タグ

満洲に関するwhaleboneのブックマーク (34)

  • 「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生” | 文春オンライン

    愛新覚羅氏をご存知だろうか? かつて中国大陸を支配していた「清」という王朝の皇帝の一族である。 もともと、現在の北朝鮮の国境とほど近い地域(現在の撫順市と通化市の間あたり)を拠点とした満洲族(女真族)の首長・ヌルハチがご先祖だ。ヌルハチは1616年に即位し、次代のホンタイジが国号を「大清」に改め、3代目の順治帝の時代に中国土に進出。やがて康煕帝・雍正帝・乾隆帝の3賢帝の時代に極盛期を迎えた。現在の中華人民共和国の領域も、外モンゴルと台湾を除けばほぼ清朝の範囲を継承している。 清朝は1840年のアヘン戦争を境に衰退し、1911年の辛亥革命で滅びた。ただ、最後の皇帝・溥儀はやがて日の関東軍に利用されて傀儡国家の満洲国の皇帝として即位、戦後は収容所を経て、最後は一般市民として北京市内で没する。このあたりの話は、映画ラストエンペラー』や、溥儀の弟の溥傑に嫁いだ日人・浩の自伝『流転の王妃』な

    「普通なんですが…」ネットを騒がせる“眼科の愛新覚羅先生”が明かす、やっぱり凄い“わが半生” | 文春オンライン
  • 既得権益を手放すことほど難しいことはない

    米国人に「日はなぜ真珠湾を攻撃したのか」と聞かれたら、どう説明しますか? https://courrier.jp/columns/256389/ 上の記事がホッテントリに入っているが、日が米国と開戦した理由は「既得権益を手放せなかったから」というのが一番シンプルな答えだと思う。 人間は「自分が手にしていないモノを手に入れられないこと」よりも、「自分が手にしているモノを失うこと」の方をはるかに恐れ、激烈に抵抗する生き物だ。例えば現在、韓国が実効支配している竹島を取り戻せと主張するのは右傾向の入った人が多いが、日が実効支配する尖閣諸島を守れと主張するのは、中道や左傾向の人にも多く見られる。 第二次世界大戦の頃に日が実効支配していた満州を世界から手放せと言われても、ハイそうですかと簡単に手放せなかった。特に朝鮮、満州は「祖先が血を流して手に入れた領土をむざむざ手放そうというのか!」という

    既得権益を手放すことほど難しいことはない
  • 地図会社大手「ゼンリン」と戦後日本社会のあゆみ、そして戦前からの連続|竹内孝治|マイホームの文化史

    今の時代だとなんだかドン引かれることもありそうなアプローチですが、住宅を新築した方のなかには、業者選定のキメ手に「最初に家に来てくれたから」という理由を挙げるケースがあるそう。なので有力見込み客には迅速なお礼訪問が求められたのです。 そんなこんなで、住宅営業時代たいへんお世話になった「住宅地図」が、住宅営業の必須アイテムになった経緯について、住宅地図の最大手「株式会社ゼンリン」の社史『ゼンリン50年史』(ゼンリン、1998年)を片手に、スケッチしておこうと思います。では、クルクルバビンチョ、パペッピポ、ヒヤヒヤドキッチョのモーグタン! 戦後、住宅地図が生まれた契機敗戦後間もない1948年まで遡る「株式会社ゼンリン」。住宅地図の制作・販売会社としては最大手。それゆえ注目度は高く、最近でもこんな記事が出てました。題して「ゼンリンの日地図は、なぜ世界から信頼されるのか」。 たしかに前職の営業所

    地図会社大手「ゼンリン」と戦後日本社会のあゆみ、そして戦前からの連続|竹内孝治|マイホームの文化史
    whalebone
    whalebone 2021/02/23
    『創業者の大迫正冨・先代社長が若き日に勤務した華北交通(満鉄)の社訓「善隣協和の大義を宣揚すべし」という言葉に由来』
  • 明治の文豪も訪ねた満洲三大温泉はいま | ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌

    日露戦争後、関東州と南満州鉄道附属地を手に入れた日は、満鉄主導で現在の東北地方の開発を進めましたが、いかにも日らしいと思うのが、各地に温泉を開発し、行楽地にしたことです。 なかでも有名だったのが、湯崗子温泉(鞍山)、熊岳城温泉(営口)、五龍背温泉(丹東)でした。当時は「満州三大温泉」と呼ばれていました。 これら満州の温泉を世に広めるのに一躍買ったのが、明治の文豪たちです。 最初の話題提供者は、『満韓ところどころ』を書いた夏目漱石。彼が訪ねたのは日露戦争後わずか 4年目( 1909(明治 42)年)で、満鉄沿線は開発途上でした。それでも、漱石は熊岳城温泉と湯崗子温泉を訪ねており、兵士の療養小屋に毛の生えた程度の温泉宿の様子を「すこぶる殺風景」と評しています。 時代は移って大正期に入ると、紀行作家として有名な田山花袋のベストセラー『温泉めぐり』や『満鮮の行楽』などの読み物の中に、満洲三大温

    明治の文豪も訪ねた満洲三大温泉はいま | ニッポンのインバウンド“参与観察”日誌
  • 家路 / ちばてつや

    Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation) All rights reserved. 許可なく転載することを禁じます。このページは受信料で制作しています。 Copyright NHK (Japan Broadcasting Corporation) All rights reserved. 許可なく転載することを禁じます。このページは受信料で制作しています。

  • 両陛下、長野「満蒙開拓館」訪問 「伝えることが大切」:朝日新聞デジタル

    戦前、中国東北部(旧満州)に27万人とされる日人が開拓団として渡ったが、敗戦後に多くが捕虜となり、収容所で飢えや疫病などで犠牲になった。長野県は全国最多の約3万3千人を送り出したという。 終戦後に苦労しながら帰国したという男性に、皇后さまは「よくお苦しみに耐えてくださいましたね」と声をかけた。天皇陛下は「こういう歴史があったことを、経験がない人たちに伝えることが大切だと思います。そういうことを経て今の日が作られたわけですから」と語りかけた。 その後、同県飯田市の「りんご並木」を訪れ、地元の中学生が収穫する様子を見守った。天皇陛下は中学生たちに「これからの未来を有意義に過ごされますように」と話しかけていた。 両陛下はかねて旧満州などからの引き揚げ者に心を寄せ、開拓団が戦後に入植した長野・軽井沢の大日向地区、栃木・千振地区を訪れたことがある。(島康彦)

    両陛下、長野「満蒙開拓館」訪問 「伝えることが大切」:朝日新聞デジタル
  • 大連、連鎖街など旧日本の建物巡り (大連) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル

    junさんTOP 旅行記137冊 クチコミ189件 Q&A回答126件 423,073アクセス フォロワー22人 大連に6週間、語学留学しましたが、その合間に日人街の建物をいろいろ見てきました。 特に大連駅前の旧連鎖街は、三船敏郎の父上の写真店など、興味深いものでした。 連鎖街は、桑田佳祐の「流れる雲を追いかけて」と言う曲にも出てきます。 戦後70年以上経ち、相当老朽化しているので、近々壊されるのではと思います。 場所も大連駅前の一等地で、行きやすい場所なので、是非今の内に見て置くことをお勧めします。 表紙写真は、旧連鎖街で遊ぶ子供達です。昭和初期(日時代なので)の街並と平成?の高層ビルです。

    大連、連鎖街など旧日本の建物巡り (大連) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル
    whalebone
    whalebone 2016/08/29
    『写真を撮ったすぐ後で、中国空軍兵士に拘束されてしまいました。刑事の尋問も含めて4時間拘束』
  • 村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~

    昭和20年8月、旧満州(中国東北部)。ソ連の侵攻で軍が撤退、取り残された人々は攻撃にさらされ、逃げ惑い、およそ8万人以上が犠牲となり、中国残留孤児など数々の悲劇を生んだ。それが、植民地の治安安定や軍への糧供給を目的に27万の人々が満州に送り込まれた『満蒙開拓』、移民事業の結末だった。これまで「関係資料は破棄され、人々が渡った経緯は不明」とされていて、その詳細は知られてこなかった。だが、村人を送り出した、ある村長の記録や破棄されたはずの極秘文書が発見され、農村を中心に村人がどのように送りだされたのか実態が明らかになってきた。今回、日記や関係資料の全容取材が許された。また、専門家によって軍や国が『満蒙開拓』にどう関与したかを探る調査も進められている。番組では新たに発見された日記や国側の資料を通じて、国策はいかに遂行され、地方の山村から人々は、なぜ満州へ渡ることになったのか、その真相を明らかに

    村人は満州へ送られた~“国策”71年目の真実~
  • (旧満州黒石屯和歌山村)中国吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市 (吉林) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル

    1928年(昭和3年)に建設された敦化駅 大連駅から977キロ 1933年(昭和8年)南満州鉄道 京図線(新京 - 図們間)開通 大阪毎日新聞記事(昭和8年) 「大連社特電【二十日発】満鉄当局は二十日午後一時満洲鉄道問題について左の通り発表した 目下建造中の敦図線(一九〇キロ)の軌条は二十日全線連接開通し図們江橋梁を渡って朝鮮図們東部線に連接し得るに至れり、なお引つづき諸工事の実施を要するものあるも五月下旬より取敢えず仮営業を開始する予定なり 【間島竜井村二十日発連合】敦化、図們江間を連絡する敦図鉄道はいよいよ完成したので二十日間島竜井村で山崎満鉄総裁代理をはじめ関係者、一般住民多数出席、盛大な開通式を挙行した、右敦図線の開通により懸案の会寧より敦化、吉林を経て新京に至る新幹線はここに完成されたわけである」 現在は中華人民共和国の国鉄路線。吉林省長春市と図們市を連絡する長図線 吉林省延辺

    (旧満州黒石屯和歌山村)中国吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市 (吉林) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル
  • 南滿洲鉄道廃線跡 超特急パシナ形蒸気機関車  (吉林) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル

    大串斉さんTOP 旅行記25冊 クチコミ18件 Q&A回答0件 154,612アクセス フォロワー6人 パシナ形蒸気機関車 客車は瀋陽鉄路陳列館で見学できます。 2019年12月12日行ってきました。 満鉄 満州に存在した日の鉄道会社 南満州鉄道株式会社1906年(明治39年)~1945年(昭和20年) 渋沢栄一は1906年南満州鉄道(株)の設立委員及び定款調査特別委員長を務めました。 初代総裁 後藤新平 社所在地 大日帝国 関東州大連市東公園町30 和歌山県和歌山市出身 島安次郎 1894年に関西鉄道に入社。1907年に関西鉄道が国有化されると鉄道院に入省し国鉄の広軌化計画に策定 当時の政界は利権重視の地方ローカル線延伸を優先し、幹線の改軌による輸送力向上という安次郎らの「改主建従」主張は受け入れられなかった。原敬内閣が狭軌の採用を決定したため辞職し渡満。 満鉄理事 広軌鉄道推進派

    南滿洲鉄道廃線跡 超特急パシナ形蒸気機関車  (吉林) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル
  • (旧大日本満州首都新京市 )満州国新京特別市 (長春) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル

    大串斉さんTOP 旅行記25冊 クチコミ18件 Q&A回答0件 154,612アクセス フォロワー6人 中華人民共和国吉林省長春市 (旧満州国新京特別市) 大日満州首都新京市 1905年(明治38年)~1945(昭和20年)日統治時代 日が蓄積してきた都市計画の理念と社会資整備の技術を一気に投入し建設した大日帝国 大滿洲帝國 満州國新京特別市 無電柱化道路は地中に電線 上下水道とガス管埋設 住居は水洗トイレ ガス炊飯 ペチカ壁暖房とスチーム暖房システムが採用で一年中、熱いお湯とガス炊飯 電話が完備されていました。 満州時代は左側通行でしたが現在は右側通行になっています。 終戦時、進駐米国将軍が「後世に誇るべき傑作」と評価した先進的な都市。 その日の街並み 痕跡を現在もみる事が出来ます。 日では味あうことができない昭和日 (現在)中華人民共和国吉林省長春市 撮影協力 大連在住

    (旧大日本満州首都新京市 )満州国新京特別市 (長春) - 旅行のクチコミサイト フォートラベル
  • 株式会社小野測器

    小学校から大学まで、すべての教育は外地で受け、戦争中の軍隊生活、ソ連、国民党、中国共産党などの混乱渦巻く、敗戦後の満州生活を経て、昭和22年やっとの思いの母国への引き揚げ、国ではただただ生きる手段の零細企業を経営していたら、いつの間にやら第一部の上場会社に成長した小野測器。 考えてみると、過酷な運命に翻弄されもしたが、運にも恵まれた、私の人生である。 私は運命の女神には何事も逆らわない主義で、ただ順応するようにと心がけてきた事が、逆鱗にもふれない結果を生んだと、信じている。いわば偏に老子の無為の世界である。 現代の平和ボケした、日人にはとても想像出来ないだろうが、私のたどった技術人生を、取りとめもない文ではあるが記して見よう。 1.学生から軍隊時代 私は炭鉱の町撫順中学から、日露戦争の激戦地で名高い旅順の旅順工大予科に入学した。科は電気工学科に進み、卒業は昭和16年12月、例の真珠

    株式会社小野測器
  • 中国帰国者支援交流センター

  • 「武蔵小山商店街」がまるごと「満蒙開拓団」なって満州に渡っていたこと、ご存じでしたか? – きたざわ潤子

    毎年、必ず見に行くのがこの資料展です。 第35回 大田平和のための戦争資料展 戦争への道は足元から 若者たちの明日は? 2014年8月15日(金)~17日(日) 大田区民プラザ(下丸子駅前) 地階 展示室 戦時中の生活を偲ぶ数々の品物、軍服やゲートル、紙でできたランドセル、当時の教科書・・。たくさんの写真や証言の記録。 いつも、“当にこれが現実だったのか”、と呆然としてしまいますが、「なぜこんなことになったのか」と考え続けていくことはとても大事であり、いつの時 代にも通じる「危険な芽」を見抜くためにもこの資料展を多くの若い人にもぜひ見てほしいと願うものです。 戦争資料展開催にあたって 従軍慰安婦・集団的自衛権、さまざまなコーナーがありますが、「東京の満蒙開拓団」のコーナーからのご紹介。 ●「満蒙開拓団」 関東軍が1931年に満州事変を起こしてつくった国家の「満州国」(現中国北東部)。日

  • 東京満蒙開拓団/農民訓練所あった/失業者ら中国に送り出す/実像の一端判明

    「都会の失業者や中小商工業者たちを満蒙開拓団として送り出すために、東京に『農民訓練所』があった」―。東京都から送り出された満蒙開拓団の実像の一端が、「東京の満蒙開拓団を知る会」の調査で明らかになりました。 「大田・平和のための戦争資料展」(九日―十一日、大田区民ホール「アプリコ」)で発表されます。 東京にあったのは、「多摩川農民訓練所」。「失業して転落した青年、ルンペンになった独身青年を一定の期限で軍隊式に団体訓練して秩序だった移民団を満州に送ろう」と一九三四年に当時の東京府が計画。大田区矢口町に平屋建てと二階建ての三棟をつくりました。 直接指導に当たったのは、救世軍、上宮教会、修養団の三団体。一日中、農園で働き、農業技術や農業経営を学びました。期間はほぼ六カ月。一九三九年六月に「女子拓務訓練所」に変更し、男子は東京都日野市の「七生訓練所」に移転しました。 同「知る会」の調査によると、一九

  • https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/?das_id=D0001220026_00000

    https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/?das_id=D0001220026_00000
  • 弾丸列車 - Wikipedia

    弾丸列車(だんがんれっしゃ、彈丸列車)は、日で1939年(昭和14年)に始まった、通称「弾丸列車計画」で計画されていた列車である。この計画は戦後の新幹線へと繋がっている。 計画の背景[編集] 1932年(昭和7年)ごろ、日から朝鮮半島・中国大陸へ向かう輸送需要は年々急増していた。その前年(1931年:昭和6年)には関東軍が満洲事変に遭遇しはじめており、その1932年(昭和7年)には満洲国も成立したためであった。東京・大阪からそれらの地方へ向かう当時の最速ルートは、まず東海道線・山陽線で下関まで行き、関釜連絡船で玄界灘を渡って釜山に上陸後、さらに朝鮮総督府鉄道(鮮鉄)・南満洲鉄道(満鉄)を利用するというルートであった(→国際連絡運輸も参照)。ところが、その当時すでに東海道線と山陽線は重要幹線であるが故に輸送力が逼迫した状態であった。例えば、東海道線と山陽線の総延長は当時の国鉄

  • 沿革 - ミネベアミツミ

    おかげさまで70年 ミネベアミツミ株式会社はおかげさまで、日7月16日に設立70周年を迎えることができました。これもひとえに、皆さまのご支援の賜物と厚く御礼申し上げます。 当社は1951年7月、日で初めてのミニチュアベアリング専業メーカーとして東京都板橋区に誕生しました。終戦後、満州から帰国した旧・満州飛行機製造の技術者が航空機産業の発展に夢と情熱を託して立ち上げた会社でした。 それから70年がたち、電子機器分野に進出するとともに、ミツミ電機、ユーシン、エイブリックとの経営統合をへて、ボールベアリングからモーター、センサー、アクセス製品、半導体に至るまで、世界でも類をみないユニークな事業ポートフォリオを持つ「相合」精密部品メーカーへと成長し、今期は売上高1兆円を超える予定です。さらに世界27か国・約10万人の様々なバックグラウンドを持つ従業員が一丸となり、超精密機械加工技術と大量生産を

  • http://www.nuis.ac.jp/ic/library/kiyou/6_hirose.pdf

    新潟国際1青報大学情報文化学部紀要 「満州国」における水豊ダム建設 0乃e Co皿sケuc血o皿of妨e Sup’u皿gDam jηルZ舳c血ukuψ 広瀬貞三* 目次  はじめに 一1・満州国における鴨緑江開発計画  (1)鴨緑江開発計画の進展  (2)「鮮満一如」と鴨緑江開発  (3)水豊ダム施工体制の整備 2・水没地と満州国住民の移住  (1)安東省公署による用地買収  (2)水没地住民の移住  (3)残留住民への圧力 3・労働者の大量動員と現場の労働・生活  (1)大規模な労働力動員  (2)現場の警備  (3)現場での労働と生活  おわりに はじめに  水豊ダムは1937年から44年(41年に一部発電開始)にかけて、朝鮮総督府(以下、総督府 と略す)と悦偲「満州国」(来は括弧を付すべきだが、煩雑になるため以下では茸略する) 政府が共同で、当時の「国際河川」である鴨緑江に築いた

  • 中里一日記: 八紘一宇はなぜ悪いのか

    八紘一宇はなぜ悪いのか 関東軍の印章には「八紘一宇」と刻まれていた。戦前・戦時中の戦意高揚アジには、「八紘一宇の大理想」というスローガンが常に繰り返されていた。 日書紀の一節から作られた言葉だが、歴史は浅く、大正時代の作である。作者・田中智学は新興宗教の教祖で、信者のなかに石原莞爾がいた。この巡り合わせがもしなかったら、八紘一宇という言葉が軍部に注目されることもなく、違う言葉がスローガンに選ばれていただろう。 八紘一宇を国家的スローガンに押し上げたのは石原莞爾とそのエピゴーネンであり、この連中が「日のためによかれと思って」やらかした数々の独善が戦前日を滅ぼした。その経緯を思えば、わざわざ内容を検討するまでもなく、屑として歴史のくずかごに叩き込まれるのも当然だろう。 だが、内容の検討がされなかったせいか、「八紘一宇の大理想そのものは正しい」と言いたがる人々がいる。「考えている」や「思っ