日本の城のほとんどは20世紀に再建されたもの 韓国の城はほとんど9世紀頃に廃墟になった、中国との戦いをやめてしまったからね 交渉するのも億劫だったので平和に停滞しながら暮らしてた
宇都宮飛行場南側の誘導路に停止している白色の双発機。米軍が攻撃し双発機に向かう銃弾が赤く映っていた=1945年2月17日(豊の国宇佐市塾提供) 太平洋戦争の資料を収集、解析している大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」が16日までに、米軍機が宇都宮市の陸軍宇都宮飛行場を空襲した映像を新たに報道陣に公開した。米国立公文書館から映像を入手し解析した。同飛行場への空襲を巡っては、団体はこれまで1945年7月30日の映像を公開、今回は同年2月17日の空襲の様子が撮影されている。戦後79年を迎え戦禍の記憶の継承が課題となる中、貴重な資料といえそうだ。 団体によると、映像はカラー2点とモノクロ1点の計3点で計34秒。いずれも上空からで米軍機に装備された「ガンカメラ」で撮影したとみられる。 同飛行場は現在の作新学院大や宇都宮市清原中付近一帯にあった。格納庫裏の機体に向けての機銃掃射や、誘導路の双発機へ
太平洋戦争の終結後、遠く太平洋島嶼部、中国大陸などに取り残された日本軍将兵の復員と民間人の帰国事業が始まりました。その対象者の数はおよそ660万人。史上稀に見る民族大移動のために、戦争で疲弊していた日本はともかく使えそうな船を集めます。 最優先だった復員輸送 船が全然ない! 1945(昭和20)年8月の終戦後、日本政府が最優先で取り組まなければならなかったのは軍隊の武装解除と復員でした。これは、日本の無条件降伏に際して戦勝国が発したポツダム宣言にあった「日本の武装解除」と「兵員を家庭に帰す」という条文によって日本に課にされたものでした。 1946年1月、5000人の復員兵を乗せてラバウルで給油中の「葛城」(画像:オーストラリア戦争記念館)。 このうちの後者、つまり太平洋の広範囲にわたる島嶼部とアジア大陸の各地に取り残されたおよそ660万人もの軍人と軍属、民間人を日本に帰還させるというのは、
先日お邪魔したご高齢のお客さん宅。色々な作業が終わって、お茶を頂いた時に、自分の出身を聞かれて、お客さんの出身も聞き返したら、ちょっと難しそうな顔になって、 「北海道だけど、今は無い。」 と。なので千島か樺太かと思い、 「樺太ですか?」 と答えると、少し嬉しそうな顔に。
突然の衝撃と暗闇 間に合わなかった警報 大人たちからの口止め 4月18日は何の日か――。 こう問われて、すぐに答えられる人は少ないかもしれません。東京都荒川区のある男性は、10年ほど前から、この日に自分が経験したことを語り始めました。 仲良しだった友達が死んだこと。大人たちから「このことを話してはいけない」と口止めされたこと。 ちょうど82年前の1942年4月18日、日本本土が初めて米軍機の空襲を受けた日のことです。 (朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮) 突然の衝撃と暗闇 突然、「ザザザー」と何かが覆いかぶさるような音と、「ドカン」という衝撃があって、家の中が真っ暗になりました――。 4月13日の土曜日、荒川区立尾久図書館で、区内の西尾久に住む堀川喜四雄さん(91)が40人ほどの聴衆を前に話をしていました。 今から82年前の4月18日、国民学校初等科3年(現在の小学校3年生)だった堀川
父が開発した「震電」の実物大模型を見学した鶴野正英さん=福岡県筑前町で2024年3月5日、桑原省爾撮影 旧日本海軍の局地戦闘機「震電」を開発した鶴野正敬技術少佐(1917~2000年)の長男、正英さん(82)=千葉県船橋市=が福岡県筑前町立大刀洗平和記念館を訪れ、展示されている震電の実物大模型と開催中の企画展「異端の翼 震電」を見学した。 鶴野技術少佐は東京帝大航空学科を卒業。44年6月から福岡市の九州飛行機に出張し、米爆撃機「B29」迎撃の切り札となる震電の設計・試作に当たった。主翼の前に小翼を備え、機体後部にエンジンとプロペラを配置した特異な形状で、45年8月に3回の試験飛行をした段階で終戦を迎え、「幻の戦闘機」と言われる。 震電は映画「ゴジラ―1・0」に登場することになり、正英さんは山崎貴監督の訪問を受けて資料を提供。実物大模型が作られ、撮影に用いられた。記念館は劇場公開まで映画との
岡真理(おか・まり)/1960年生まれ。早稲田大学文学学術院教授。京都大学名誉教授。東京外国語大学大学院修士課程修了。専門は現代アラブ文学・パレスチナ問題。著書に『アラブ、祈りとしての文学』『ガザに地下鉄が走る日』ほか(撮影/小山幸佑) AERAで連載中の「この人のこの本」では、いま読んでおくべき一冊を取り上げ、そこに込めた思いや舞台裏を著者にインタビュー。 著者である岡真理さんは現代アラブ文学とパレスチナ問題を専門とし、パレスチナを訪問しながら研究を続けてきた。本書はハマス主導の越境奇襲攻撃に端を発し、イスラエルによるガザ地区への攻撃が激化した2023年10月に行われた二つの講演をもとに、パレスチナ問題の歴史とその本質を平易で力強い言葉であきらかにする。現在3刷、累計2万5千部になっている『ガザとは何か』。岡さんに同書にかける思いを聞いた。 * * * 「パレスチナ問題はシンプルです
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以下は、2020年の『群像』新人賞で最終選考まで残り、落選となった文章である。 これはもともと同賞への応募原稿として書いたわけではなく、アメリカ留学中に何十本と書いたノートの1つである。留学1年目の第2セメスター終盤、わたしは履修していた授業のレポートとして2つのアイディアを抱えていた。結局はもう片方の案、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論をレポートとして提出したのだが(これは論文化された)、その後、夏休みに入ってヒマになったので、提出のアテもないまま、もう片方のアイディアを日本語で文章化することにしたのだった。同賞に応募したのは、その約2年後である。 なるほど、いま読むと院生のノート以上のなにものでもないが、もはや改稿して論文化する意味もないので、誰でも読めるようブログ記事として放流することにした次第である。これを読んで若い人たちに「阿部も留学初期はこんなもんか(じゃあ自分もイケるな)」
強制動員された朝鮮人犠牲者追悼碑を建て管理をしてきた日本の市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の石田正人さん(71)が24日、「群馬の森」公園にある追悼碑について説明している=群馬/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社 今月24日に訪れた、群馬県高崎市にある「群馬の森」公園。東京ドームの5.6倍の広さで、群馬の市民の憩いの場であるこの公園は、「朝鮮人強制動員」問題を巡る群馬県と地域の市民団体間の衝突で微妙な緊張感に包まれていた。これを表わすかのように、裏門の前には「工事のため1月28日午後5時30分から2月12日午前8時まで公園を閉園する」という内容の案内板がぽつんと立てられていた。市民が頻繁に訪れる広々とした公園が2週間ちかく閉鎖されるという異例の状況を迎えることになったのだ。 公園の裏門から入って3分ほど歩くと、2004年に群馬県と地域の市民団体が力を合わせてようや
ガザのおかげでヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈したハミッド・ダバシ(試訳=早尾貴紀) 2024年1月18日 もしイラン、シリア、レバノン、トルコが、ロシアと中国に全面的に支援され、武装し、外交的に保護されながら、テルアビブを現在のガザと同じように、3カ月間昼夜を問わず爆撃し、何万人ものイスラエル人を殺害し、数え切れないほどの負傷者を出し、何百万人もの家を失い、この都市を人が住めない瓦礫の山と化す、そのような意志とその実現手段があったとしたら、と想像してみてほしい。それから、イランとその同盟国が、テルアビブの人口の多い地域、病院、シナゴーグ、学校、大学、図書館、あるいは実際に住民のいるどんな場所であれ、そこを意図的に標的にし、民間人の犠牲者を確実に最大化するということがあり、そしてイランと同盟国が、「イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相と彼の戦時内閣を探していただけだ」と世界に言ったとした
群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」にある、太平洋戦争中に労務動員された朝鮮人労働者の追悼碑の存続を求め、市民団体が県に話し合いを提案している。碑の前での集会で、条件違反の「政治的発言」があったとして、県は2014年に設置許可を更新しないと決定。市民団体は不許可処分の取り消しを求めて訴えたが、6月に最高裁で敗訴が確定した。県は行政代執行による撤去を検討するが、市民団体は存続を願う。(羽物一隆) 県が問題視したのは、12年に開かれた朝鮮人労働者の追悼式での参加者の発言。県は追悼碑の設置時に「政治的行事を行わない」と条件を付けており、追悼式での「強制連行の事実を訴え、正しい歴史認識を持てるようにしたい」などとした発言を県が「政治的だ」と判断した。 裁判では1審、2審とも強制連行に関する発言を「政治的である」と認めた。1審は「追悼碑の存在によって、都市公園の機能を喪失したとはいえない」として更
ロバート キャンベル @rcampbelltokyo 日本文学研究者 University Professor, Waseda U. 早稲田大学国際文学館特別顧問 / robertcampbell.jp. /youtube.com/channel/UCGbc4… robertcampbell.jp ロバート キャンベル @rcampbelltokyo 米機の空爆で焼き尽くされた東京が敗戦後、立派な大都会に蘇生したのと同様、ガザ地区も一度は根こそぎ破壊するのは仕方がなく、むしろ巨悪を払うのに必須のプロセスだと嘯くイスラエルのツィピ・ホトベリ駐英大使。虐殺のため東京空襲と復興を引き合いに出すな、と言いたい shorturl.at/AUY37 pic.twitter.com/QQKpgy5wB3 2024-01-13 14:19:59
原爆資料館の訪問者急増 2時間待ちも、サミット効果か―混雑解消へウェブ販売導入・広島市 2023年12月28日13時30分配信 平和記念資料館(原爆資料館)入館のため並ぶ人々=8月14日、広島市中区 広島市中区の平和記念資料館(原爆資料館)の来館者数が4月以降、急増している。5月に開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)などの効果とみられ、夏には2時間待ちとなる日も出た。市は混雑緩和のため、チケットのウェブ販売などの対策を取る考えだ。 「はだしのゲン」巡り揺れる広島 教材から削除、販売は急増―原爆忌 市によると、資料館の入館者数は新型コロナウイルス流行前の2019年度は約176万人だったが、コロナ禍で20年度は約33万人に減少。今年度は11月までの8カ月間で、既に22年度(約113万人)を超える約149万人となり、コロナ禍前を上回る勢いだ。 広島サミットでは、ウクライナのゼレンスキー
終戦直後の1945年8月24日、朝鮮半島に帰る労働者らを乗せた旧海軍輸送艦が舞鶴湾で爆沈した浮島丸事件。その現場である京都府舞鶴市では、犠牲者を悼み、記憶の風化を防ぐ活動を市民が半世紀以上にわたって続けている。遺骨返還の要請に加わった同市の市民団体「浮島丸殉難者を追悼する会」の品田茂会長は「日本政府は人道的な立場で、どうしたら返還できるか話し合いをしてほしい」と切実に訴える。 市民の追悼活動のきっかけは1964年にさかのぼる。市内の寺院であった事件の犠牲者法要に、日本と朝鮮半島の人たちの交流を目指す教職員を中心にしたグループが参加。翌65年には事件を広く知ってもらおうと、市民による慰霊祭が市内で営まれた。 78年には沈没現場に近い舞鶴湾沿いの同市佐波賀に「殉難の碑」が建立され、事件の起きた8月24日には毎年、追悼集会が行われている。こうした経過を経て96年に追悼する会が発足し、現在は約12
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