江戸時代から昭和初期にかけ、庶民の身近にあった地図はどのようなものだったのか。日本列島が描かれた伊万里焼(いまりやき)の皿や、当時ベストセラーとなった木版の図などを並べた企画展「地図を楽しむ」が、神戸市中央区京町の市立博物館で開かれている。(井原尚基) 同館は、八千点以上という日本有数の古地図を所蔵し、地図をテーマとする企画展を定期的に開いている。今回は、過去の人々と同じように地図を眺めて楽しむ場にすることを狙ったという。 会場に並ぶ四十二点のうち、まず目を引く作品は、「エレキテル」で知られる平賀源内(一七二八-七九年)が考案したとされる「源内焼」の日本地図と世界地図。現代の地図と比べて陸地の形がややいびつなものの、緯度目盛りが記されるなど、当時としては高度な技術が用いられている。 また、十点展示されている伊万里焼の絵皿は、じっくり見ると、日本列島の北に「小人国」、南に「女護(にょご)国」
兵庫県姫路市は4日、平成21年度から始まる世界文化遺産に登録されている国宝・姫路城の「平成の大修理」の概要を発表した。5年をかけて、白鷺城と形容される美しい外壁のしっくいを塗り替え、屋根瓦をふき替えるほか、耐震性を高める構造補強も行う。 5層6階の大天守を約4年間、鉄骨と鉄板でできた「素屋根(すやね)」(最上部の高さ約52メートル)で上からすっぽり覆うため、外からは見えなくなる。このため工事期間中は、素屋根の内側に見学者用のエレベーターを設置。地上30メートル以上の高さに見学室を2つ設け、屋根の修理作業などをガラス越しに眺められるよう工夫も凝らす。工事費は28億円。 大天守は昭和31年から39年にかけて全面解体工事を実施。しかし屋根瓦や外壁の劣化が進んでおり、有識者らでつくる姫路城大天守保存修理検討会が工事方法を検討してきた。 姫路市教育委員会文化財課の村田和宏課長は「これだけ間近に見られ
◇鉄と皮で10領分―神戸市教委 神戸市教委は23日、同市西区櫨谷町寺谷の16世紀後半の在地領主、衣笠氏の居城跡とされる端谷城跡で鉄と皮で作られたとみられる10領分の鎧を発見したと発表した。市教委によると、発掘調査によって、この時代の鎧がまとまって出土するのは全国的にも珍しいという。 城跡北側の土蔵跡(縦約9・5m、横約6m)から見つかった。幅約2�p、長さ約6�pの鉄板「札(さね)」などで、鎧の装着に必要な「押付板」の数から計10領になるという。鎧は土蔵に保管されていたもので、兜や刀は発見できず、別々に保管されていたと推測される。 衣笠氏は、天正6年(1578)以降の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の三木城攻略で滅びたとされる。城は同8年(1580)の秀吉の「城割り」(城の破却)で倒され、今回発見された土蔵跡は「城割り」で倒されたままの状態と見られる。 村田修三・大阪大学名誉教授は「鎧の
兵庫県丹波市山南町で見つかった国内最大級の草食恐竜「丹波竜」の第2次発掘調査で、新たに腰骨の一部と肋骨(ろっこつ)などが見つかり、県立人と自然の博物館(同県三田市)が7日発表した。肋骨が完全な形で、まとまって発見されたのは国内では初めて。すでに発掘された頭骨や尾骨などに続く発掘で、世界的にも貴重な全身骨格が発見される可能性がさらに高まった。 また丹波竜はこれまでティタノサウルス類とみられていたが、尾骨の形状が同類と異なることが分かり、同館は、「ティタノサウルス形類」とみられることを明らかにした。新種の可能性もあるという。 見つかったのは、長方形の坐骨とみられる骨盤の一部(幅約15センチ、長さ約50センチ)と肋骨9本(最大幅約8センチ、長さ約1・3メートル)。肋骨と坐骨は約1メートル離れた個所に埋まっていた。このほか背骨や部位不明の骨の破片約1600点も発見され、すべて約2・5メートル四方の
姫路市飾磨区英賀宮町二の英賀神社が、神社と郷土史を紹介する公式サイトを開設した。同神社の祭事や史跡をたどるほか、郷土史家の絶版書を復刻するなど内容も充実している。木村尚樹宮司(35)は「地域の歴史図書館を目指したい」と意気込んでいる。(神谷千晶) 同神社周辺は「播磨国風土記」にさかのぼる由緒がある。しかし、木村宮司と岡崎秀明事務長(35)は「住民にとって神社や歴史が身近な存在になっていない」と感じ、昨年春、サイトの開設を思い立った。 地元の「サンダ印刷」の三田充さん(44)らが、デザインなどの制作を担当する。打ち合わせに約三カ月、下調べや作成にさらに約半年をかけた。県立歴史博物館や市史編集室に相談したほか、英賀城の出来事を記した「英城日記(えいじょうにっき)」を読み直す作業にも取り組んだ。 完成したサイトには、祭りの動画や「神社由緒と例祭」「参拝の作法」など、神社について分かりやすく紹介す
芳賀矢一『言泉』 あしや 蘆屋【名】〔地〕[一]筑前國遠賀郡にある町。[……] [二]攝庫國武津(ムコ)郡*1にありし里。古歌に月・螢の名所として詠ぜらる。今は精道(セイタウ)村の大字。田圃のうちに在原業平の別墅、その他古蹟多し。又猿丸太夫の古墳と傳ふる處あり。あしのや。續古今「いつもかくさびしきものか津の國のあしやの里の秋の夕ぐれ」 『新修百科大辞典』三省堂*2 昭和九年 あしや(葦屋) 兵庫縣武庫(ムコ)郡精道村の大字。打出(ウチデノ)濱の海濱で、鐵道東海道本線の一驛がある。附近は住宅別莊地。又古歌の名所。 『新修百科大辞典』博文館 昭和九年 あしや 蘆屋 (二)兵庫縣武庫郡打出濱海岸の地名。文化住宅地として知られ、月と螢の名所である。 『日本家庭大百科辞彙』冨山房 昭和二年 アシヤ・蘆屋 (二)蘆屋の里。兵庫縣神戸附近打出濱海岸。歌には「あしのや」とよむ。月と螢の名所。歌枕の一.蘆屋
十年ぶりの改訂で今月、第六版が発売された岩波書店の国語辞典「広辞苑(こうじえん)」に、「芦屋」を平安時代の歌人在原行平(ありわらのゆきひら)と愛人二人の伝説の舞台-とする誤った記述があることが分かった。伝説に基づく謡曲「松風」は須磨(神戸市須磨区)が舞台。行平を、芦屋に別宅があったとされ地名にもなっている弟業平(なりひら)と取り違えたらしい。誤記は一九五五年発行の初版から半世紀以上続いていたが、担当者らも全く気づかなかったという。広辞苑編集部は「増刷する際、修正する」としている。(小川 晶) 広辞苑第六版では、「あしや」(芦屋・蘆屋)を「兵庫県南東部の市、阪神間の高級住宅地」などと記載。その上で、万葉集の菟原処女(うないおとめ)とともに、「在原行平と松風・村雨の伝説などの舞台」としている。 「松風」は、行平に愛された松風、村雨という海女の姉妹の恋心を描いた室町時代の謡曲。旅僧の前で、恋慕を
大阪-神戸(上筒井)間の所要時間が25分であることをうたったポスター(右端、1934年)など、100年を振り返る資料が並ぶ=大阪府池田市栄本町、池田文庫 交通やショッピング、住宅など、京阪神の人々の暮らしに深くかかわっている阪急電鉄が今年、創立100周年を迎えた。単なる私鉄路線を超え、独自の文化が定着した「阪急沿線」は一つのブランドにもなっている。大阪府池田市の池田文庫では、約100点の資料で100年の歩みを振り返る記念展が開催中だ。(武藤邦生) 阪急は一九〇七(明治四十)年十月十九日、箕面有馬電気軌道として創立。一〇年三月十日、現在の宝塚線にあたる梅田-宝塚間、石橋-箕面間の総延長二八・九キロで鉄道営業を始めた。 神戸へは、二〇年に上筒井(神戸市中央区、現在の王子公園駅の約五百メートル西)まで乗り入れ。そして三六年、三宮まで延伸された。 驚くべきは、電車のスピードだ。神戸線全線開業当時の
熊内町(明治38年)熊内橋通(明治36年) 旧熊内村。くまは神で神内で生田神社の神領?くまは隈で奥まったところ?また朝霧で雲内? 畑作が盛んで大根の産地として熊内大根は有名。また若菜のすずしろは大根の若葉。 熊内橋は今の生田川の布引橋のことでこれが完成したのにちなみ。 生田町(明治32年) 旧生田村。生田川はフラワーロードから付け替えたのもだが江戸時代以前も現在と同じ流域を流れていたらしく生田村は生田神社の続きにあったので。 若菜通(明治34年) 「旅人の道さまたげに摘むものは生田の小野のわかななりけり」(師輔『堀川首』)から。 醍醐天皇の御代、春の七草を各地から集めさせたところ葺屋荘で採れたものが秀逸で天皇より「若菜の里」と言う名を賜り生田の若菜と呼ばれたことから。 二宮町(明治32年) 二宮神社から。二宮神社は葺屋荘全体の産土神。 布引町(明治32年) 布引の滝への道筋から。
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