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歴史とプロ野球に関するkj-54のブックマーク (5)

  • 【ガチの】プロ野球「黒い霧事件」とはなんだったのか【八百長】 : 日刊やきう速報

    一番最初、発端は 西鉄の外国人野手カール・ボレスが対戦相手コーチの与那嶺要に 「ウチにわざとエラーする選手がいる気がする」 とこぼしたこと。

    【ガチの】プロ野球「黒い霧事件」とはなんだったのか【八百長】 : 日刊やきう速報
  • 僅か3年存在した“幻のプロ野球チーム”を紐解く - ライブドアニュース

    菊池幸男さんという巨人軍を影で支え続けた男の生き様を描いた『』を出版した、ノンフィクションライター・長谷川晶一さんに訊いたインタビュー。 第二回目は、『不滅』の創作エピソードはもちろん、1954年から僅か3年という短い活動期間となった“幻のプロ野球チーム”高橋ユニオンズの歴史を紐解いた『』執筆秘話、そして、現在の取材活動まで話を伺った。 [] ――『不滅』に至っては、菊池さんの人生と、巨人という球団への興味とがあったということですか。 小さい頃から、僕はヤクルトファンなんです。でも、そうはいっても、巨人っていうチームは王さん、長嶋さんって凄いじゃないですか。その巨人を支えている菊池さんっていう人を見たときに「やっぱり巨人ってスゲーな」っていうのが多々あったので、それは書いてみたいって思いましたね。 一回書いたものを全部書き直しましたけど、最初に書いたのは、全部僕のミステイクだったんです。V

    僅か3年存在した“幻のプロ野球チーム”を紐解く - ライブドアニュース
    kj-54
    kj-54 2014/03/29
    「いつも金田対長嶋の開幕4三振が話題になるけど、彼は大学出たてのルーキー。俺はプロで100何勝もしている大エース。どっちがどう勝つか、どういう結果になるか、歴史を知っていれば一目瞭然。4打数4三振で騒ぐな」
  • 突然ですが若松勉は良い打者だった|野球史 : 野球の記録で話したい

    2013年10月07日 18:07 突然ですが若松勉は良い打者だった|野球史 Tweet 何の脈絡もないのだが、FBで若松勉のことが話題になっていたので、STATSを紹介したくなった。いい打者だった。 1970年、ドラフト3位で電電北海道からヤクルト入団。 この年のドラフトはヤクルトが大豊作だった。1位に山下慶徳(河合楽器)、3位に若松、4位に渡辺進(銚子商業)、8位に会田照夫(三協精機)、10位に杉浦亨(愛知高、入団時は投手)、入団しなかったが12位で倉持明(横浜一商)も指名している。 キャリアSTATS 美しいSTATSだ。若松の特長は、「最初から打てた」と言うことだ。1年目から18年目まで、打数が多くても少なくても3割近くをマークしている。 人は自信が無かったそうだが、その打撃は即戦力にふさわしいレベルだったのだろう。 STATSで目立つのは三振がきわめて少なかったこと。最多で43

    突然ですが若松勉は良い打者だった|野球史 : 野球の記録で話したい
    kj-54
    kj-54 2013/10/08
    「美しいSTATSだ」
  • “宮内義彦コミッショナー”とはどんな人物か?|野球史 : 野球の記録で話したい

    2013年10月07日 10:23 “宮内義彦コミッショナー”とはどんな人物か?|野球史 Tweet 加藤良三氏の辞任表明を受けたNPBコミッショナーの後任探しは、王貞治氏の固辞によって暗礁に乗り上げる可能性が強まった。 加藤氏への世間の批判、そしてNPB機構の抱えている問題を考えれば、次期コミッショナーは「火中の栗を拾う」役割に他ならない。 天下りの名誉職気分で受ける人はいないだろう。皮肉なことだが、加藤氏の失態によって、コミッショナーの「来あるべき姿」が浮き彫りになった形だ。 プロ野球の臨時オーナー会議は、2日、加藤良三コミッショナーの後任について、退任する今月25日までに決定しない場合は、オーナー会議議長であるオリックス・宮内義彦オーナーをコミッショナー代行とすることを決めた。 宮内氏は「新しいコミッショナーを選ぶということについて、鋭意努力をしていく。10月25日までに決まるかど

    kj-54
    kj-54 2013/10/07
    “宮内義彦コミッショナー”の時代が始まるとすれば、プロ野球改革は停滞すると思われる。
  • 「社会史としての野球」を読む楽しみ|野球史 : 野球の記録で話したい

    2013年08月01日 13:44 「社会史としての野球」を読む楽しみ|野球史 Tweet 神保町の古書肆「ビブリオ」さんが主宰する会合に毎月出席している。3回目のテーマは「高橋ユニオンズ」だった。こんなテーマ、ここでしかやらない!当ブログで何回も紹介した『最弱球団高橋ユニオンズ青春期』の著者長谷川晶一さんと、高橋のオーナー、高橋龍太郎氏のお孫さんの秋山哲夫さん(サッポロビール元専務)が、1954年から1956年の3シーズンだけパリーグに存在した薄幸な球団について話された。 長谷川さんがこの球団に興味を持ったのは、高橋の投手として活躍した後、故郷のミクロネシアで酋長になった相沢進がきっかけだったこと、高橋オーナーが実に無口だったことなど、話はのっけから興味深いものだった。 話以上に我々を圧倒したのは、秋山さんがお持ちくださった史料だった。球団設立の登記関係の書類、株券から、選手の契約書(佐

    kj-54
    kj-54 2013/08/03
    「日本のプロ野球の歴史を語るうえで、政財界との関係は欠かせないのではないか。そういう側面を明らかにしないと、本当のプロ野球史にならないのではないか」
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