私はさきごろミケランジェロの事を調べたり、書いたりして数旬を過ごしたが、まったくその中に没頭していたため、この岩手の山の中にいながらまるで日本に居るような気がせず、朝夕を夢うつつの境に送り、何だか眼の前の見なれた風景さえ不思議な倒錯を起して、小屋つづきの疎林はパリのフォンテンブロオの森かと思われ、坂の上の雪と風とに押しひしがれてそいだような形になっている松の木はあのローマの傘松を聯想(れんそう)させ、見渡すかぎりの清水野のゆるい起伏はローマ郊外のいわゆるカムパーニヤ ロマーノの展望にさえ見えるのであった。炉辺で眼をつぶると、何だかアルノオ河の河岸の石だたみや、ポンテ ヴェッキオの橋が近所にあるように思われたり、遠くの空にローマのサン ピエトロの円屋根が聳(そび)えていたりする。今は一九五〇年の冬のはじめで、ここは日本東北地方の山の中だという現実がうそのように思えたりした。 そういう心的状態