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人生と歴史に関するkj-54のブックマーク (14)

  • 文房具屋のおじいさん|青木杏樹

    2015年の春のこと。 わたしはまだ青木杏樹ではなく、ただ趣味小説を書いている人でした。毎日毎日、400字詰め原稿用紙を20枚ワンセットを消費しては、文房具屋に買いに行きました。帰宅するとまた明け方まで20枚消費し、日が高くなる頃には買い足しに行く日々が続きました。 小説とは応募するもの、小説とは他人に読んでもらうもの、という考えがわたしにはありませんでした。 わたしの中には小さな世界がごまんとあり、その世界で生きている人たちはたえず呼吸をしていて、畑を耕し、水を飲み、作物を売ったり買ったりしていました。ときには殺し合って世界は消えてしまうこともありました。そうした流動する世界線がいくつも走り、絡み、まじり、繰り返す、衝動にも近い意識と妄想がするすると動くものですから、歴史をつむぐように彼らの証をのちのちまで残せないものかと考えたのがどうもわたしの執筆の原点のようです。つまり応募する、評

    文房具屋のおじいさん|青木杏樹
    kj-54
    kj-54 2020/08/17
    忘れないでおこう。いろいろと。
  • 月の叔母さんのお話 : 中国嫁日記 Powered by ライブドアブログ

    コメント一覧 (63) 64. 単行はすべて買ってます 2020年05月15日 02:15 こんなお話しも書けるのですね.感動しました. セリフや絵にすべてに深い意味があり,最高の芸術作品だと思います. 何度も読みました.これからも何度も読みにきてしまうと思います. 人間とは何なのか,幸せとは何なのか,私たちは一体何をしにこの世に命を授かったのか,深く考えさせられました. 新しい立派なマンションででも,立派に成長されたお子さんたちとでもなく, この方の「命が一番輝いていた」場所で思い出とともにその時を迎えたい, ということなのでしょうね. この方のような最後を自分も迎えられるよう,精一杯生きていこうと思います. 63. TANAちゃん 2020年03月07日 15:38 今実家に住んでいます。20年程前に今の地元にうんざりした挙句、関東に出たのです。しかしながら、経済面といわゆる空き家問

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  • ゆりかごから墓場まで – 生物考古学が明らかにする江戸時代のあるおばあさんの一生

    生物考古学の発展 縄文時代や江戸時代など、過去の人びとの暮らしや生死を明らかにする研究分野というと、多くの方々は考古学や歴史学を思い浮かべるのではないでしょうか。そうした分野に加えて、生物考古学 (bioarchaeology)という研究分野があります。遺跡から出土した人骨や動物骨の形態を調べたり、DNAを分析したり、化学分析を実施したりなど、生物学や地球化学の手法を主に利用して、当時の人びとの生死、性、健康状態、集団構造など、考古学や歴史学上の研究課題に答えようとする分野です。 生物考古学の特徴のひとつは、そのアプローチの多様さです。ほかの分野の最先端の分析手法によって得られた知見を、考古学や文献史学の情報と組み合わせることで、従来の研究よりずっと鮮やかに、多方面から、過去の人びとの生き様を復元できるようになります。 今回、私たちは、同位体分析という手法を適用することにより、江戸時代の

    ゆりかごから墓場まで – 生物考古学が明らかにする江戸時代のあるおばあさんの一生
  • 52年前のオリンピック、ある男性の勇気ある行為が彼の人生をめちゃくちゃにした。

    この時代を通過してきた人もそうでない人も、この写真が何を示しているかわかるはずです。これは1968年、4月にマーティン・ルーサー・キング・Jr.牧師、その2か月後の6月にロバート・ケネディが暗殺された年に撮られた写真です。ベトナム戦争に対する反戦運動が高まる中、多くの都市で学生運動や反戦運動が起こると同時に、アメリカ国内のいたるところで人種差別が引き金となった暴動や警察との衝突で多くの人が命を落としました。アメリカ、そして世界が揺れに揺れた年です。 その真っただ中に行われたのが、1968年のメキシコシティオリンピックでした。 世界が大きな変動の中にあったその年のサマーオリンピックで、1968年10月17日夕刻、メダル授与のために表彰台に上がった二人のアメリカ人が史上に残るある行為を行いました。 男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位に輝いたジョン・カーロスが、アメリ

    52年前のオリンピック、ある男性の勇気ある行為が彼の人生をめちゃくちゃにした。
    kj-54
    kj-54 2016/08/20
    彼らの事を尊敬する。主張も支持する。けど、オリンピックの精神からは受け入れられない行為だと思う。そして、俺はオリンピックの精神などどうでもよい。だから、ロンドン五輪での朴鍾佑の行為はOK(内容は別)。
  • 広島被爆米兵の名前を刻んだ日本の歴史家

    1945年8月6日に広島に落とされた原子爆弾によって亡くなった犠牲者の中には、12人の米兵捕虜も含まれていた。アマチュア歴史家の森重昭さんは、40年以上を費やし、被爆米兵の遺族を探し当てた。アメリカのバリー・フレシェット監督が、その記録を『灯篭流し(Paper Lanterns)』にまとめた。 森 重昭 MORI Shigeaki 1937年生まれ。アマチュア歴史家。広島原子爆弾を経験。2008年「原爆で死んだ米兵秘史」(光人社)を出版。広島で・佳代子と暮らし、2人の子供がいる。 バリー・フレシェット Barry FRECHETTE 1970年生まれ。1992年米ストーンヒル大学卒業。25年間、ボストンで広報の短編ビデオを初めとする制作の仕事に携わる。現在Connelly Partnersでククリエイティブ・サービスのディレクターを務める。「灯篭流し(Paper Lanterns)は、映

    広島被爆米兵の名前を刻んだ日本の歴史家
    kj-54
    kj-54 2016/05/27
    『40年もの間、森重昭さんは、広島で原子爆弾の犠牲になった14万人余りの人々に含まれていた被爆米兵捕虜12人の記録の断片を紡ぎ合わせてきた。・・・今年79歳になる森さんは、彼自身も被爆者だ』
  • 清里観光振興会/清里の歴史/清里を育てた人<ポール・ラッシュ博士>

    清里物語 清里は、標高千二百メートルの高原です。 水はつめたく、空はひろく、はるかに富士山が浮かんで見えます。秋と冬が長く、最低気温はマイナス二十度にまで下がることがあります。 この八ヶ岳山麓の高原が清里と呼ばれるようになったのは、たぶん明治八年からです。この年二月十五日、当時浅川村と樫山村が合併して清里村となりました。何のとりえもない、小さな村でした。 夏、清里は若者の街になります。駅前の通りも清泉寮も、民宿もペンションも喫茶店もお土産品店も、人、人、人であふれます。赤いパンツのサイクリングの一団が、牧場の間を駆け抜け、二人づれが手をつないで、ソフトクリームを買う順番を待っています。 清里は変わりました。 私たちが開拓者としてこの清里へやって来たとき、ここは一面の荒野でした。 私たちのふるさとは、東京の水ガメといわれる小河内ダム(奥多摩湖)の水の底です。 このダムを作るため

    清里観光振興会/清里の歴史/清里を育てた人<ポール・ラッシュ博士>
    kj-54
    kj-54 2014/10/03
    『昭和十三年四月十七日。途中の甲府駅で、色白の、もの静かな青年に迎えられました。山梨県耕地課のお役人で八ヶ岳開墾事務所長の安池興男氏でした』
  • 藤田信雄 - Wikipedia

    藤田 信雄(ふじた のぶお、1912年[1] - 1997年9月30日)は、大分県豊後高田市出身の帝国海軍の軍人。最終階級は特務士官たる少尉(終戦による特進後の最終階級は特務士官たる中尉)。 帝国海軍の伊号第二五潜水艦(伊25)から零式小型水上機を飛ばし、史上唯一アメリカ合衆国土に対して航空機による爆撃を実施するという、後にルックアウト空襲とよばれる爆撃を敢行した軍人である。彼の任務は、太平洋戦争における太平洋戦域のアメリカ海軍の資源を奪い去るため、焼夷弾を使用してオレゴン州ブルッキングズ市に近い太平洋岸北西部に大規模な山火事を発生させるというものだった。この戦略は日の風船爆弾作戦にも採用された。 軍歴[編集] 藤田は1932年(昭和7年)に日帝国海軍に入隊し、1933年(昭和8年)にパイロットとなった。 真珠湾攻撃[編集] 帝国海軍潜水艦伊25の同型艦伊26[2]。 藤田は真珠湾攻

    藤田信雄 - Wikipedia
    kj-54
    kj-54 2014/08/31
    自決用に…自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、ブルッキングズ市…藤田をフェスティバルの主賓として招待したのであり…藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈った』
  • 日本人慰安婦の話(美輪明宏)と元日本軍慰安婦に関する正確な知識

    ~二次加害者とならないために~ 日人慰安婦の話と、元日軍慰安婦に関する正確な知識 2015.1.14 【日人慰安婦の話~橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより) 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。 あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。 従軍慰安婦というのはもう60年以上前の、つまり半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。 これでいろんなメディアが昔を語るという、終戦記念日に近くなると、よく昔の焼け跡だとか兵隊さんの話とか色々なものを聞いて、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。 でも従軍慰安婦の人たちというのは、直の話を聞けないんですよね。 そして聞けるのは大体、韓国中国の従軍慰安

    kj-54
    kj-54 2014/05/05
    三輪明宏が少年時代丸山遊郭で経験した話。「祖国の女たち」歌詞あり。
  • 家族を殺害したナチスのマスコットになった少年、50年後に真実を語る

    ナチスのマスコット・ボーイだったアレックス・クルツェム(Alex Kurzem)さんの写真(1944年に撮影、2007年9月2日公開)。(c)AFP 【9月24日 AFP】5歳の時に目の前でナチス・ドイツに家族を殺されたユダヤ人の少年が、終戦まで、ナチスのマスコット・ボーイを務めていたという実話が人により明らかにされた。 この人物はアレックス・クルツェム(Alex Kurzem)さんで、終戦までナチスのラトビア親衛隊(SS)のマスコット役を演じていた。事実上の保護者となったナチス兵士にユダヤ人であることを知られまいと必死に身元を隠したクルツェムさんは、終戦後も50年以上、このことを誰にも話さず、つい最近、息子のマーク(Mark)さんにすべてを打ち明けた。 秘密は「骨の中の毒蛇のように自分をさいなんだ」と語るクルツェムさん。戦後移住したオーストラリアで、自分の体験をつづったを出版した。

    家族を殺害したナチスのマスコットになった少年、50年後に真実を語る
  • ヤルゼルスキ宅でお茶するワレサ - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

    ワレサとかヤルゼルスキといっても、近頃の若い人々には何のことやら・・・かも知れませんが、まだソビエト連邦が強大な力を振るっていた32年前のポーランドで、連帯という名の労働組合を率いたワレサ氏と、首相として戒厳令を敷いたヤルゼルスキ氏が、今では好々爺然としてお茶をしているようであります。 http://www.thenews.pl/1/9/Artykul/105835,Walesa-takes-tea-with-former-communist-leader 当時、既に社会主義諸国の惨状はよく伝えられていただけに、ポーランドの連帯という名も熱いまなざしで見つめられていたようですが、今やそれも夢のまた夢というところでしょうか。 濱口先生、お久しぶりです。 この記事、当に感慨深いですね。 私は73年生まれですから、この手の話がはっきりと記憶にある最後の世代かと思いますが、以前、ポーランド出張し

    ヤルゼルスキ宅でお茶するワレサ - hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
  • アポロ計画に参加してた97歳だけど何か質問ある? | AMAの世界

    『私はアポロ計画に1号から14号まで参加していた97歳です。2人の大統領と、大統領になる前からの知り合いでした。』 ハーイ!これが私のおじいさんです。えっと、そう、これは昔の写真。今のおじいさんはこちらです。これもおじいさん。 彼はとても華やかな人生を送って来ました。スレッドのタイトルは、そのほんの一部。他にはこんなこともありました。 アポロ8号とアポロ11号の時は、ラジオ・テレビ関係部署の代理部長を務めていました(来は副部長だったのですが、その2つのミッションの時は部長が病気だったので)。 彼と奥さんが二度目に顔を合わせたのは、二人の結婚式の日でした。 第二次大戦と朝鮮戦争に従軍していました(いい話がたくさんあります)。 アメリカで当時最年少のイーグルスカウト(訳注: ボーイスカウトの最高位)でした。 バージニア大学に16歳で入学し、18歳で一度退学しましたが、20歳で同級生と一緒に卒

  • ロバートは10代で自分のアートを見出したけれど、私は66歳でいまだに探し続けています - webDICE

    (c)yoshie tominaga ニューヨークを舞台に、写真家ロバート・メイプルソープとの出会いから別れまでの20年を綴った自叙伝『ジャスト・キッズ』、そして1980年代から2007年までに書かれた作品を集めた詩集『無垢の予兆』を日で刊行したパティ・スミス。10年ぶりとなる日でのライヴ・ツアーのために来日した彼女が著作について、そしてクリエイティブな志について語った。 書くためには、静かに孤独でいる時間が必要 ── 『ジャスト・キッズ』は2010年に全米図書賞を受賞し、昨年12月に日でも刊行されました。 驚いたというのが正直な感想です。コアなファンのためのものではないかと思ったのですが、それが42か国で翻訳され、全米図書賞を受賞し、世界中で100万部近く売れた。私の小さな物語が多くの人が読んでくれたということはたいへん嬉しく思うと同時に、次のも書こう、という気持ちにさせてくれま

    ロバートは10代で自分のアートを見出したけれど、私は66歳でいまだに探し続けています - webDICE
    kj-54
    kj-54 2013/02/02
    ニューヨークを舞台に、写真家ロバート・メイプルソープとの出会いから別れまでの20年を綴った自叙伝『ジャスト・キッズ』
  • 火論:夢の3球三振=玉木研二- 毎日jp(毎日新聞)

    <ka−ron> 粋なことをやる、というより、ここにアメリカ社会に深く根差した野球文化の真骨頂を見るべきかもしれない。 一度きりの復帰打席で3球三振、そしてスタジアム中が総立ちで祝福する。先週、優勝争いより心が動いた大リーグのニュース映像である。 話はこうだ。 アダム・グリーンバーグ外野手(31)。05年にカブスで大リーグの初打席に立ったマーリンズ戦で、初球のスピードボールを頭に受け倒れる。この後遺症で、彼は大リーグから遠ざかる。 しかし復帰をあきらめず、マイナーや独立リーグなどでプレーを続けた。ファンの応援も広がった。そのひたむきさに因縁のマーリンズが動く。「1日限定」で契約を結び、2日のメッツ戦の六回、代打で打席に送った。もちろんこれは余興ではない。 こうあるべきだという目に見えぬ大きな意志や、多くの人が暗黙のうちに分かち持つ、価値観のようなものが作用したのではなかったか。 スタジアム

    kj-54
    kj-54 2012/10/14
    玉木正之の良い面が出たコラムだなと思ったら。玉木違いだった。
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