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科学哲学に関するbhikkhuのブックマーク (31)

  • 金森修によるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態

    金森修によるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンの実態 以下、断りが無い限り、単に「○○頁より」と書いてあれば、金森修著『サイエンス・ウォーズ』 (東大出版会、 2000年6月30日出版) におけるページ数を意味している。『サイエンス・ウォーズ』からの引用は色を変えて目立つようにしておいた。もちろん、色が見えなくても、どこからどこまでが引用であるかがわかるように blockquote してある。敬称は略す。 [追記 (2001年4月15日) この文書によって『サイエンス・ウォーズ』に書かれていることが全て誤りだと主張したいわけではない。金森が日語で紹介した文献の中には確かに価値あるものが存在する。しかし、文献紹介を除けば薄っぺらな内容しか残らないことはこの文書の指摘以前に明らかだと思う。その上、金森による文献紹介の仕方はこの文書が示すようにおそろしくずさんで偏っている。さらに、金森は論敵に

  • 『サイエンス・ウォーズ』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek

    金森修 (2000年6月30日刊行,東京大学出版会,東京,458+xxxiii pp.,体価格3,800円,ISBN:4130100858) この際だから,十年前に岩波『科学』に掲載した書評の原稿をアップしておくことにしよう. 【書評】※Copyright 2001, 2012 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved 科学・技術・社会の相互関係を論じる科学論は,科学的営為に関する言説をさまざまなデータから検証することであると私は考えている.確かに,書の第III部で詳細に論じられているように,遺伝子操作・生殖医療・優生学・エコロジー運動など生物学と社会との接点には,科学論が対象とすべき重要な問題群が生まれつつある.“総覧的に見るなら現代の科学論(science studies)は科学史,科学哲学,科学社会学の三つの軸から構成されている”(p.28)

    『サイエンス・ウォーズ』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek
  • 科学史家と科学哲学者って仲が悪いの?

    (お気に入り登録される方は右記プロフィールを一読していただくよう御願いします) という話が「STSって何なのよ」という話へ変遷していった。 基は自分用。(タイトルは迷ったので見たときに笑ったものを採用)

    科学史家と科学哲学者って仲が悪いの?
  • minaka

    三中信宏『系統樹思考の世界』書評 伊勢田哲治 書の志の高さ、視野の広さ、アブダクションや系統樹思考といった思考ツールの紹介といった美点についてはすでに他の書評等で言い尽くされているのでここで繰り返すことはしない。以下ではもっぱら、科学哲学を専門とする者として書を読んでいて気になった部分を列挙していく。他によい言葉がないので「書評」というタイトルにしているが、これはいわば書評というよりも「バグレポート」や「文法チェッカー」に類した性質のものである。したがって、否定的に見えるコメントが多かったとしても、それは書全体の意義や面白さを否定する意図で書かれているものではない。 「図形言語としての樹」と「系統樹思考」 「系統樹思考は私たちの理解を支援してくれる」(p.26)というのが書全体を貫くひとつの主張であると思われる。しかし、系統樹思考にどこまでが含まれるのかがはっきりしない。p

  • 進化論の射程---生物学の哲学入門 - まとまり日記

    このたび以下の訳が出ることになりました(共訳です)。 進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works) 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松俊吉,網谷祐一,森元良太出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2009/04/01メディア: 単行購入: 9人 クリック: 135回この商品を含むブログ (44件) を見る 版元の紹介ページはこちらです(Apr.19)。また、BK1のリンクはこちらです。[リンクが間違っていましたので直しました。ブクマで指摘して頂いたbk1checkitさん、ありがとうございました。(Apr. 17)] 著者はザ・生物学の哲学者と言っていいエリオット・ソーバーです。 このは一般的にいうと生物学の哲学の入門書ということになります。しかし、わたしがこのを手にとってほしい人の一つは、生物学に興味があるが哲学に興味のない(

    進化論の射程---生物学の哲学入門 - まとまり日記
  • 魔法の言葉「仮説に過ぎない」 - 誰がログ

    魔法の言葉、ってのは言いすぎかな…a-geminiさんの以下の記事を読んで。 http://a-gemini.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/vs_1_59e5.html 以下引用(引用の中の引用部分は福岡伸一氏の発言)。以下の話では福岡氏の主張そのものには踏み込みません、念のため。 もっともダーウィンの説もあくまで仮説に過ぎず、五指が私たちの形質になった真の理由を証明できるわけじやありません。たしかに四指族と六指族がいて、その間で五指族が生き残ったという物的証拠は何もないわけですから。 「ダーウィンの説もあくまで仮説に過ぎない」というのも妙な言い草だ。 「仮説」だから正しいとは限らない、とほのめかしたいのだろうか。 もう「に過ぎない」という表現を使用している時点でなんとなくその意図は伝わってくる気がしますが、結構良く聞くフレーズだと思います、この「仮

    魔法の言葉「仮説に過ぎない」 - 誰がログ
    bhikkhu
    bhikkhu 2008/07/25
    「仮説」という言葉を都合良く使う人ってたまにいる。
  • 公理の話 神は細部に宿り給う

    数学に関する質問です。なぜ一度正しいと証明された定理が覆されることがないのか? ということが理解できません。 「あらゆる科学理論は質的には仮説であって真理ではあ.. - 人力検索はてな へのはてなブックマークに対して、 では、公理そのものの妥当性は何がどう担保しているわけですか? - BLOG15の日記 では聞きますが数学の演繹の出発点の公理系そのものの妥当性、正当性は何によってどう担保されているのでしょうか? 質的に間主観性としての、つまり主観の寄せ集めの仮決めでしかないと思いますが。 という質問が来たので、ちょうどいい機会だから公理について書いてみる。もともとの質問への回答でだいたい言い尽くされているような気もするが。 数学の演繹の出発点の公理系そのものの妥当性、正当性は何によってどう担保されているのでしょうか? 何によってもどうやっても担保されてなどいません。妥当性を

    bhikkhu
    bhikkhu 2008/05/18
    どうでもいいけどスパムコメントに笑ったw
  • 数学に関する質問です。なぜ一度正しいと証明された定理が覆されることがないのか?…

    数学に関する質問です。なぜ一度正しいと証明された定理が覆されることがないのか? ということが理解できません。 「あらゆる科学理論は質的には仮説であって真理ではありえないので、常に反証される可能性がある。そして反証された時にその理論は敗れ去る」 これは非常に納得できることです。 しかしどうして数学の場合は科学のように反証可能性のようなものがないのかがわかりません。 「論理だから」というのは自分にとっては全然自明ではありません。 そう言われると、なぜ論理だと覆されることがないのか? という新たな疑問が生まれるだけです。 「論理だから」が当に正しのか、そしてそれが正しいのならばどうして論理だと覆されないのか、 それともそれ以外の理由があって数学の定理は覆されないのかを教えてください。

  • Amazon.co.jp: 科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ): サミールオカーシャ (著), 覚,廣瀬 (翻訳), Okasha,Samir (原名): 本

    Amazon.co.jp: 科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ): サミールオカーシャ (著), 覚,廣瀬 (翻訳), Okasha,Samir (原名): 本
    bhikkhu
    bhikkhu 2008/05/05
    これ翻訳出てたのか
  • 科学哲学ニューズレター - ??? 「こんな翻訳読みたくない!」科学史版 !!!

    No.3, June, 1994 S. Uchii, "Do you want to read such translations as this?----Kuhn's Copernican Revolution, tr. by K.Tsuneishi" ??? 「こんな翻訳読みたくない!」科学史版 !!! 年度の科学史演習(前期、内井)では、クーンの『コペルニクス革命』を取り上げている(副読として、Toulmin & Goodfield, The Fabric of the Heavens)。数週目にして明らかになったことは、常石敬一氏の翻訳(紀伊国屋書店、1976、講談社学術文庫に再版、1989)が信頼性に乏しく、学術的な使用にまったく耐えないということである。 (1)訳者は英語自体がろくに読めていない。小さな誤訳だけでなく、クーンの議論の基的なところが逆に訳されたり支離

  • 科学の漸近線 その1 - 3歩先の経済学

    前回に引き続いて科学的な態度に関しての話です。最初はここでのコメントに対する反論を書いていたのですが、あまりにも長くなりすぎたのでこちらに書きます。 今回は一応まともなことを書いているつもりなのですが、少々前衛的なので多分いろんな人に怒られるでしょう。そして批判されてもうまく反論できる自信はありません。なんと言うか、僕は科学哲学を体系づけたいと思ってないからです。この文章は僕はこんなスタンスで科学を研究していますという態度表明でしかありません。あまり叱らないでやってください。 論理は金科玉条ではない 「科学において理系と文系という切り分けが存在する」という主張をする人が特に「理系」の人に多いが、こんなものは都市伝説に過ぎない。理系も文系もすべて科学の範疇に入り、トンデモですら「簡単に論破できる理論」や「悪魔の証明を要求する理論」ではあるけど論理で語る以上は(かなり広義の)科学の範疇に入る。

    科学の漸近線 その1 - 3歩先の経済学
  • 進化論が科学であり、ID論が科学でない理由 - 赤の女王とお茶を

    科学が『ニセ科学』を糾弾できない当の理由 進化生物学者と似非科学論者との決定的な違いに関して 師走でバタバタしておりますが、レスしとくべきでしょうから。。 まず科学全般について。 先日「地図」に例えたように、科学とは自然・社会現象を抽象化した「モデル」です。 従って、質的に検証されたり反証されたりするのは個々の事実ではなく飽くまで「モデル」の部分なのです。 そもそも、現実を「抽象化」するのですから、必ず「切り捨てる」部分が生じます。地図が現実の土地でないのと同様ですね。どんな科学実験でも、100%理論と実験結果が一致することはありえませんし、重要視される「再現性」も、100%の一致という意味ではありません。完璧に同じ実験条件というものはこの世に存在しないからです。 あたかも盲人が象を撫でるがごとく、いろいろな人がいろいろな角度から検証してみて、やがてぼんやりとではあるが妥当と思われる世

    進化論が科学であり、ID論が科学でない理由 - 赤の女王とお茶を
    bhikkhu
    bhikkhu 2006/12/29
    あー、そうか。件の文章は実際に起きたこととしての歴史の検証と科学モデルの検証を混同してる嫌いがあるよね。
  • 耳の痛い議論 - novtan別館

    酒とアザラシと怠惰な日々。 - 「ニセ科学に立ち向かう」を聴講した。 のコメント欄でのやりとり。藤原という人が異を唱えていて、きくちさんまで登場して激論。否定する根拠がないからニセ科学ではないとおっしゃる藤原さん。それに対して悪魔の証明だという否定派。これね、結構頭の痛い問題なのです。 通常心理学では客観的に証明できるずばりそのものな結果はでません。人間というものの個体差のいちばん大きい部分を見るわけですから、究極的には「全部異なる」にならざるを得ない。それだと研究する意味がないから、ある程度共通項で括りだせるところを見つけていく学問で、統計に依拠しています。この点を突いて「心理学は自然科学ではない」とおっしゃる方もいますし、それは見方によっては真実であるためそこを主張されると困ってしまうことも多いのです。もちろん、研究している人は、統計学的な正しさを以って学問として成立させようと努力して

    耳の痛い議論 - novtan別館
    bhikkhu
    bhikkhu 2006/12/03
    自然科学の人が"無いとは言えない"とかいう主張にまともに取り合うと証明のコストが莫大になってめんどいので、そういうのは科学哲学の人がやれば良いと思う。
  • 反証可能性メモ

    理論が科学である条件として証明可能・反証可能というものがある。 ちなみに、インテリジェントデザインだと「自然法則でも偶然でも説明できなくて意味ありげなものはデザイン」なので、「自然法則でも偶然でも説明できなくて意味ありげなものは、???のせい」と勝負がつかない。従って、肯定も否定もできず、証明不可能かつ反証不可能になる。(また、隙間が埋まっても、他に隙間がある限り、インテリジェントデザインは否定されない。) "進化論"を反証する方法としてTalkOriginsの挙げる反証可能性は: a static fossil record; 静的化石の記録 true chimeras, that is, organisms that combined parts from several different and diverse lineages (such as mermaids and cent

    反証可能性メモ
  • オッカムの剃刀 - Wikipedia

    三浦俊彦が描いたオッカムの剃刀の説明図[1]。三浦はオッカムの剃刀について「ある事実Pを同様に説明できるのであれば仮説の数(または措定される実体の数)は少ないほうが良い」とするものだと説明した。 オッカムの剃刀(オッカムのかみそり、英: Occam's razor、Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことで有名になった。21世紀の現代医学は、オッカムの剃刀の概念を少し時代遅れにし、あらゆるリスクの管理を見直すべきだという指摘がある[2]。 概要[編集] もともとはスコラ哲学における流儀であり、様々なバリエーションがあるが、20世紀にはその妥当性を巡って科学界で議論が生じた。「剃刀」という言葉は「説明に不要な存在を切り落とすこと」を比喩しており、「説明するために必要以上に

    オッカムの剃刀 - Wikipedia
    bhikkhu
    bhikkhu 2006/07/28
    良く使われる言葉だけど、要するに真偽の判定基準というよりは実践的に有用な思考方法なのね。ヒューリスティックスに近いと表現すると色々誤解を招きそうだが。
  • リヴァイアさん、日々のわざ: 「99.9パーセントは仮説」について

    新書レビューです。 「99.9パーセントは仮説」(竹内薫)と「全地球凍結」(川上伸一)は、まったく違ったテイストの科学なのだけれど、続けて読んで妙に味わいがあった。 まず「99.9パーセントは仮説」。これは実は看板に偽りのある。内容に忠実に沿えば「100パーセント仮説」とか、「たしかなものは何もない」といったタイトルになるべき。 実際に「科学はぜんぶ『仮説にすぎない』」(33ページ)をはじめ、類似の表現がたくさんされていて、つまり、一般には「正しいことを述べている」と思われがちな、科学を相対化する言説に満ちている。 科学的理論が、仮説であるということ自体、むしろ当たり前であって、それを必ず「仮説である」と認識するところが科学のキモだと、ぼくは感じているのだが(たとえば、宗教はみずからの主張を仮説とは言わない)、どうも世の中には「科学は正しい」という信仰があるらしく、それに対して「

    bhikkhu
    bhikkhu 2006/05/25
    これねー、なんか知らんけどネットじゃ受けてるんだよね。内容はどうにも今更感。
  • 「第19回 哲学って役に立つの?――伊勢田哲治インタビュー其の一」 日刊!ニュースな本棚|Excite エキサイト : ブックス(文学・書評・本のニュース)

    1968年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。メリーランド大学よりPh.D.(philosophy)取得。現在、名古屋大学大学院情報科学研究科助教授。科学哲学・倫理学専攻。社会認識論、科学と技術の倫理、メタ倫理学など、哲学と倫理学を架橋する逸材として注目を集めている。著書に『哲学思考トレーニング』(ちくま新書)、『疑似科学と科学の哲学』、『認識論を社会化する』(ともに名古屋大学出版会)など。 公式サイト:伊勢田哲治のウェブサイト 伊勢田さんの新著『哲学思考トレーニング』は、ありそうでなかった「哲学の道具箱」として、学生から社会人まで幅広くオススメしたい1冊。書で開陳されている哲学的思考スキルを使いこなすコツを中心に、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの答え方、科学哲学の現在、分析哲学の魅力などなど、若き哲学者の音をたっぷりお届けいたします。 ――哲学の入門

    bhikkhu
    bhikkhu 2006/05/07
    伊勢田さんの顔って初めて見た。
  • 方法論的自然主義 on wiki

    昨日のエントリ「The Wedge Document」の続きとして、反進化論用語"唯物論"を見ておくことにする。 といっても、見るのはwikiの自然主義の項目。進化論対創造論の戦場になってもおかしくな項目だが、2006年4月25日時点では保護状態には陥っていない。ある程度、創造論サイドの主張も盛り込んだ形になっているが、最後はインテリジェントデザイン運動を斬る記述が生きている。 全体は:Naturalism (philosophy) 自然主義(哲学) Naturalism is any of several philosophical stances, typically those descended from materialism and pragmatism, that do not distinguish the supernatural from nature. Natural

    方法論的自然主義 on wiki
    bhikkhu
    bhikkhu 2006/04/25
    における自然主義の記述。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

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  • リヴァイアさん、日々のわざ: 構成論にもいろいろな立場があるものだなあ……

    なんかああだとうごするうちに、ちょっと展開がありメモしときます。 リンク: 酔狂人の異説 - トンデモという決め付け(2). リンク: 酔狂人の異説 - トンデモという決め付け(3). いずれも、先日の「理科教育と構成論」のからみからの流れ。 (2)の方は、コメント欄もよんでいただけるとよいか、と。 ぼくは、最初は、この方は強い非実在論の支持者だと思っていたわけですよ。 でも、(3)くらいになると、決してそうでもなくて、自然法則の実在性はアプリオリに認めてらっしゃる。 にもかかわらず、「構成」「創造物」という言葉にはとても愛着があるようで、 「重力に関する「逆二乗の法則」もケプラーの法則などをもとに「創造」されたものだと思うが……。科学理論は、それ以前の科学理論などをもとに「創造」されたものである。それは、新しい曲や新しい小説がそれまでに書かれた曲や小説から影響を受けているのと同様

    bhikkhu
    bhikkhu 2006/04/25
    意識してるかどうかはともかく、演繹のみを妥当な論証と見なす立場を取ってると善解すれば整合性はあるのではないかと。物理法則の実在は認めるような書き方でかなり混乱してるけど。