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印刷 豊臣秀吉ゆかりの多田銀銅山の坑道調査に用いられる遠隔操作型の探査ロボット=兵庫県教委提供多田銀銅山の主な範囲 豊臣秀吉が開発を進め、天下統一を経済的に支えたとされる「多田銀銅山」。大阪府と兵庫県にまたがって残る坑道の大半は落盤の危険があり、内部の調査はほとんど手つかずのままだった。兵庫県教委は23日から、探査ロボットを坑道の中に入れ、秀吉の埋蔵金伝説が残る「宝の山」の調査に乗り出す。 県教委によると、多田銀銅山は大阪府の池田市、箕面市、能勢町、豊能町と、兵庫県の川西市、宝塚市、猪名川町の計7市町を中心とした鉱脈の総称。2千の坑道があるとされる。 秀吉が天正年間に直轄鉱山として開発。江戸時代は「銀山三千軒」と呼ばれ繁栄したが、次第に衰退し、日本鉱業多田鉱業所だった1973年に閉山した。 今回の調査は、新名神高速道路の橋脚建設に伴う調査で見つかった猪名川町の坑道が対象。坑道内の形
日本には岩塩はないといわれている。事実、日本で岩塩が産出したという史料は見当たらない。塩井については、前回このコーナーで南東北地域の史料を紹介したが、今回は岩塩掘削に一生をかけた旧藩士の物語を紹介しよう。 まずは「白い鉱山師(やまし)」から。阿波徳島藩士黒部銑次郎が主人公である。徳島といえば江戸時代から斉田塩で有名な塩の産地。斉田塩は大阪をはじめ東海から関東まで販路をひろげ、阿波の特産品のひとつで、藍(あい)とともに藩の重要財源であった。その塩浜を見て育った銑次郎が藩の英学校の授業中に地理書のなかで「Salt Mine」という単語を発見する。銑次郎の疑問はここから始まる。 (これらの諸外国では、食料に供する塩を『ソウルト・マイン』から採る…)休憩時間銑次郎は教授に聞く、「ソウルト・マインとは如何なるものでございますか。」教授は答える、「ソウルトは塩、マインは鉱山じゃ。よって、塩の鉱山とで
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