いまから122年前の1902(明治35)年に起きた、八甲田山雪中行軍遭難事件。未曽有の荒天の中でいくつもの人為的なミスが重なったとされる。だが、その責任はほとんど追及されないまま、「無謀な行軍」の悲劇は「天災」として片づけられただけでなく、いくつもの「美談」に転化された。 その陰で事実は隠蔽され、多くの謎が残された。そこには、近づきつつあった日露戦争に全ての関心を振り向けようとする強い力が働いていた。210人が遭難し、199人が犠牲になった「日本山岳史上最悪」の遭難はどのように伝えられたのか。あるいは伝えられなかったのか――。 今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「