著: 玉置 標本 「日本一有名なニート」という謎の肩書を過去に持ち、長年にわたってギークハウスというシェアハウスを運営していたphaさんが、2年前にとうとう一人暮らしを始めたそうだ。phaさんを知る人にとっては、ちょっとしたニュースである。 そもそもなぜシェアハウスを始めたのか、どうしてニートの道を歩み続けたのか、そして今はどんな暮らしをしているのか。学生時代から遡って、本人からじっくりと話を伺った。 ちなみにphaさんと私の関係は、共通の友人に呼ばれて年に何度か顔を合わせるくらいの薄い関係で、二人きりで会うのは今回が初めてである。 家賃4100円の寮で過ごした京都大学時代phaさんは1978年生まれの42歳(2021年3月現在)。出身地は大阪で、大阪城の側にある高校を卒業後、現役で京都大学の総合人間学部に進学。 最初の一年間は実家のある大阪から京都まで通っていたが、二年目からは伝統的に寮
「決して譲れないぜこの美学」、あるいは「どっちも正義だが政治じゃない」。 RHYMESTERとTHA BLUE HERBが繰り広げたBEEFと、和解の記録。 RHYMESTERとTHA BLUE HERB。90年代から現在に至るまで、日本のヒップホップシーンの最前線、そして中核にあり続け、二十数年のキャリアを経てなお現在も、まさしく読んで字のごとく、まごう方なき「現役」であり続けている二組のヒップホップアーティストです。 彼らの間にBEEFが巻き起こっていた事実は、日本のヒップホップのリスナーの間では一種の常識とされています。 しかしそのBEEFの知名度に比べると、楽曲を通じて行われたやりとり自体は決して多くありません。ではなぜこのBEEFが有名なのかというと、おそらく彼らが対極ともいうべき個性を持った二組だったからに他ならないでしょう。 というわけで、まずはそれぞれ極めてヒップホップ的で
32歳の時、もう6年ほど彼女いませんでした。当時、1年に一、二度くらい、どうしてもセックスしたくなって、東京出張や札幌出張の時に、デリヘルを呼んだりしてました。職場の先輩(42歳、未婚)が飲み会の2次会で「出会い系アプリでいくらでもセックスできる」と宣われていたので、いっちょやってみるかと軽いところから、トークアプリ(ランダムに誰かと繋がって、喋ることができる)を使ってみました。最初は普通に喋ってましたが、「普通に喋りたい」という女に頭の悪い奴が多く、ろくな会話にならないのでイライラすることが多く普通の会話はやめました。方針を転換し、エロトークで頑張ったところ、結構な数の女性とエロイプ的なことができました。テレHにて(さんざん甘い言葉で)女性を逝かしてから、ピロートーク的に喋ると、「普通に喋りたい女」に比べて、「オナニー女」の方が会話が続く。しかも女子大生だとか、大手企業に勤めてますとか、
学生時代のほぼすべてを一緒にすごした元彼が結婚する。久しぶりに送られてきたメールで知って、ああもうそんな歳になったんだと思った。 ずいぶん長い間一緒にいたのに彼との思い出はセックスばかりだ。お互いの実家はもちろん、ひとり暮らしの後輩の部屋とか、野外とか、車の中とか、ホテルとか、漫画喫茶とか、もちろん大学の構内でもやっていた。 ふたりとも割とクズで、授業も行かずサークルに入り浸ったりバイトに行ったりパチンコにとなんとも自堕落な学生生活だった。 正直彼と付き合っていた期間でその後のプラスになったものはあまりない。彼の方もないと思う。でも、ふたりともあまりになかったからこそ、別れてから人が変わったとよく言われていた。 彼も私もきちんと働いているし、すくなくない給料をもらって生きている。 結婚するという報告と一緒に、昔作ってくれたクリームコロッケの作り方を教えてくれと言われた。煮たり固めたりめんど
「どうやって生きていけばいいだろう」と彼は言った。「学歴もなければ大した職歴もない、ぼくらのような人間はどうやって生き残ればいいだろう」 京都、三条河原町。最近できたばかりのつけ麺屋に、友人とたむろしていた。 麺大盛り根菜チャーハンセットを待ちながら彼は続けた。 「いまの時代、あらゆる仕事が機械に置き換えられていっている。一昔前なら、知的な労働は人間がやるしかなかった。どんなに単純な足し算、引き算だろうと、人間の手で計算するほうが早かった。だから、ぼくたちのような人間にも仕事があった……」 と、料理が運ばれてきて、彼はちょっとだけ口を閉じる。目をむくような量の炭水化物の塊がテーブルを埋めていく。 「……だけど、いまは違う」つぶやきながら、彼はわりばしを割る。「当たり前のことが当たり前にできるだけの人間なら、機械を使ったほうが安上がりだ。ぼくらのような人間の居場所は、どんどん無くなっている。
なんかねー、ブログ消した。 理由はほんとにくだらないことで、ネット上の話ですらない。なんかもう、ほんとうにどうしようもないこと。 ネット疲れとかじゃぜんぜんないすよ。 これ以上どうしようもないことがあるんだろうかってくらいに。 つーか増田ってこれ妙に幅が広いな。改行自分で入れてやらなきゃだめか。 なんつーかまあ、過去の自分がすべて呪わしくなるようなことやっちまった。 ま、そんなおおごとだと思ってるのは俺だけで、実は世の中にあふれてる些細なことだとは思うんだけど。 ああ、身バレとかじゃないすよ。 で、過去の自分っていうと、まあ現に生活して生きてる自分は消せないじゃん。 それができる年齢ってとうに通過してるからさ。 でまあ、消せる自分からとりあえず消していこうかなーと思ったときに、 いっちょ軽くネット自殺でもやってみますか、と。そう思ったのね。 まあ、ここに至るまでの心理の流れは、ほとんど自暴
30で職なしの私は死ぬしかないんでしょうか - 1232445376 - したらば掲示板 世の中に心配や絶望の種は尽きないが、僕はもうすっかり心配するのも絶望するのもやめてしまったので、そのことについて書きたい。僕はといえば、だいたいずっと自分にもこの世にも失望していたし、希望をもった瞬間なんて物心ついてからひとときたりともなかったのだけれども、そんな僕でも心配をやめられたという話だ。 簡潔にいえば、死ぬことにしたのだ。 まあ、今からすぐ死ぬという話ではないのだが、かといって5年、10年というスパンでもないのだろう。ともかく、食えなくなったら死ぬということだ。そうだ、これまで僕はなんども刑務所に行くような末路について考え、述べてきたのだけれども、一方で自分で死ぬことについては「そんな度胸はない」と言ってきた。せいぜい不慮の事故で死にたいというくらいしか言い切ってこなかった。自分の希死願望と
本当は2001年3月に卒業するはずだった。 1999年の秋頃から少しずつ就職活動を始めて、 何社くらいエントリーしただろう。 ちょうどインターネットで説明会を予約したり、エントリーシートを提出するのが始まった頃で、説明会なんてすぐ枠が埋まっちゃうからとりあえず興味ないとこでも手当たりしだい受けた。 履歴書はやっぱり手書きだった。 何がしたいのかと聞かれても、それまでは何となく大学院に進むつもりで、 でもとりあえず就職活動もして、 4年生になったら大学院の授業も取れるから聴講してみて、 なんとかく大学院に進んでもできる範囲のことが見えてしまって、 じゃあ就職しかないかな、ってそんな感じ。 何がしたいって聞かれても、 そんな未来のことなんてよくわからないし、 そもそも会社に入ったら何をさせてもらえるのか、どんな仕事があるのか、 それすらもなんだかよく分からないままだった。 多分クリックして応募
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