/09
    「ゴスロックに関しては4ADレーベルを落としてしまったのは痛い。好きすぎて書けなかったんです」「ゴシックを脱構築するものとして、アフロ・カルチャーはあるなと」
  • FKA twigs日本公演ライヴレポート - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME

    ライブレポートなんて書くのは生まれて始めてなので、面白く成るかどうか解らないのですが、何となく「自分が書くべきだ」と思ったのでやってみます。最初に書きますが、会場には野田努、三田格両氏がいて、久しぶりに3人で話したのですが、お二人はインタビューを複数回されたようなので、併せてお読み頂けると3Dだと思われます。またこれは、テキストコンテンツとして試運転なので、有料/無料共に同じ文字数と写真数で同時に掲載させて頂きます。有料世界の方は、試供品であると解釈して下さると幸いです。 また、以下、FKA twigsについての説明は一切しません。今年が実質的デビューのブライテストホープなので、検索すると読み切れないほどの紹介文と、見きれないほどの動画が出て来ます。お若い人にとって、そのPVは人生が変わる様な経験にさえ成り売る可能性を秘めています。 <2015/1/22FKA twigs日初公演@恵比寿

    FKA twigs日本公演ライヴレポート - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME
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    Imamu 2015/01/24
    "「○○系」として、系統ずけの安心感によるコンテンツ商売~不況時にぴったりの商法によって飼いならされた感受性/身体性" "退行を含まぬよう心掛けて書いた~退行しか読解の筋道が無いネットジャンキー的な方々"
  • うろ覚えの”J”ポップ時評 第3回(from『エクス・ポ』第一期) « SOUL for SALE

    第03回:「風景としての仲間」 生殖行為のような生々しい現実は、公共圏においては隠される必要があり、それは情交に関わる表現を、どこかふわふわとしたイメージで覆っていく一方、不安定化した現代における「安定」のよすがとしての生殖-家族というテーマが求められるようにもなっている。その二重性が、ケータイ小説や最近のラブソングの、ある種奇妙な感覚を生み出しているのではないか、というのが前回までに僕が提示した仮説でした。 ところで、広義の公共圏で行われるコミュニケーションには、政治的議論や企業活動のようないわゆる「公的」な場面で行われるもの以外にも、多様な形態があり得ます。性風俗はその中でももっとも限界的な領域だと思いますが、その他にも「飲み屋」や「クラブ」などで広がる談義・社交も、公的なものと私的なものの中間的な性格を有しています。 公共圏にこうした「第三空間」としての盛り場を見いだしたのは社会学者

    うろ覚えの”J”ポップ時評 第3回(from『エクス・ポ』第一期) « SOUL for SALE
    Imamu
    Imamu 2014/02/20
    「レゲエとツタヤが一緒に並んでしまう日本の邦楽の環境は、なんて豊か~毒にも薬にもならないトラックに、シンガーが等身大の表現」「バックバンドの演奏がうまいほど個性を失うという意味で、ひどくJ-POP的」
  • GRAPEVINEの歌詞について ―またはJポップの曖昧な歌詞の多様性について  | いびつなロケット13号

    grapevneの新譜を買って、「無心の歌」から「1977」の流れは、最初聞いたとき作業していた手が止まってしまった。どちらも、今年の自分の心情と重なる部分が多くて、ずっと延々にリピートし続けています。 そんで、GRAPEVINEについて、二年前にまとまった文章を書いて、ブログにアップせずにいたのですが、何かヒット数もバインの記事絡みが多いので、挙げておきます。 二年前なんで、新譜の歌詞の話はまったくないのですが、最近の歌詞についても当てはまることを言っている気はする。(2chの歌詞スレに割と同じような言及はありそうだけど。)後、ラスト書いたことはブログに書いたものの反復だけど、それはまぁ許して。 GRAPEVINEの歌詞について ―またはJポップの曖昧な歌詞の多様性について 一、はじめに 九〇年代後半のJPOPにおけるロックバンドの傾向として、洋楽のリズムを如何にして日語の中に取り込ん

    GRAPEVINEの歌詞について ―またはJポップの曖昧な歌詞の多様性について  | いびつなロケット13号
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    Imamu 2013/12/08
    『ユリイカ』「Jポップの詩学」//「歌詞カードに書かれている文字と、それを口にしたときの意味の差異や二重性」
  • ジャンルとアイデンティティ――ポピュラー音楽学におけるジャンル論の簡単な(いい加減な)まとめ2+ - 死に舞

    前回が長くなってしまったので、今回はアイデンティティの問題、とくにジェンダー、セクシャリティとジェンルの関係についての研究をざっと補足しておきます。アイデンティティはカルスタ、ポスコロとかの中心問題であるんで、理論的蓄積とか周辺の議論が込み入っていますので、その辺はとても手におえないです。ハイ。自分はあくまでもジャンルに関して言語哲学的な立場から研究しようとしてるんで、まあこの辺は基礎教養としてしか押さえることができません。 音楽ジャンルとジェンダー、セクシャリィティの間にいかなる関係があるのだろうか、という問いはポピュラー音楽において非常にありふれたものであります。ロックは往々として男性的なものとして語られ、ディスコはゲイ的なものとして表象されたりすることは珍しいことではありません。ポピュラー音楽研究では、この関係においても人種やエスニシティといった他の社会的アイデンティティと同様に、

    ジャンルとアイデンティティ――ポピュラー音楽学におけるジャンル論の簡単な(いい加減な)まとめ2+ - 死に舞
    Imamu
    Imamu 2013/12/07
    「自分たちのセクシャリティを表現しているのではなく、むしろ「一体性課業(identity work)」~巻き込まれている」「流用(appropriation)されうる」「接合(articulation)~音楽の社会的意味は生産と消費が出会うところで初めて」
  • 「浮世絵化するJ-POPとボーカロイド」をアメリカ音楽好きはどう読んだか、あるいは僕がレコードを買い続ける理由 : The Fuckin' Return Of Kaname

    今ネット上であるブログが話題になっている。 柴那典さんの《浮世絵化するJ-POPとボーカロイド 〜でんぱ組.inc、じん(自然の敵P)、sasakure.UK、トーマから見る「音楽の手数」論》がそれだ。 僕も話題になっているので読んでみたが。 認識にいろいろツッコミ所があり、また結論ありきの文章にしか思えなかった。 そもそも前提として提示される「アメリカやイギリスで生まれた新しい音楽のスタイルが少し遅れて日でも花開く。そういうムーブメントのあり方が当たり前だった。でも、00年代以降、そこが切り離された。」まずこの前提が大間違いであり、この前提にしても結論ありきの前提としか読めず、これで一気に萎えた。 ここでガラパゴス化ということについて書き進めてみるが。 日音楽においてガラパゴス化が観測され始めたのは、70年代頭。海外音楽を下敷きにした人たちの音楽を下敷きにした人たちというのが出て

    Imamu
    Imamu 2013/06/03
    「歴史観というものは彼の周辺にいる人たち、つまりゼロ年代のディープなリスナー、評論家では重要視されていないということ。だから、あのような粗の目立つ文章が生まれたと思うのだ」
  • マーク・ボランの「声」 | ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

    昨日で全学授業「60-70年代のロックジャイアンツを聴く」の全講義が終了した。最終回はT・レックス(マーク・ボラン)。途中、マーク・ボランの「声」の特殊さをいおうとして、ふとロラン・バルトの「声のきめ」の話をした。 「声」は描写できない。それをかたる語彙がないのだ。ただしみずからの好悪は歴然と人の声にきざす。ということは、それをひとはエロス覚でとらえるしかない。 同時に声は「選別」だ。男声と女声はほぼ聴いた途端にその性別を判断できる(その中間にあるものも「いかがわしさ」として即座に判別できる)。同時に親しい者の声は、たとえば通りすがりに姿をみないままでも、そのひとの声と類別できる(似た声があったとしても)。ならば声はその者の個別性の極みというべきなのだろうが、上述したようにこれが記述可能性とは無縁なのだ。つまり個性はその芯に記述できない脱意味をかかえこんでいるということになる。 声には系譜

    Imamu
    Imamu 2013/01/25
    「「声」は描写できない」「同時に声は「選別」だ」「身も蓋もない絶対的好悪に、ある種の謙譲とやわらかさを、いかにも分析的に付与するしかない」「断定に謙譲の質感をあたえるのは、単純に「断定の数」の多さ」
  • 渡邊芳之先生ynabe39の「日本におけるクラシック音楽が「ハイカルチャーではない」というのはその通りで、むしろその市場を支えていたのは「貧乏人の教養主義」である。」

    渡邊芳之 @ynabe39 日におけるクラシック音楽が「ハイカルチャーではない」というのはその通りで、むしろその市場を支えていたのは「貧乏人の教養主義」である。だからこそ教養主義が滅びつつあるいま日のクラシックが危機なのだと思う。 2012-02-19 06:23:20 渡邊芳之 @ynabe39 「歌謡曲やポップスよりも高級な音楽としてジャスやクラシックがある」というイメージはもちろんナンセンスなんだけど、日のジャズやクラシックの市場がそういうイメージによって支えられてきたのも無視できない事実だ。 2012-02-19 06:30:50

    渡邊芳之先生ynabe39の「日本におけるクラシック音楽が「ハイカルチャーではない」というのはその通りで、むしろその市場を支えていたのは「貧乏人の教養主義」である。」
    Imamu
    Imamu 2012/08/03
    「日本のクラシックファンやジャズファンが音楽ではなく「物語」を聴いている」物語を聴いているか。。。
  • 20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から

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    20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から
    Imamu
    Imamu 2012/07/24
    「作品に基づいて奥から手前へという動き」「外部からの侵入~文学、アメリカ経済、建築、社会学」『眼の神殿』『日本近代文学の起源』『反美学―ポストモダンの諸相』『モダニズムのハードコア』
  • たまと嘘つきバービー | ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

    ロックバンド講義の期末レポートの採点をして、ますますつよく感じだしたのは、「ただ音を聴き、ただ歌詞を読んで、レポートを書いてくれ」と依頼したのに、ネット時代の通弊で、ネット文献をアレンジしそこに自分の意見を少量添える論文が多すぎるということだった。バンド履歴、チャート順位などの情報が羅列される一方で、バンドメンバーの演奏のぶつかりが有機的に分析されている論文は稀少。 この傾向はポピュリズムに支配された「音楽への接し方」ともつながっているらしく、ビートルズやバンプ・オヴ・チキン、ラルク・アン・シエルなどをあつかった論文にとくに顕著で、しかもラルクにかんしてはつよい思い入れがそこに付随するという、共通の傾向がさらにある。それで何度も同じ論文に出くわしている感触になる。またもや、お決まりのこと――多様性と平準化。バンドの属性が、そのままバンドにかかわる言説を決定してしまうのだ。神聖かまってちゃん

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    Imamu 2012/02/02
    「ロックバンド講義の期末レポートの採点~ポピュリズムに支配された「音楽への接し方」~ラルクにかんしてはつよい思い入れがそこに付随」「バンドの属性が、そのままバンドにかかわる言説を決定してしまう」
  • リトル・ピープルの歌謡史(ツッパリHigh-School Rock'n Roll登校編) - kenzee観光第二レジャービル

    kenzee「それでは「校歌のリトル・ピープル化」問題を考える前にだね、「学校で歌わされる歌」のもう一つのジャンルについて触れておかねばならない。「卒業式で歌う歌」だ。一般には「仰げば尊し」が定番だと考えられているが80年代に「贈る言葉」がブレイクして以降、なし崩し的に「卒業式の歌は歌謡曲からチョイスするのもアリ」という状況が生まれる。その後、オフコース「さよなら」とかユーミンさん「卒業写真」とかJ-POPから選曲されるのが一般的となる。こういった「卒業式の歌」の変容が校歌のJ-POP化、リトル・ピープル化に影響を与えていったであろうことは想像に難くない。ところでみなさん、今、中高生が卒業式にナニ歌ってるか知ってますか」 司会者「なんだろう、この森達也のような導入は」 kenzee「ORICON STYLE(2011年3月9日配信)に「2011年卒業ソングランキング」という特集がある。アナ

    リトル・ピープルの歌謡史(ツッパリHigh-School Rock'n Roll登校編) - kenzee観光第二レジャービル
    Imamu
    Imamu 2011/09/05
    『「大空へ」「翼をひろげて」「鳥のように飛ぶ」歌とは大昔からあるような気がするが、実は90年以降に作られたものがほとんど』「Yahoo!歌詞は60年代、70年代の歌謡曲の歌詞データもバッチリ」
  • なぜ音楽について語りたがるのか?──音楽の倫理学に向けて | 増田聡

    なぜ音楽について語りたがるのか?──音楽の倫理学に向けて | 増田聡 Why Do You Want to Talk about Music ? : Toward Ethics of Music | Satoshi Masuda 誕生から約一世紀半にわたる音楽学の歴史は、テクスト中心主義からコンテクスト主義へのゆるやかな移行の歴史として描くことができる。人文学の一分科としての音楽学が確立されたのは一九世紀後期のドイツでのことであるが、そこでは国民国家イデオロギーを底流としつつ、当時世界に君臨していたドイツ芸術音楽を中心とするヨーロッパ音楽を主な対象に、優れた音楽作品「それ自体」の来歴を実証的に後づけ、その構造を「客観的」に構造分析する作業が学科の中核をなしていた。いわゆる歴史音楽学=音楽史学と、音楽理論の二つが音楽研究の中心的なディシプリンであったわけだ。しかし一方で、「諸民族の音楽の比

    なぜ音楽について語りたがるのか?──音楽の倫理学に向けて | 増田聡
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    Imamu 2011/08/30
    「音楽を巡る言説~美的=倫理的定言命法が満ちあふれて」「音楽批評が「まともな言説」であるために~「音楽それ自体」の意味を独占するべく奮闘することではなく、これら倫理的言明の解読と脱構築を推進」
  • 磯部涼「音楽の(無)力」 - ビジスタニュース

    磯部涼「音楽の(無)力」 2011年05月24日00:00 担当者より:音楽ライターの磯部涼さんに、311以降の状況を踏まえ、音楽の力について論じていただいたものです。磯部さんは今年の夏にこれまでの原稿をまとめた『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)が刊行予定で、そちらも要注目です。 更新日:2011/05/23 3月11日14時46分、その時、部屋に流れていたのはアンテナのベスト・アルバムだった。早春の午後の柔らかな日差しに、如何にも80年代的な音色を纏った薄いサウダージがぴったりで、実に良い気分だったのを覚えている。そして、あの地震が起こった。筆者は渋谷区在住のため、被害は床に積んであったCDやレコードが倒れたぐらいで大したことはなかったのだが、それでも経験したことのない揺れで何処か非現実感があった。同時に、その間も鳴り続けていた音楽が上滑りして行くような妙な感覚が印象に残

    Imamu
    Imamu 2011/05/24
    「音楽がもたらす共同幻想もまた同調圧力と化し、その欺瞞に加担してしまっている」「音楽は無力だからこそ、そこに様々な意味を付与され、利用されて来た」「復興支援ソング~同調圧力~暴力」「あの無音の日々」
  • 連載「現場から遠く離れて」第二章 ネット環境を黙殺するゼロ年代史 【1】 - WEBスナイパー

    第二章 ネット環境を黙殺するゼロ年代史 【1】 ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。 前章で我々は「現場」という概念について、いくつかのことを確認した。まずそれは文化創出という大義を担わされたものであり、しかしながら実はそれ以前に物理的な場所であることが重んじられている。ところがインターネットの台頭によって我々の現実はそれ以前とは移り変わっているにもかかわらず、サブカルチャーを読み解くための思想はそれ以前の考え

    Imamu
    Imamu 2011/04/03
    (かまってちゃん)「内面性と音楽性を関連付けて語る~従来的な音楽ジャーナリズム」「パフォーマンスへの欲求は内面性の発露である前にカメラの存在に後押しされている」
  • 連載「現場から遠く離れて」第一章 ゼロ年代は「現場」の時代だった 【3】 - WEBスナイパー

    第一章 ゼロ年代は「現場」の時代だった 【3】 ネット時代の技術を前に我々が現実を認識する手段は変わり続け、現実は仮想世界との差異を狭めていく。日々拡散し続ける状況に対して、人々は特権的な受容体験を希求する――「現場」。だが、それはそもそも何なのか。「現場」は、同じ場所、同じ体験、同じ経験を持つということについて、我々に質的な問いを突きつける。昨今のポップカルチャーが求めてきたリアリティの変遷を、時代とジャンルを横断しながら検証する、さやわか氏の批評シリーズ連載。 宇川はおそらく、先に挙げたインタビューの中で、日のクラブカルチャーが付加する意味合いを込めて「現場」という言葉を発している。つまりこれには「事件や事故が実際に起こった場所。また、現にそれが起こっている場所。げんじょう」(大辞林より)という原義を越えた含意がある。文化人類学者のイアン・コンドリーは、この言葉を特に日のヒップホ

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    Imamu 2011/03/20
    イアン・コンドリー:現場(=シーン)「相互作用によって成長する文化活動の総体」/supercell→身体性、場所自体は必要なのか?
  • 菊地成孔 kikuchinaruyoshi.com

    Best ways to assure the replacement of the damaged or leaked plumbing line and accessories is done in the right way Damaged and leaked plumbing lines and accessories are never needed at home or in any of the building because damaged plumbing lines always cause a mess around the house and you will not be able to tolerate such things in a way or another. That is why most people may call for a plumbi

    Imamu
    Imamu 2011/03/18
    「演奏(労働)して頂戴したお金を寄附~回りくどい事を、わざわざする意味がどこに」"「こんなとき、○○○としてなにが出来るのか考えています」と仰りがち""音楽は偏在性を強く示す営みで、時空を超えるという属性"
  • ギャル演歌の世界へようこそ Part.2 « SOUL for SALE

    完全にノリで書いたのに、気づいたら速水さんの連載をはじめ、微妙な広がりを見せている「ギャル演歌の世界」。自分としては、批評的な距離感もなく、揶揄する意図もなく、ただ目の前にある風景――音楽があって、それが好きだというコがいて――について「わかるわかる!」の気持ちで書いたので、変に展開するのもどうかなと思ったのだけど、「オタク」の例を挙げるまでもなく、言葉の一人歩きは怖いし、最近某所でインタビューされたこともあったので、そこでの話を元にしつつ、簡単に。 まずギャル演歌の定義について。前のエントリでは「内向的でうじうじしていて、依存心が強く、当は男に引っ張ってほしいけど、でもそれが叶わないからがんばって一人で生きるんだってパターン」って書いたもんで、これが定義みたくなっているのだけど、さすがにざっくりしすぎなので、以下のような歌詞が特徴的な女性アーティストの楽曲、ということにしてみたい。 (

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    Imamu 2010/08/21
    『女性同士の友情を描いた作品も~男は裏切るけど、友情は裏切らない~ガールズトークとか女子会とかのブームともリンク』コギャル・ソング「ここはどこ?わたしはだれ?」系/ギャル演歌「幸せになりたい!」系