自動的に移動しない場合はをクリックしてください。
昨日(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070803#p2)からの続き。 物語が必要なひとたちと、不要な人たち。 スクールカーストとかリア充とか。 おれは「おれの学校にはスクールカーストとかなかったよ」派なので、スクールカースト問題で盛り上がろうという動きには懐疑的なのだが、とはいえしかしそれはつまり「オタクは田舎暮らしでも苦労しなかったかもしれないけど、サブカルは田舎じゃメッチャ苦労したんだよ」みたいな筋合いでいえば、まあおれには関係なかったけどおれと同じ時代にもそのての苦労をしたひとがいるのかもですねとは思う。そしてそのような同時代の他人の苦労に後付けででもコミットしていく態度は、選択肢のひとつとしてはアリだろうとも思う。同時に、しかし現在指摘されているスクールカースト問題というのは、まさしく現在進行形で起きている現象への意識として考えられるべきなの
今晩のLife聞きたいけど,こんな時間起きてないよ.ネット中継もいいけどpodcastしてくんないかな.(追記: 楽曲部分を除いてpodcast配信されているとのこと.見落としてました)僕はずっと運動に憧れながら結局のところ何の運動にもコミットできなかった.今となって運動論というより,実存の問題ではないかと振り返る.僕の運動に対する懐疑は大きく二つあって,ひとつは自分が他人に対して何らか無理強いするほど何かを分かっているかという問題と,もうひとつは運動という方法論そのものの時代錯誤に対して運動家が鈍感であることだ. 僕は高校新聞にのめりこんで高校を辞めた口だが,学校新聞を私物化して論陣を張るようなことはやらなかった.僕の仕事は生徒の利益代表として事実を探り,それを伝え,どうしても書きたい所感は所感と分かるよう分けて書く中庸を志向した.それでも多くの教師にとって目障りだったのは,しばしば都合
久しぶりのブログへの執筆です。忙しくて、自分でネタを考えて書く暇がありませんでした。これまでけっこう書くことができたのは、書き込んでもらったコメントをネタにして書いたりしていたからですが、こちらが書かないとコメントももちろん書き込んでもらえず、コメントを書き込んでもらえないと書くネタがなく、という悪循環でご無沙汰したというわけです。 きょう沈黙を破って(?)書こうと思ったのは、ある偶然の一致のせいです。きょうの朝、電車の中の雑誌『AERA』のつり革広告で「『感情労働』時代の過酷――ひと相手の仕事に疲れ果てるとき」という記事の見出しが目に留まりました。ちょうど偶然にも、きょうの講義で「感情労働」の話をする予定だったので、参考になるかなと乗換駅の売店で早速買って電車の中でぱらぱら読んでみました。記事そのものは講義の参考にはあまりなりませんでしたが、まあ、その日の朝に読んだ雑誌を資料になるかなと
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く