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俳句に関するmaturiya_ittoのブックマーク (3)

  • 角川春樹が選ぶ「魂の一行詩」

    魂の一行詩 NEW ! <最終回>2009年9月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年8月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年7月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年6月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年5月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年4月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年3月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年2月号「ランティエ」掲載分 ・ 2009年1月号「ランティエ」掲載分 ・ 2008年12月号「ランティエ」掲載分 ・ 2008年11月号「ランティエ」掲載分 ・ 2008年10月号「ランティエ」掲載分 ・ 2008年9月号「ランティエ」掲載分 ・ 2008年8月号「月刊ランティエ」掲載分 ・ 2008年7月号「月刊ランティエ」掲載分 ・ 2008年6月号「月刊ランティエ」掲載分 ・ 2008年5月号「月刊ランティエ」掲載分 ・ 2008年4月号「月刊ランティ

    maturiya_itto
    maturiya_itto 2013/05/30
    あと、角川春樹の「魂の一行詩」講評も読めます。解釈は面白く真摯。「「新涼」という季語がもたらす爽やかさが中七下五に続く。窯出しのフランスパンの匂いや胸に抱いた時の温かさまでが読み手に伝ってくる」
  • 「河」魂の一行詩

    maturiya_itto
    maturiya_itto 2013/05/30
    ちなみに角川春樹の句はここで読めます(2012年10月まで)。
  • 萩原朔太郎 詩の翻訳について

    宮森麻太郎氏の英訳した俳句は、外国で非常に好評ださうであるが、その訳詩を通じて、外国人が果して何を感銘したものか疑問である。おそらくは歌劇ミカドを見物して、日人を理解したといふ程度であり、俳句を HAIKAI として解釈した程度であらう。多くの場合に、外国人に好評される日の者は、真の純粋の日ではなく、彼等のフジヤマやゲイシヤガールの概念性に、矛盾なく調和して入り得る程度の、テンプラフライ式の似而非日である。真の当の日のものは、彼等に理解されないことから、却つて退屈されるばかりである。宮森氏の翻訳が西洋で受けてる理由も、おそらくそれがハイカイ的俳句である為かも知れないのである。 小宮豊隆氏は、翻訳の不可能を例証する為、次の宮森氏の訳句を引例してゐる。 小宮氏は言ふ。俳句の修辞的重心となつてるものは、「古池や」の「や」といふ如き切字である。この場合での「や」は、対象としての古池が、

    maturiya_itto
    maturiya_itto 2012/07/13
    思いついて気に入ってる話しに「詩の訳って結構無理ゲーだよ。"夏草や兵どもが夢の跡"ってどう訳すの?」てのがあるんですが、荻原朔太郎が似たようなこと言ってたっぽい。例は"古池や蛙飛び込む水の音"だったけど。
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