わたし、好奇心旺盛で質問するの大好きだし、疑問に思ったことはすぐ「なんで?なんでそうなの?」って口にするタイプなんだけど、 どうやら日本という国では疑問をなげかけることは相手を否定することと同義であり、挑発でもあると気付いてしまってからしんどい~ なんで?って聞いただけで「私なにか悪いことした!?」って逆上する人多すぎてしんどい~特にTwitter界隈~
「AやBをCする」と言うなら、「AをCする」「BをCする」の両方が成り立ってほしい。文法的に。 でも「BをCする」しか当てはまらない用例が結構ある。話し言葉ならまあいい。でも、推敲されているはずの、公の場でさらされる文言でそういう例に触れるとモヤモヤしてしまう。 例えば以下はある電車内のアナウンス。 「携帯電話やゲームをしながらの歩行は、周りのお客様とのトラブルや怪我をされる恐れがあり、危険ですのでおやめください」 「や」が2つある。前半のそれでは「携帯電話」「ゲーム」が並列されている。でも「携帯電話をしながら」は不自然だ。完全にバツではないけど、公共の場でのアナウンスとしてはベストじゃない。「携帯電話やゲーム機を操作しながら」であれば、どちらにもきれいにつながったはず。 後半の「や」はもっとおかしい。「や」の前にある「周りのお客様とのトラブル」はどこにつながるのだろう。「トラブルをされる
うまく人と会話ができなくなっているような気がしてならない。 「あれ、この言葉の意味ってこれであってたっけ?」などと感じることが多い。 会話中に文法というか、論理展開が気になってしまって、ところどころ述語や接続詞や助詞等を選べなくなることがある。 この頃というよりか、以前から実はそうだったんだと思うんだけど、自覚症状が出てきたのか、言葉を使うのが極端に難しくなってしまった。 たとえば「そうそうたる面子が集った」などと使おうとしたときに、「あれ?『そうそうたる』って、具体的にどういう意味なの?」と考えて 「そうとうたるだっけ?」「なんだよそうそうたる面子って……」みたいになってしまう。 文章も、意図せず堅苦しい雰囲気になってしまって、自分で読み返すときも若干の辛さを感じてしまう。 特に難しい単語を使っているわけでもないのに不思議だ。 そうして日本語が外国語のように見えてきて、ぶっちゃけ英語も日
今、テレビで「日本アカデミー賞授賞式」が流れてんだけど、「ちはやぶる」って映画の解説で「撮影ではスピーディーな世界観を出すため」とかいってた。 なんだよ? スピーディーな世界観って。 多分1990年代から、それまでの「世界観」って言葉の用法が拡張されて、作品の背後にある作者の「世界観」ではなくて、作品そのものに投影されている「なにか」を「世界観」って言うようになったと思うが、最近は乱用がひどくって、単に「作風」とか「雰囲気」程度のものまで「世界観」にされちまってる。 あと、わざわざ「世界観」じゃなくても「世界」でもOKなんじゃないか?とか。 「作品の世界観を再現した」じゃなくて「作品の世界を再現した」で、意味わかるよね? 「世界観」は作品の背後にあるもので、そう簡単に再現はできねえんじゃないかなあ。 とりあえず、スピーディーな世界観ってなんだ? 単に、テンポの良い作品を作りたかっただけの話
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