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人物と中国に関するgoldheadのブックマーク (9)

  • 最近のおかしな宋文洲。アカウント乗っ取られ疑惑に確信を持った。⇨「中国人なら広州省なんて書かない」「家族を人質に取られて中の人変わった?」

    台湾史.jp @Formosanhistory 台湾歴史とそこに隠されたもう一つの日史(外地史)を探求する歴史探偵。主要分野は日統治時代。基歴史垢だが台湾の森羅万象をつぶやくTaiwanologist。昔取った杵柄で中国を中心としたコラムも書く、自称Xコラムニスト。 note.com/formosanhistory 台湾史.jp @Formosanhistory 宋文洲、日disりがもはや漫才になっている中国人だが、以前はバランスの良い言論をしていただけに、「家族人質に取られてる説」や「中の人変わった説」がある。 私は前者説だったが(つまり、中の人は変わってない)、中国人なら「広州省」なんて書かないし、しかもアジア大会は広東省ではなく浙江省。「広州」ではなく「杭州」。杭州は「市」であって「省」ではない。 日人が北海道を「札幌県」と言い間違えるわけがないのと同じく、中国人がGu

    最近のおかしな宋文洲。アカウント乗っ取られ疑惑に確信を持った。⇨「中国人なら広州省なんて書かない」「家族を人質に取られて中の人変わった?」
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    goldhead 2023/09/25
    "日本人が北海道を「札幌県」と言い間違えるわけがないのと同じく、中国人がGuangzhouとHangzhouを間違えるイージーミスなどするわけもない"
  • なぜ周庭さんは「民主の女神」? 本人も「好きじゃない」日本メディアの呼び方に批判も

    香港の民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)さん(23)が国家安全維持法違反(国安法)の疑いで香港警察に逮捕された。 このことを受け、周さんを多くの日のメディアが「民主の女神」と報じていることに対し、ジェンダーなどの側面から批判する声がSNS上で広がっている。 人も過去のインタビューで香港デモにおける自らの立ち位置に触れながら、「日のメディアで女神と呼ばれるのは好きじゃない」とも語っていた。 それにも関わらず、どういう経緯で彼女は「民主の女神」と呼ばれるようになったのか。報道を改めて振り返った。 《「民主の女神」周庭氏逮捕か/【速報】香港「民主の女神」周庭さん逮捕 /「民主の女神」周庭氏を逮捕…》 8月10日夜、日国内のメディアは一斉にこうしたデジタル速報を打った。 同時に、この「民主の女神」という呼び方については批判や「違和感を覚える」といった声も多くあがっていた。 そもそも「女神

    なぜ周庭さんは「民主の女神」? 本人も「好きじゃない」日本メディアの呼び方に批判も
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    goldhead 2020/08/14
    ともあれ「今回の運動はリーダーのない運動、水のように変化する運動です」という本人の発言が重要では。
  • 聶耳 - Wikipedia

    聶 耳(じょう じ、ニエ アル、拼音: Niè Ěr、原名:聶 守信、字は子義、1912年2月14日 - 1935年7月17日)は、中華民国の作曲家。中華人民共和国の国歌であり、中華民国国民革命軍第5軍第200師団の軍歌でもある『義勇軍進行曲』の作曲者として知られている。 経歴[編集] 1912年、中華民国雲南省昆明市生まれ。幼少の頃から楽器に親しみ、師範学校時代には共産主義活動に目覚める。卒業後は、主に上海市を拠点に「採掘の歌」「波止場労働者の歌」など左翼系映画・演劇の楽曲を数多く作曲した。 学生運動に参加するようになると時の雲南軍閥政権の眼にとまり逮捕状が出される身となったため、1930年、上海に出奔。小商店の見習店員になるも倒産、失業して路頭に迷っていたが、一転して明月歌舞団のバイオリン奏者に採用された。[1] 聶耳(左)と田漢(右)、1933年上海で 1933年、中国共産党に入党す

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    goldhead 2019/01/09
    中国国歌の作曲者。24歳のとき鵠沼で溺死。
  • 林逋 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "林逋" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年7月) 林和靖図 北山寒厳筆 林 逋(りん ぽ、967年 - 1028年)は、中国北宋の詩人。字は君復。没後に仁宗により和靖先生の諡を贈られたため、林和靖とも呼ばれる。 略伝[編集] 杭州銭塘県の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に廬を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、子をもたず、庭に梅を植

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    goldhead 2015/01/12
    “疎影横斜水清浅。 暗香浮動月黄昏”
  • 呉健雄 - Wikipedia

    呉健雄(ご けんゆう, 中国語: 吴健雄, 繁:吳健雄, 拼音:Wú Jiànxíong)は中国アメリカ人物理学者。専門は放射線物理学で、弱い相互作用におけるパリティの非保存を初めて実験的に確認した業績で知られる。第二次世界大戦中はマンハッタン計画に参加してウラン燃料の濃縮手法の研究を行った。多くの科学者から「物理学界のファーストレディ」「(DNAの発見にも劣らない観測)中国のキュリー夫人」「ウー夫人」などのニックネームで呼ばれた。祖籍は江蘇省太倉市。 中国での経歴[編集] 呉健雄の父、呉仲裔は男女平等主義の支持者で、明徳女子職業補習学校を設立した人物であった。健雄は小学校教育をこの学校で受け、11歳で上海を離れて蘇州第二女子普通学校に進学した。母は樊復華。 1929年、呉は国立中央大学(1949年南京大学と改称)への入学を許可された。当時の国の規定では、普通学校の生徒が大学に入学するに

    呉健雄 - Wikipedia
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    goldhead 2014/08/18
    "中国人がこの名前を聞くとまず男性であると思う者が多いと言われる"
  • 屈原 - Wikipedia

    屈 原(くつ げん、紀元前343年1月21日頃 - 紀元前278年5月5日頃)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。 中国において詩が作者名を伴って記録、記憶されるようになったのは、屈原が出現してからのことである。当時、秦との積極的な抗戦姿勢から、愛国詩人として評価される[1]。 生涯[編集] 屈原は楚の武王の公子瑕(屈瑕)を祖とする公族の1人であり、父は屈伯庸[2]、弟は屈遙、子の名は不詳。屈氏は景氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった(これを三閭(中国語版)と呼ぶ)。家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていたために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。 当時の楚は、西

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    goldhead 2014/04/10
    "日本では、『漁父辞』の冒頭「屈原 既に放たれて」が「洟垂れて」に通じることから、古来洟垂小僧のことをさす隠語に「屈原」というものがあった"
  • 西施 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "西施" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 西施 西施(せいし、生没年不詳)は、中国の女性。美人として知られ、王昭君・貂蝉・楊貴妃を合わせて中国古代四大美女といわれる。 蘇州市にある西施橋 西施故郷観光区(諸曁市) 人物[編集] 名は施夷光。中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の諸曁(現在の浙江省紹興市諸曁市)生まれだと言われている。 現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施という由来から西施と呼ばれ

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    goldhead 2012/03/07
    予備校のチラシを見ていて、どうしても読みも性別も想像つかない人がいて、ダメもとでググったらそのまま歴史上の人物からとったということのようだった。
  • 張献忠 - Wikipedia

    張 献忠(ちょう けんちゅう、1606年9月18日 - 1647年1月2日)は、明末の農民反乱の指導者。字は秉吾、号は敬軒。 生涯[編集] 延綏鎮柳樹澗堡(現在の陝西省楡林市定辺県郝灘鎮劉渠村)の出身。もとは軍籍にあったが法を犯して除籍された。崇禎3年(1630年)に王嘉胤が反乱を起こすと、米脂県にいた張献忠はこれに呼応し八大王を自称した。間もなく高迎祥の下に投じて東方へ進出し、山西・河南を転戦した。 後に李自成との反目から高迎祥の敗死を招くも、黄河流域へ進んだ李自成と袂を分かち長江流域へ攻め込み湖南・江西から四川に侵入して独立勢力を形成した。崇禎10年(1637年)には明軍の総兵官の秦良玉の部隊の攻撃により張献忠の軍は大きな損害を受け人も負傷した。 一時は官軍に降り、崇禎11年(1638年)には襄陽府穀城県の副将となり王家河に駐屯したものの、崇禎12年(1639年)に再度明朝に対して反

    張献忠 - Wikipedia
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    goldhead 2012/02/08
    全盛期の張献忠伝説。いや、いろいろ話盛られてる面もあるんだろうが、かなりやらかしてんな。
  • センゲリンチン - Wikipedia

    センゲリンチン(モンゴル語:ᠰᠡᠩᠭᠡᠷᠢᠨᠴᠢᠨ、Сэнгэринчен、満洲語: ᠰᡝᠩᡤᡝᡵᡳᠨᠴᡳᠨ senggerincin、漢字表記:僧格林沁、嘉慶16年(1811年)[注釈 1] - 同治4年4月24日(1865年5月18日))は、清の軍人。モンゴル人。 1811年に内モンゴルホルチン左翼後旗(現・通遼市)にて生誕。チベット語でセンゲは「獅子」、リンチンは「宝」の意味。ボルジギン氏で、『蒙古世系』によるとチンギス・カンの次弟ジョチ・カサルの26代の子孫に当たるという。 生涯[編集] 僧忠親王行猎図巻 センゲリンチンは一族の中でも傍流の出身であったが、道光5年(1825年)にホルチン左翼後旗の旗長であったサドナンドルジ(索特納木多布済)が男子の無いまま没すると、一族の中で儀容と儀表の両方に優れていたセンゲリンチンが養子に迎えられ、ホルチン郡王位を継ぐ。養父は嘉慶帝の皇女である庄

    センゲリンチン - Wikipedia
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    goldhead 2010/05/24
    清の名将、モンゴル人。高校の世界史教科書にはいなかったと思う。
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