立川談志さんが亡くなった。 「談志」とシンプルに表記したものか、「談志師匠」と呼びかけるべきなのか迷ったあげくに、とりあえず「立川談志さん」と書いてみたのだが、やっぱり変だ。落語家の名前をどう扱うべきなのかについては、以前、五代目円楽逝去の際に掲載した原稿の中で書いている。ご興味のある向きは参照してみてほしい。結論は、どう呼んでも落ち着かないということだ。 落ち着かない理由のひとつは、私自身が、落語に対して構えてしまっているからでもある。落語については、考えるのでも語るのでも、まず自縄自縛に陥る。困った傾向だ。 以下、当稿では、単に「談志」と表記することにする。師匠が生きていた間、私は、ずっと「談志」という呼び方で先方の顔を思い浮かべていた。死んだからといって、急に改めるのは変だ。だから、「談志」と呼ぶ。半可通っぽく聞こえるかもしれないが、そこは大目に見ていただきたい。現実に私は半可通なわ
落語家の立川談志さん死去 11月23日 16時17分 古典落語に新たな境地を開き、テレビ番組の司会や参議院議員など幅広く活躍した、落語家の立川談志さんが亡くなりました。75歳でした。 立川談志さんは、昭和11年に東京で生まれ、16歳で五代目柳家小さんに入門し、27歳で真打ちに昇進して、五代目立川談志を襲名しました。現代風にアレンジした切れ味のよい古典落語で多くの高座に立つ一方で、テレビ番組の司会やコメンテーターとしても辛口のしゃべりで人気を集めました。昭和58年には真打ち制度を巡る対立が原因で落語協会を脱退して、「立川流」を創設し、立川志の輔さんや談春さん、志らくさんなど、現在第一線で活躍する落語家たちを育てました。落語の研究にも取り組み、「現代落語論」や「談志受け咄(うけばなし)」などの多くの著書を発表し、100の古典落語をCDに収録した「談志百席」を発売するなど、落語の普及に貢献しまし
・「麻布 瑠璃仙 (るりせん)」で検索してここに来る人が多いようなので、みうらじゅんが「ザ・スライドショー」で触れた麻布・瑠璃仙に関する話へリンクしておきます。 →麻布・瑠璃仙の正体発覚 おなじみ、落語「黄金餅」の一節。長屋の一行が、葬式を挙げるためのお寺に行く道中を描いた物。長くなりますが、原文を引かせてください。 下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下イやってまいりまして、三枚橋を渡って上野広小路へ出てきた。あれから御成街道をまっすぐにまいりまして、その頃、堀様と鳥井様のお屋敷の前をまっすぐに、筋違御門から大通り、神田須田町へ出てまいりまして、新石町から鍛冶町、今川橋を渡って本銀町、石町から本町、室町を抜けまして、日本橋を渡って通四丁目、中橋から南伝馬町を抜けまして、京橋を渡ってまっすぐに、尾張町をまいりまして、新橋を右に切れて土橋から久保町、新し橋の通りをまっすぐに愛宕下イ出てま
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く