昨晩は食事がステーキだったのでワインを少し飲んだ。このところ寝る前に乾きをいやすようにビール小瓶を一つ飲むが習慣的になりそうなので、やめてお茶でも飲んだ。寝付かれないだろうと思ったが、早々に寝てしまったようだ。 朝起きると、うひゃまた全身筋肉痛。身体は疲れていたのか。前回ほど痛くはないが、なんか歳かな俺とか思うが、朝立ちは良し。 若いフリもできる歳ではないがそう身体が老いてもいない。心の老かたはなんとも微妙だ。うまく言えないが、恋のような狂気ではなく、静かに人を愛したり、あるいは世の中できるだけ平和であってくれ(私は消極的な平和主義だよ)と思う思いのなかにこの世にあることの切なさというか老いがあるな。 さて目が覚めて、と、ケータイでfeecleにアクセスし、起床、とでも書こうかと思ったらメンテらしい。なんか少しさみしいような感じもした。みんな起きたかぁ月曜日。 ぼんやりとネットを見るが、さ
今晩のLife聞きたいけど,こんな時間起きてないよ.ネット中継もいいけどpodcastしてくんないかな.(追記: 楽曲部分を除いてpodcast配信されているとのこと.見落としてました)僕はずっと運動に憧れながら結局のところ何の運動にもコミットできなかった.今となって運動論というより,実存の問題ではないかと振り返る.僕の運動に対する懐疑は大きく二つあって,ひとつは自分が他人に対して何らか無理強いするほど何かを分かっているかという問題と,もうひとつは運動という方法論そのものの時代錯誤に対して運動家が鈍感であることだ. 僕は高校新聞にのめりこんで高校を辞めた口だが,学校新聞を私物化して論陣を張るようなことはやらなかった.僕の仕事は生徒の利益代表として事実を探り,それを伝え,どうしても書きたい所感は所感と分かるよう分けて書く中庸を志向した.それでも多くの教師にとって目障りだったのは,しばしば都合
久しぶりのブログへの執筆です。忙しくて、自分でネタを考えて書く暇がありませんでした。これまでけっこう書くことができたのは、書き込んでもらったコメントをネタにして書いたりしていたからですが、こちらが書かないとコメントももちろん書き込んでもらえず、コメントを書き込んでもらえないと書くネタがなく、という悪循環でご無沙汰したというわけです。 きょう沈黙を破って(?)書こうと思ったのは、ある偶然の一致のせいです。きょうの朝、電車の中の雑誌『AERA』のつり革広告で「『感情労働』時代の過酷――ひと相手の仕事に疲れ果てるとき」という記事の見出しが目に留まりました。ちょうど偶然にも、きょうの講義で「感情労働」の話をする予定だったので、参考になるかなと乗換駅の売店で早速買って電車の中でぱらぱら読んでみました。記事そのものは講義の参考にはあまりなりませんでしたが、まあ、その日の朝に読んだ雑誌を資料になるかなと
メシを作るのが楽しい。それくらいしか楽しみが無い。もともと食い意地は張っているほうだが、目下金銭的に「食べ歩き」のような優雅なマネができない状況にあり(目下が長えな)、食いたいものがあれば自作するしか無いんである。食いたいメシが、全てもれなく、即作れる料理の腕前と知識があったら楽しいだろうな。現状作っていてとりわけ楽しいのは、ポテトサラダ、小鯵の南蛮漬け、揚げ出し豆腐、餃子、煮豚など、微妙に一手間多いメニュー。その一手間が形になるとうれしい。もっともどれも和民やオリジン弁当等で食えるもんばっかだが。ムダっちゃムダだ。あとケーキね。ケーキ作りは楽しいお。だからこれは、手間が楽しいのかもしれない。なんなら魚は釣って(海のそばに引っ越さなければ無理だが)、野菜は畑を借りて作りたいくらいの勢いである。そこまで徹底すればさらにおもしろいだろう。だがなぜこんなに無駄なことがやりたいのだろう。まあメシ作
松岡利勝農水相自殺について。ブログとして世の中の話題を無名の庶民である自分の心に浮かぶところから記しておくという以上の話はない。まず、哀悼の意を表したい。 私が昨日ニュースを聞いたおりにはまだ生死が不明であったようだ。経緯は、午前10時ごろまで彼は宿舎の室内で秘書と話をしていたが、その後、出かける予定なのに現れず、午後零時18分ごろ秘書と警護の警察官が部屋を訪れ、意識不明の農相を発見したとのこと。死亡が確認されたのが午後2時頃らしい。すでに本人の意識はなく苦しいという感覚もないのかもしれないが、人はなかなか死ねないものだなという思いと、なぜ人は縊死を思うのだろうかと、しばし考え込んだ。類似の要人事件のようにまた陰謀論が起こるかとも思ったが、遺書がすでに8点発見されており、その筋はなさそうだ。 死亡が確認されていないまでも、一報を聞いたときの私の最初の印象は、まあ率直に言えば、日本の恥だ、と
若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか 作者: 本田由紀出版社/メーカー: 大月書店発売日: 2007/05メディア: 単行本購入: 6人 クリック: 207回この商品を含むブログ (41件) を見るこの本の最終章、『若年ホームレス 「意欲の貧困」が提起する問い』(湯浅誠/仁平典宏)と題された章が、ぼくにはたいへん刺激的だったので、内容を紹介してみます。 なお一部分、ぼくの解釈が混入しています。できるだけ原典に当たってください。 この章では、「意欲の貧困」という言葉が重要なキーワードになって論が展開されている。「格差」や「不平等」でなく、「貧困」こそ今の日本の問題である、という言い方は最近よく目にするようになったが、一般にはたいてい心理主義的ないし道徳的に語られる労働に関する「意欲の欠如」という事柄を、その「貧困」の一種として位置づける試みは、はじめて目にした。 一般に「ニー
男には、「なんとしても女の子と和合したい、できれば今すぐにでも、組んずほぐれつしたいのだ!」と、自分でも抑制が利かなくなるタイミングというものが存在する。どうにも辛抱たまらんという時期が、周期的にやってくるのである。そりゃ一年中そうじゃないの、って輩もいるだろう。でもまあ、たいていの男の場合、比較的落ち着いている期間というのもあって、そういった時であれば、自部屋でひとり、翠玉茶を飲みながらジョルジョ・アガンベンをゆっくり読む、なんてクールなこともできる。素敵。だって発情してないんだもの。しかし、いったん辛抱たまらなくなると、もうアガンベンのことなどすっかりどうでもよくなり、頭の中は、ほぼ勝敗が決定したモノポリーみたいに、淫猥な妄想で独占され、ああ和合してえ、ってそればっかり、ふとそんな自分に気がつき、はっ、俺ってやつはどこまでトンチンカンにできてるんだ? と情けなくなってくる。 かくいうわ
欧州で赤ちゃんを運ぶ鳥と親しまれるのは親鳥が協力して抱卵や育児を手掛ける習性からだ。 そうかもしれないけど、あれ、電柱のてっぺんとかにでかい巣を作る。ギリシアでよく見かけた。けっこう面白い。伝説があるのはこうした生活に馴染みやすいからではと思った。 子どもの数が減る一方で、「赤ちゃんポスト」の設置の是非が問われる。 その是非の問題じゃないよ。我々の社会がどう見捨てられた子どもと向き合うかが問われている。 というか、日本の人々が、自身を見捨てられた子どもになりうるという想像力・視点を持ち得ない状況がなんとも。 この問題よくわからないのだが、というかなにか錯誤があるような気がしている。 接種をしたことがあっても免疫が十分につかない人もいて、流行に拍車をかけているようだ。 それが根にある。 で、なぜそうかというと、日本社会がはしかの抗体ができないほど滅菌されているからではないのか。 なんとなく花
カウンセラーやりたいって軽い気持ちで言う人は今すぐ自殺したほうがよい - novtan別館 http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20070516/1179257919 留保の修辞クッションが多々あって直接言及しにくいと思ったけれども、「そういうアレなカウンセラーがいると確かに困るよなぁ」というニュアンスは伝わってきた。二人とも言及の力点は違っているけれど、以下の三点についてはおそらく二人とも共通して危惧しているんじゃないかと思った。 “権威化したカウンセリング”が無闇やたらと異常レッテルを貼ってまわるのはまずかろう “クライアントを搾取することが目的化した誘導”がカウンセリングの名のもとに行われるのもまずかろう “カウンセリング”という名のコミュニケーションはしばしば操作的・誘導的だから気をつけて取り扱おうね そこから先のお二方の議論についてはとりあえず置いとくとして、“
熊本赤ちゃんポストに3歳の子が入っていたというニュースについて。 このポストを黙認したはずの厚生労働省をはじめ、世間は、育児放棄という言われ方をするが、それでいいのだろうか。 あるいは、このポスト不要論が強まると思うが、それでいいのだろうか。 第1に不審なのは、このニュース、いったい誰が流しているのか、ということだ。これについて新聞やテレビは全く明らかにしていないが、知りうるのは、第1発見をする病院関係者か、通報を受ける警察か児童相談所である。児童相談所はこうした情報の漏洩に非常に神経質な役所であるし、マスコミとの交際もほとんどない。病院も深刻な内部対立でもなければ情報を漏らすことは自殺行為であり、考えにくい。県警察が保護責任者遺棄罪の立件を検討しているというからあやしい。 余談だが、この問題についてインタビューを受けた安倍晋三は適切だった。「私は正確な情報を入手できる立場にないので、何も
ここ最近、ずいぶん暑かったので、今年はすこしフライング気味に始めてしまった。駅から家までの道すがら、缶チューハイを買って、飲みながら歩くのである。これはとてもたのしい。夏になると、ほとんど毎日これをやっていたような気がする。ふだんはビールなのだが、暑い季節はチューハイがうまいのよ。いぜん住んでいた家は、駅から距離があって、帰り道にチューハイをひと缶買って、飲みながらふらふら帰るのが気持ちよかった。飲み歩きにちょうどいい距離だったのである。夜道をひとり、歩きながら飲むのがいいんだよね。これ、なんだろう。理由はわからないけど、家で飲むよりうまいんだよな。引っ越して、歩く距離はずいぶん短くなったものの、この習慣はあいかわらず続いている。ナイトクルージング。 そうして夜の道を歩いていると、なんだかいい気分になってきて、つい「ハンニバル音頭」をうたってしまう。またなぜか、自分でもどうしてそんなことを
その最中に、これが終ればまたこの人とは離れてしまうんだなあと思って体が冷えたように悲しく思ったことがあった。動くと体の境界線が解る。止まると体と体の境界線が消えて、馴染んで一つになって溶ける。手を握り合う。重ねるという表現がしっくりとくる。でも、明日の昼間になれば別々のところで別々に離れて私とこの人は過ごしているんだろう。この人は私じゃない。私はこの人じゃない。それが酷く、急に悲しくなってポロポロ泣いた。私の体の奥には、壁があって、そこは境界線の最たるものでそこはどうしようもなく存在する。私の内臓なんて、全部溶けてしまえばいい。ここから、全て無くなってしまえば。いいのに。その後、シャワーを浴びた。宅配のピザを食べながら、二人にしか解らない暗号のような冗談を言って笑い合った。話すうち、相手の口調や考え方が段々私に似てきていることに気付く。私も同じだろう。私は私を止めることは出来ないし、私はこ
そこまで努力しても/kmizusawaの日記 30年以上昔の一家庭の光景ではあるが、教育再生会議の人なら褒めてくれるんじゃないだろうか。 しかしそこまで親が頑張っても、その子は親をうっとおしいと思うだけだったし、成長してからは、結婚もせずふぇみにずむや左巻き思想にシンパシーを感じて政府の批判ばかりする、いい加減で無神経なダメ人間になったそうだ。 この話、わたしの母が読んだなら、と思った。多分後半のその「しかし」は頭には入らず、前半分でへこむんじゃないかと思う。 長時間テレビを見せないようにする、というより、自分がだらだらとテレビがついていることを嫌うために「イヤだ」と言ってテレビを消した。俗悪番組の類は「脳味噌が腐る」なんぞと言ってはいたが、見たがるものを斜めに見ていただけで、たいして禁止はしなかった。そのかわり本人が好むNHKの番組をなんとなく子どもが眺める環境ではあったので、教養番組で
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