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思想と批評に関するlaislanopiraのブックマーク (165)

  • 都市論のすすめ/シノドス・オープンキャンパス03 / 近森高明 - SYNODOS

    はじめに――都市論とは何か? 都市論とは何か?――それが扱う中身とともに、そこに含まれるニュアンスを初学者に簡潔に伝えるのは、やや難しいところです。が、とりあえず、互いに近い分野である「都市社会学」と「都市論」の違いから考えてみましょう。都市社会学は、社会学のひとつの分野で、都市をフィールドとして生じる社会現象を実証的に扱う学問分野です。具体的なトピックとしては、コミュニティ、ネットワーク、階層、エスニシティ、等々があげられます。それに対して都市論は、社会学のみならず、地理学、都市計画、建築、都市史、現代思想、メディア論、美学、文学、等々、さまざまな分野の知見を参照しながら、都市という領域それ自体の現在的特性を批評的に扱う言説分野です。 ……と、いきなり辞書的に抽象的な話をしてもわかりにくいですよね。もう少し具体的な話をしましょう。たとえば「中華料理」というお題について、都市社会学と都市論

    都市論のすすめ/シノドス・オープンキャンパス03 / 近森高明 - SYNODOS
  • 『なぜ美』と『近代美学入門』への補足 - logical cypher scape2

    井奥陽子『近代美学入門』 - logical cypher scape2のブクマが急速に伸びている。ブログのTOP3に入ってきた。 https://hatenablog.com/ に載ったので多分そのせいだと思う。普段、見かけないidからのブクマが多いし。 (なお、ブクマが増えるとブログを書いている身としては単純に嬉しいが、伸びるかどうかはわりと偶然の産物でしかないことも分かっている) それはそれでいいとして、同日にデビット・ライスさんがやはり同書を取り上げた記事を書いているのに気付いた。 ここから直接アクセス流入しているわけではないが、はてなブックマークのホットエントリに並んだので相乗効果はあったのかもしれない。 タイトルにあるとおり、『近代美学入門』だけでなく『なぜ美を気にかけるのか』も一緒に扱われている。 『なぜ美』の方は、当ブログでは以下で取り上げた。 さて、ライスさんの記事は、

    『なぜ美』と『近代美学入門』への補足 - logical cypher scape2
  • 【批評の座標 第10回】溶解意志と造形意志——種村季弘と「水で書かれた物語」(後藤護)|人文書院

    『ゴシックカルチャー入門』『黒人音楽史――奇想の宇宙』を著し、「暗黒批評」を掲げる批評家・後藤護が取り上げるのは、ホッケ『迷宮としての世界』やマゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』の邦訳で名高いドイツ文学者・評論家の種村季弘。ゴシック、バロック、マニエリスムをキーワードに黒人音楽からサブカルチャーまで縦横無尽に論じる後藤が、種村の原初体験からその仕事を貫く質を描き出します。 批評の座標 ーー批評の地勢図を引き直す 溶解意志と造形意志——種村季弘と「水で書かれた物語」 後藤護 水に背いた「火性の人」 「戦後焼け跡派」、「戦後闇市派」を自認する種村季弘(1933-2004)は、東京大空襲で生まれ故郷の池袋を焼き尽くされ、その結果「瓦礫」なり「無」なりが原風景、彼の思想のスタート地点になった。種村の初仕事であり、その後の活動全てに一貫するモチーフを提供することになったG・R・ホッケ『迷宮としての世界

    【批評の座標 第10回】溶解意志と造形意志——種村季弘と「水で書かれた物語」(後藤護)|人文書院
  • サブカルチャーと冷笑|雑誌『広告』

    テキストユニット TVOD 『広告』文化特集号イベントレポート 去る5月15日、下北沢の書店「屋B&B」にて『広告』文化特集号の発売記念のトークイベントを開催しました。テーマは「サブカルチャーと冷笑」。2010年代以降、SNSでの政治的や社会的な活動の盛り上がりとともに、たびたび話題となった「冷笑」というキーワード。ここ数十年における「サブカル」的な感性のなかで醸成されたものとも言われる冷笑的態度は、どのように生まれ、どこへ向かうのか。文化特集号で「120 SNS以降のサブカルチャーと政治」の記事を寄稿いただいたテキストユニットTVODのコメカ氏とパンス氏をゲストに迎え、『広告』編集長の小野も交えながら語り合ったイベントの模様をお届けいたします。 現代における「冷笑」とは何か小野:最初に、なぜ日のテーマが「サブカルチャーと冷笑」となったのか。そこからお話しいただいてもいいですか。 コメ

    サブカルチャーと冷笑|雑誌『広告』
  • 2023年に考える『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の功績|Jini | ゲームゼミ

    2023年5月12日、ゲーム業界を揺るがす衝撃が走った。『ゼルダの伝説 ティアーズオブザキングダム』(以下、ゼルダTotK)の発売である。まず作は傑作である。具体的には2023年における最高傑作なのはほぼ確定として、恐らく2020年代において作を超える傑作はもう出ないのではないかと早くも思わされるほどの傑作であった。 筆者も批評を書く人間として、さすがに『ゼルダTotK』について語らずにはいられなかった。しかし、作を語る上で大きな問題が一つあった。それは前作『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』(以下、ゼルダBotW)の世間の評価が、あまりに納得できかねる不十分なものだったため、続編の作を理解することを一層困難にしていることだった。 確かに『ゼルダBotW』が「傑作」であるという「結論」は、既に確立されている。数々の賞を総なめにし、SNSでも史上最高の作品という声もあり、筆者も

    2023年に考える『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の功績|Jini | ゲームゼミ
  • どんなときに「自由度」といいたくなるのか - 青色3号

    経緯 もともとこういう語の使いかたには興味があったし、だからディスコエリジウムをだしにロールプレイについてうだうだしたときにもすこし触れてはいた。そのうえで、上野「ゲームにおける自由について」1およびそれに対する松永さんのコメント、あるいはシカール『プレイ・マターズ』あたりを読んでよけいに気になっていた2。そしてそうこうしているうち、こないだ「自由度」をキーワードにしたTotKのレビューを読むにいたって、せっかくだから書きながら考えてみようとおもったわけだ。自分はけっきょく、ビデオゲームについて考えるときに出てきがちな「自由度」という語をどうとらえてるんだっけ、と。 省みる前に とはいえ一般的なとらえられかたでいえば、先述の松永コメントにあるとおり「あるゲーム(のある場面)におけるプレイヤーの選択肢の幅の広さ、あるいはプレイヤーに対する指令の少なさ」でよさそうだ。(しっかり用例採集したわけ

    どんなときに「自由度」といいたくなるのか - 青色3号
  • 『出会って4光年で合体』に見る倫理について - DLチャンネル みんなで作る二次元情報サイト!

    『出会って4光年で合体』に見る倫理について 山像 樹 投稿:2023.06.23 更新:2023.06.24 18039 view 2 17分 作品 マンガ

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  • 『クィア・シネマ 世界と時間に別の仕方で存在するために』 | ためし読み 菅野優香

    ジェンダーやセクシュアリティ、人種、コミュニティの規範や理想を強化し、教え込む教育的な役割も担ってきたシネマ(映画)。そこで生まれた「常識」や「当然」を疑うことによって、慣れ親しんできたアイデンティティやカテゴリーを問い直し、「異なる」欲望や「非規範」的な関係の可能性へと導くものこそがクィア・シネマである。これまで編著や共著、雑誌などでクィア・シネマの可能性を日に紹介してきた菅野優香の待望の単著デビュー作『クィア・シネマ 世界と時間に別の仕方で存在するために』が刊行された。今回は書「はじめに」全文をためし読みとして無料公開する。 はじめに 映画の魅力に取り憑かれ、研究者となったが、映画に対する関心の中心にはつねにジェンダーやセクシュアリティの問題があった。どんな映画作家の、どんな映画作品を見ていても、それが気にならなかったことはない。そうして映画に接していくうちに、テーマとして直接扱わ

    『クィア・シネマ 世界と時間に別の仕方で存在するために』 | ためし読み 菅野優香
  • 藤藤田直哉『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)を渡辺祐真(スケザネ)さんが読む 総合的分析によるゲーム批評の新たな沃野

    藤田直哉『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書) を渡辺祐真(スケザネ)さんが読む 総合的分析によるゲーム批評の新たな沃野 ついにビデオゲームを正しく批評するが生まれた。書を読み終えたとき、書評家でゲームクリエイターである私は、一抹の嫉妬が混じりながらも快哉を叫んだほどだ。 十数年前まで、ゲームは男子や一部のマニアだけが興じる遊び程度の扱いだったが、今ではすっかり市民権を得たと言っていい。実際、ジェンダーや核戦争、差別やケアのような社会や人間の深い問題を描いた作品は珍しくないし、ゲームの持つ能動性「ゲーミフィケーション」が政治やビジネスなどにも活かされているなど、その影響力は計り知れない。それにも拘らず、ゲームが正当に批評されてきたとは言い難い。それはゲーム研究者のイェスパー・ユールの指摘する通り、ゲーム内容とプレイヤーの体験というゲームの持つ二面性によって、作品の評価が定まりにくか

    藤藤田直哉『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)を渡辺祐真(スケザネ)さんが読む 総合的分析によるゲーム批評の新たな沃野
  • アテレコ論争 - Wikipedia

    アテレコ論争(アテレコろんそう)[1]は、俳優の東野英治郎が『東京新聞』に発表したコラムを発端として起こった、演技とアテレコに関する論争である。 概要[編集] 2003年(平成15年)に発表された森川友義と辻谷耕史の共著論文『声優のプロ誕生--海外テレビドラマと声優』では、1962年(昭和37年)の東野英治郎、安部徹、夏川大二郎の意見、1981年(昭和56年)の永井一郎の意見、この四者の意見をもってアテレコ論争と定義している。 共著論文では、東野と夏川の意見は伝統的舞台俳優としての視点であり、安部と永井の意見は(アテレコだけに留まらない)広い意味での声優の視点だと分析している。また、海外ドラマの吹き替えは、オリジナルの役者の声を消し去った上で違う言語の違う声を当てはめるという点と、翻訳の過程で失われたり付け加えられたりするものも多いという点で、最初から声が挿入されていないアニメやラジオドラ

  • 東浩紀さんが語るツイッター限界論 無料サービスで「言論は死ぬ」:朝日新聞デジタル

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    東浩紀さんが語るツイッター限界論 無料サービスで「言論は死ぬ」:朝日新聞デジタル
  • ヒューム「趣味の基準について」:「趣味が良い」ってどういうこと? : 一文学徒のノート

    (注意:この論考はヒュームの趣味論にかんして、LevinsonやMothersillらと同様に発見論的な立場に依拠しています。すなわち、批評家の合意は美を発見するという見方。それに対して、構成論的な立場もありえます。批評家の合意こそが美をつくりだすという立場で、たとえば飯田隆の『新哲学対話』における『アガトン』などはその立場からの論考です。いないとは思いますが、この論考を読んで「ヒュームはこんなことを言っていたんだな」と考える方がいると、僕も(おそらくヒュームも)困ります。) 早速だが、ヒュームが前提するように、趣味の多様性というものは疑いえないだろう。ゴダールやロメールを愛する「シネフィル」もいれば、ハリウッドのアクション映画を熱狂的に好む「シネフィル」もいる。かくして生まれるのが、カントも指摘した趣味のアンチノミーである。すなわち、趣味の主観性(趣味は主観的なものであり争いえない)と趣

    ヒューム「趣味の基準について」:「趣味が良い」ってどういうこと? : 一文学徒のノート
  • 東浩紀「テロは断固許さないという決意は繰り返し表明し続けるべき」 | AERA dot. (アエラドット)

    東浩紀/批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役 批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。 *  *  * 安倍元首相銃撃事件から3週間が過ぎた。山上徹也容疑者が動機として世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みを口にしたことから、世間は政治と宗教の話題で沸き立っている。 容疑者の母親は同教団に1億円を献金し、家庭崩壊に追い込まれたという。大前提として、宗教法人を隠れ蓑(みの)にした犯罪行為は許されない。親の信仰で苦しむ児童は社会で保護すべきだ。必要な対処が多額の献金や選挙協力により歪(ゆが)められていたとしたらとんでもない話である。自民党と旧統一教会の関係は、これを機に徹底的に解明すべきだろう。 しかし同時に忘れてならないのは、問題の出発点が純然たる殺人だという事実だ。元首相が選挙期間中に白昼堂々射殺された。動機が

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  • コラムニスト・小田嶋隆が残した功績【追悼企画】──Vol.01:内田樹

    「鋭い批評性と親切心が同居する不思議な味わいがあった」小田嶋隆さんの訃報が届いたのは、禊祓いの行をしている途中だった。メールを読んでから道場に戻って行を続けた。小田嶋さんは、こういうのが大嫌いな人だったと思いながら、身勝手ながら供養のつもりで祝詞を上げた。 僕が最初に小田嶋さんの文章を読んだのは70年代終わりか80年代初めの、東京の情報誌『シティーロード』のコラムでだった。一読してファンになった。「若い世代からすごい人が出てきたな」とか「端倪すべからざる才能である」とか思って驚いたわけではない。ただ、「この人のものをもっと読みたい」とだけ思った。それだけ中毒性のある文章だった。それから彼の書くものを探して、むさぼるように読むようになった。 実際に拝顔の機会を得たのはそれから20年以上経ってからである。当時毎日新聞社にいた中野葉子さんが憲法9条をテーマにしたアンソロジーを編みたいというので僕

    コラムニスト・小田嶋隆が残した功績【追悼企画】──Vol.01:内田樹
  • 無作法と批評性 - 内田樹の研究室

    ある地方紙に月一連載しているエッセイ。今月はこんな主題だった。 毎日新聞の社説が、ある政党の所属議員たちの相次ぐ不祥事について猛省を求める論説が掲載された。新聞が一政党を名指しして、もっと「常識的に」ふるまうように苦言を呈するというのはかなり例外的なことである。 ルッキズム的発言や経歴詐称の疑いなど、いくつか同党の議員の不祥事が列挙してあった。しかし、この苦言が功を奏して、以後この政党の所属議員が「礼儀正しく」なると思っている人は読者のうちにもたぶん一人もいないと思う。この政党の所属議員たちはこの社会で「良識的」とみなされているふるまいにあえて違背することによってこれまで高いポピュラリティを獲得し、選挙に勝ち続けてきたからである。「無作法である方が、礼儀正しくふるまうより政治的には成功するチャンスが高い」という事実を成功体験として内面化した人たちに今さらマナーを変更する理由はない。 「無作

    laislanopira
    laislanopira 2022/06/16
    トーンポリシング批判批判
  • https://twitter.com/9DUTZwxTUPq0UKF/status/1532893218882600960

    https://twitter.com/9DUTZwxTUPq0UKF/status/1532893218882600960
  • 「美大生におすすめの本」Vol.15:松浦寿夫氏(元 美学美術史研究室教授) | 武蔵野美術大学 美術館・図書館

    ムサビの先生方がお勧めする”美大生なら読んでおいてほしい”、第15回目は、画家、美術批評家の松浦寿夫氏です。2021年度まで学美学美術史研究室の教授を務めていらっしゃいました。 イメージライブラリーの映像資料もご紹介いただいています。 図書館では共通の分類法に基づいて図書の配列が行われています。これに対して個人の蔵書は多くの場合、個々の関心領域によって独自の配列のもとに組織されています。そして、隣接関係の変化によって同じ図書がまったく異なった相貌を露わにすることもあります。まったく無関係にみえる対象との隣接性こそが発見の好機ともいえます。ここでは、いくつかの教育的な隣接関係を提示しますが、当然のことながら、この隣接関係は解体されることを求め、新たな編成に開かれ、またそれを待機しています。

    「美大生におすすめの本」Vol.15:松浦寿夫氏(元 美学美術史研究室教授) | 武蔵野美術大学 美術館・図書館
  • なぜ美術史家は「プリキュア」を面白いと思うのか?

    ロマン主義絵画史と近代挿画史を専門に、「神絵師になりたい」という学生向けにも講義を行う美術評論家・松下哲也さんへのインタビュー。 前編では、松下さんが大学でどのような講義をされているのかをうかがう中で、キャラクターデザインの源流が西洋美術にあるという点にも触れた。 後編ではさらに、現代ポップカルチャーにおいて注目するべき表象とは何かについて、話題が広がる。 目次美術界における「キャラクター表現史」は存在しなかった?アートの転換点 “教養ゲーム”からエンタメへ研究における制約? ポップカルチャーを扱う難しさ「プリキュア」は変化がないから面白いなぜ「美少女イラストはエロい」とされるのか 答えは美術様式史にあり様式が換骨奪胎され、新たな表現になる時 美術界における「キャラクター表現史」は存在しなかった? ──松下さんがキャラクター表現史を研究分野とされたのは、どのようなきっかけだったのでしょうか

    なぜ美術史家は「プリキュア」を面白いと思うのか?
  • 芸術としてのゲーム - Wikipedia

    コンピュータゲーム(あるいはビデオゲームテレビゲーム)が芸術作品であるかどうかは、エンターテインメント業界でよく議論されるテーマである。演技、映像、ストーリー、インタラクション、音楽などの表現要素の貢献を考慮しても、コンピュータゲームが芸術作品であるかという哲学的な命題には議論がある。創造的な表現のために意図的に作られたゲームであるアートゲーム英語版)でさえ、芸術作品としての価値を問うている批評家もいる[1]。 歴史[編集] 1983年、コンピュータゲーム専門誌Video Games Playerは、コンピュータゲームは他のエンターテインメント分野と同様に「芸術的形態」であると述べた[2]。 制度的にコンピュータゲームが芸術として検討されるようになったのは、1980年代後半、美術館が当時既に旧式であった第1世代、第2世代のゲームを回顧的に展示するようになってからである。1989年に開催

  • 東浩紀は偉い

    左からは「ネトウヨ」、「冷笑系」と揶揄され、右からは「西さん」、「ブタミマン」と揶揄されてきた東浩紀がこれまで彼等に対して削除請求も訴訟も起こしてこなかったことは批評家、言論人として偉い 彼ほど右からも左からも大量に誹謗中傷されてきた批評家って平成を通して今日に至るまで類を見ない 東浩紀と言う名前を挙げることに二の足を踏む人はまずいないだろう 批評や言論を生業とする人が、他人が自身の名前を挙げて言葉を紡ぐことに二の足を踏ませる様なリスクを付与したら、それは批評家、言論人としては終わりだ それはただの言いっ放しの無敵の人だ

    東浩紀は偉い