アイルランド西部で6月1日、地中から2000年前に作られたとみられるバターの塊が見つかった。FOXニュースなどが報じた。 発見者は、燃料用の泥炭の採取を職業にしているジャック・コンウェイさん。ミース州ドレイクラスの自宅近くの沼地を5mほどの深さまで掘っていたところ、強い匂いを放つ重さ10kgのバターの塊が出てきた。ラグビーボールくらいの大きさだったという。
江戸時代の参勤交代で、和歌山から江戸に向かう順路や注意事項、持ち物などを記した文書が、和歌山市内で見つかった。 いわば、参勤交代の“マニュアル本”で、同市立博物館は「これほど詳細に記述された資料は珍しく、当時の紀州藩を知る上でも貴重な資料」と評価している。 「御道中御道割川河」と題した全59ページの小冊子で、縦12・6センチ、横17・5センチ。巻末には安政7年(1860年)に、人見宗覚という人物が筆写したことが明記されている。和歌山市内の会社員男性が今年6月、自宅の書物を整理していて発見。今月上旬、同博物館に寄贈した。 文書は、紀州藩の10代藩主、徳川治宝(はるとみ)が文化10年(1813年)に参勤交代で江戸に向かった際の事柄を基に記述。和歌山を出発し、大坂、淀、伏見などを経由する順路や配列、淀川を渡る際の注意事項、鉄砲や弓、馬印など必要な持ち物などが挿絵とともに細かく紹介されている。 道
印刷 上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵した
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