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将棋と米長邦雄に関するh5dhn9kのブックマーク (3)

  • 志村けんさんと故・米長邦雄永世棋聖の対談

    将棋世界2003年4月号、「米長邦雄永世棋聖円熟対談 ゲスト:志村けん」より。 米長 将棋がだいぶお好きなようですね。 志村 将棋は子どものころ覚えました。それ以来ずーっとやってなくて。ドリフターズの『8時だよ!全員集合』をやっているころ、休憩時間なんかがあるとみんなで指していました。 米長 だいたい同じような棋力ですか。 志村 Aクラス、Bクラス、Cクラスがあって、うまい順に駒も違うんです。 米長 駒も違う(笑)。 志村 Aクラスがいかりやさん(長介)と仲さん(工事)。次に僕と加藤さん(茶)。僕はいかりやさんに何回かに1回勝つぐらいですね。高木さん(ブー)だけがあまりやらないのかな。考えると寝ちゃうんでね(笑)。 米長 だからブーっていうんだ(笑)。 志村 『8時だよ』の番組では朝10時からリハーサルやって、12時ぐらいから歌手の人が音合わせで練習しているときに1時間ほど空くんですよ。

    志村けんさんと故・米長邦雄永世棋聖の対談
  • 米長邦雄少年「では師匠にお聞きしますが、高校へ行かなければ、将棋が本当に強くなるのでしょうか?」

    私が内弟子をしていた頃、一番上の兄貴が、時々遊びに来ては、「お前は勉強しろよ」と学校の成績が落ちていないかをいつも心配するのだった。母親のかわりに見に来ていたらしい。普通にやってさえいれば、どこか大学を出て、そして無難な生活が送れただろうに。これが親兄弟の偽らざる気持ちであっただろう。だから、将棋をやったがために、成績が極端に落ちることを極度に恐れていたようだ。お前は勉強してるかと、いつも心配していた。 これに対し私の方は「勉強しているよ」もちろん私の言う勉強というのは、将棋のことであるけれども、兄貴の言う勉強とは学校の勉強のことである。 数多く辛いこと、またバカバカしいことがあった内弟子時代だが、そのバカバカしい話のひとつを。 師匠と一緒に稽古に行くことが何回かあったけれども、その帰り道。 下十条(現在の東十条)の駅を降りて師匠宅までは、歩いて約3分。途中で鉄橋を渡る。 ある冬の寒い夜、

    米長邦雄少年「では師匠にお聞きしますが、高校へ行かなければ、将棋が本当に強くなるのでしょうか?」
    h5dhn9k
    h5dhn9k 2020/01/13
    いやぁ……。どうかしてるw コレが誌面に載った時は まだ佐瀬名誉九段も存命だし、米長さんも48歳だし……。滅茶苦茶や!w
  • 2ch名人 ドワンゴ・川上会長、電王戦開催は「故・米長会長に半ば強引に」「逃がしてもらえなかった」

    電王戦の総括(ドワンゴ・川上量生会長) 日で形を変えながら6年間続きました電王戦のイベントは全て終了となります。参加して頂きました棋士の皆様、コンピュータ将棋ソフト開発者の皆様、将棋連盟様、電王戦を見守り世の中に伝えて頂きましたメディアの皆様、そして何より将棋ファンの皆様、当にありがとうございました。 振り返りますと、電王戦は、幸運というか運命的なモノに導かれて始まったイベントだと思います。主観的に今だからこそ申し上げますと、正直、私としては、故・米長会長(当時)に半ば強引に無理やりですね、逃がしてもらえなかったというのが当の所なんですけども。 そういう経緯で電王戦がスタート訳なんですが、一つ電王戦が盛り上がった背景というのは、一番最初に5対5という割と変則的な形で人間とコンピュータが対決する事だと思うんですけども、そのきっかけというのは、元々は米長会長が5年間かけて5つのソフトと対

    2ch名人 ドワンゴ・川上会長、電王戦開催は「故・米長会長に半ば強引に」「逃がしてもらえなかった」
    h5dhn9k
    h5dhn9k 2017/05/24
    米長会長。最期に絶妙手を残されてから逝ったんだなぁ……。
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