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historyと疑似科学に関するbhikkhuのブックマーク (2)

  • 今更ながら疑似科学について - shinichiroinaba's blog

    以前にも触れたが、今回にせよ、菊池さんの粘り腰には当に頭が下がるのだが、ここでいくつか備忘録的に思い出したことを書き留めておきたい。とりあえず断片的な記憶を断片のままに走り書きで引きずり出すだけなので、ピンときた方がおられれば、めいめい補足、補完していっていただきたい。 党派的な話を持ち出して恐縮なのだが、たしか安齋先生は日科学者会議で活躍しておられて、古い言葉でいうと代々木系、日共産党寄りの立場を取られていたと思う。そしてさらに古い言葉を使うと、70年代から80年代にかけて日でもその立場を確立させた「科学批判」「反科学」は反代々木系、「反戦平和」、ノンセクトラディカルの系譜に連なる人々に支えられていたはずだ。故高木仁三郎氏などはその代表であり、この時代以降の反原発運動の理論的バックボーンを提供していたのも、こうした人々であろう。米昌平氏もまた、こうした人脈に連なる一人であったは

    今更ながら疑似科学について - shinichiroinaba's blog
    bhikkhu
    bhikkhu 2008/05/18
    "彼らのせいである意味「科学的」という言葉自体が一種のダーティーワードになってしまっていた、という事実もある。"w
  • Humeの論をつぶしておきたいID論者たち

    William Paley (1743–1805)などが設計説(デザイン論)を主張したのに対して、同時代のDavid Hume(1711-1776)[wiki]は不可知論を以って対抗していた:キリスト教は合理的に擁護しうるか、ということがヒュームの主題の一つであった。宇宙に何らかの目的があることを彼は否定しなかった。その目的について知りうるかどうかが問題だったのである。設計説の支持者ならば宇宙やその構造物が人工のものに似ていると主張することによって、その目的は知的で意図的なものに違いないと推論できる。ヒュームの戦略は、このようなアナロジーの限界をさらすことにあった。たとえこの世界が機械に似ていたところで、その原動力になっているのがキリスト教神学の超越的な神や理神論者たちの恵み深き神であるという保証は何もない。例えば、人間の心と神のような設計者の御心の相似性を強調すれば、神の属性として無限性

    Humeの論をつぶしておきたいID論者たち
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