人は結構「正しいこと」や「善いこと」に弱い。それがはらんでいる危うさや、担ってしまっているやもしれない体制補完的役割に何かきな臭さを感じたとしても、耳を塞いだり目をそむけたりしてしまう。そして「正しいこと」や「善いこと」を語り行う人はもちろんそれを疑ったりなど毛頭せず、自信満々に他人にも「せよ」と言う。 こうした事柄をきちんと見すえ批判することは、実は大変に困難で、時には一斉に反発されかねないという厄介さも抱えることになるのだが、今月末刊行予定の『包摂と排除の教育学』の中で、著者の倉石一郎さんは、その困難さや厄介さをきっちり引き受けている。 例えば、1970年代初頭の全朝教の教育実践の語りを読み込んで、倉石さんは以下のように言う。 <……「人間」であるための資格要件として、教育可能性がたえず参照されることが問題なのである。ここには「educableな存在(=「人間」)だけに教育は施すことが