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人物と昭和に関するgoldheadのブックマーク (38)

  • 簑田浩二 - Wikipedia

    簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、広島県廿日市市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ。現在はプロゴルファー(ティーチングプロ)として活動している。 攻・走・守すべてに長けたオールラウンダーとして知られ、1983年にはトリプルスリーを達成している[1][2][3]。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 大竹高校では1969年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが呉港高に敗退、甲子園には届かなかった。卒業後の1971年に三菱重工三原へ入社し、都市対抗野球大会には補強選手としての出場を含め4度出場した[4]。1972年のドラフトでは当時、高校の先輩である広瀬叔功が主力選手として活躍していた南海ホークスから4位指名を受けるが、当時はプロ野球に興味がなく、自信もなかったことから入団を拒否。南海への入団拒否の背景には、戦力を失いたくない三菱重工三原側の慰留もあったとされる[5][6

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    goldhead 2019/05/16
    "オフに球団主催のゴルフコンペで選手たちを馬に見立てて、競走馬風のネーミングが付けられたが、簑田に付けられた馬名は「マンゲリホープ」""簑田は「いったい誰がこんな名前をつけたんだ!」と激怒"
  • ロベルト・バルボン - Wikipedia

    ロベルト・バルボン(Roberto Barbon , 1933年3月13日 - 2023年3月12日)は、キューバマタンサス州マタンサス[1]出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ、解説者。 愛称は「チコ(Chico)」(スペイン語で「坊や」の意[2])。「チコ・バルボン(Chico Barbon)」とも。 経歴[編集] 14人兄弟の末っ子として生まれ、10歳頃に野球を覚える。野球はキューバで最も人気のあるスポーツで、多くの子どもが野球に親しんでいたが、物資が乏しかったことから、生地でグラブを作り、煙草の紙箱をボールにしていたという[3]。キューバ高校に入って以降格的に野球を始め、1950年にメジャーリーガーを目指し渡米[1]。最初は、ワシントン・セネタースのマイナーに入る。のち、フロリダ・インターナショナル・リーグ(英語版)を経て、1954年はマイナーリーグのベーカーズフィールド・インデ

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    goldhead 2018/01/26
    "「日本は温かい国。キューバと気候はあまり変わらない」という代理人の言葉を鵜呑みにして、翌1955年に阪急ブレーブスに入団"
  • 露崎元弥 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "露崎元弥" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年12月) 露崎 元弥(つゆざき もとや、1928年6月16日 - 2009年7月30日)は、1940年代後半プロボクサーとして活躍した昭和中期から後期(1960年代〜1970年代)のプロ野球審判員。審判員袖番号(初採用年度である1977年のみ)は13(この番号は露崎の他につけた審判はいなく、実質上の永久欠番となっている)。 人物[編集] 中国吉林省出身の大連育ち、晩年は神奈川県在住、敬虔なクリスチャンでもあった。 子供の頃から喧嘩が滅法強く、大連二中時代は界隈から恐れられ

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    goldhead 2017/09/12
    "例えば、見逃し三振の時に「ストラッキー!」と叫び、左足を上げてジャンプした後にボクシングのワンツーを繰り出す。本人いわく、見逃し三振時のアクションは5段階あったという"
  • 空前絶後の「奇書」から知る、あの軍人の意外な評価と素顔(辻田 真佐憲) @gendai_biz

    日中戦争さなかの1939年に刊行された『軍人わしが国さ』をご存知だろうか。人物評論家の伊藤金次郎が、日陸海軍の軍人約2000名を論評した、空前絶後の著作である。 東条英機にせよ、山五十六にせよ、日中・太平洋戦争期の軍人の評価は今日おおよそ定まっている。だが、戦争当時のかれらの評判はかならずしも明らかではない。 そこで『軍人わしが国さ』をひもとくと、意外なことがわかる。いまでは悪名高い軍人が絶賛されていたり、その逆もあったり、あるいはまったく違いがなかったりする。 戦時下ゆえに書きにくい面もあっただろうが、それを割引いても、めっぽう面白い著作である。 東条英機は「電気仕掛けみたいな人物」 試みに、東条英機についてみてみよう。 いうまでもなく、東条は、太平洋戦争開戦時の首相・陸相である。戦後A級戦犯として処刑されたことなどもあって、現在では戦時下の諸悪の根源であるかのような見方さえある。

    空前絶後の「奇書」から知る、あの軍人の意外な評価と素顔(辻田 真佐憲) @gendai_biz
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    goldhead 2017/08/02
    "『軍人おらが国さ』では、インパール作戦の強行で悪名高い牟田口廉也がべた褒めされているなど、まだまだ興味深い記述が多い。"
  • 左卜全 - Wikipedia

    左 卜全(ひだり ぼくぜん[1][2]、(1894年〈明治27年〉2月20日[1] - 1971年〈昭和46年〉5月26日)は、日の俳優、オペラ歌手。名は三ヶ島 一郎(みかじま いちろう)。異母姉は三ヶ島葭子。 来歴[編集] 1894年(明治27年)2月20日(火曜日)、埼玉県[1]入間郡小手指村北野[注釈 1]に小学校校長の次男として生まれる。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官だったが、祖父が分家して一家をなした。 1901年(明治34年)に北野小学校に入学する。1902年(明治35年)、父の転勤のため東京市麻布区(現在の東京都港区)の南山小学校に転校。まもなく東京府南葛飾郡船堀村(現在の江戸川区船堀)に移った。1905年(明治38年)、船堀小学校を卒業。京橋のばら歯磨舗「東光園」へ小僧奉公に出るが、1907年(明治40年)に船堀に戻り高等小学校3年に編入した。

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    goldhead 2016/03/31
    "自宅に「若返り回転機」という、体を固定して上下回転するベッドのような機械を据え付けていて、出かける前に必ずこれを自分で操作して一運動していた。"
  • 根本康広 - Wikipedia

    康広(ねもと やすひろ、1956年1月31日 - )は日中央競馬会 (JRA) の元騎手で現在は調教師。美浦トレーニングセンター所属。 1977年に騎手デビュー。当初は障害競走で活躍し、1981年までにバローネターフ、ナカミショウグンといった騎乗馬で中山大障害3勝を挙げる。1985年秋の天皇賞においてギャロップダイナに騎乗し、「皇帝」と称されていた命馬シンボリルドルフを破り、GI競走初制覇。1986年にはメリーナイスで朝日杯3歳ステークスを、翌1987年には東京優駿(日ダービー)を制した。1997年に騎手を引退し、1998年より調教師として美浦トレーニングセンターに厩舎開業。 経歴[編集] 1956年、東京都北区堀船に生まれる[2]。実家は現在の都電荒川線梶原停留場の目の前に位置する古書店「梶原書店」(停留場は上中里に位置するが、書店は堀船に位置。2021年閉店)を営んでおり[

    根本康広 - Wikipedia
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    goldhead 2016/03/30
    最近藤田騎手絡みで名前を見かけることが多く楽しい。謎の勝ち運はありそうだから、だれか素質馬管理させてやってくれんかな。/"「根本を軽んずる者は根本に泣く」「根本を重んずる者は根本に泣く」"
  • 里見甫 - Wikipedia

    この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年11月) 里見 甫(さとみ はじめ、1896年(明治29年)1月22日 - 1965年(昭和40年)3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。 来歴・人物[編集] 旧加賀藩の上級家臣である平士で、安房里見氏の末裔の元海軍軍医で退役後に日各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山郡能代町(現・能代市)に生まれる。1913年、福岡県立中学修猷館を卒業し[1]、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。 1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、

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    goldhead 2016/02/05
    "関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。"
  • 山村新治郎 (11代目) - Wikipedia

    11代目山村 新治郎(やまむら しんじろう、昭和8年(1933年)4月28日 - 平成4年(1992年)4月12日[1])は日政治家。旧名は直義[2]。元衆議院議員(当選9回、自由民主党[2])。運輸政務次官、運輸大臣、農林水産大臣、衆議院予算委員長などを務めた。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。父親は元行政管理庁長官10代目山村新治郎。 生涯[編集] 生い立ち[編集] 千葉県佐原市(現在の香取市)出身[2]。江戸時代から米穀商を営む由緒ある名家に生まれ、九代目新治郎のころから深く政界にかかわり合いを持ち、父の10代目新治郎は、衆議院議員として予算委員長、議院運営委員長、自由民主党の国会対策委員長等の要職を歴任し、第3次池田内閣において行政管理庁長官を務め、政界に重きをなした[3]。 千葉県立佐原高等学校卒業。学習院大学政経学部政治学科中退[2]。学業半ばにして、生きた政治の世界を学ぶべく

    山村新治郎 (11代目) - Wikipedia
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    goldhead 2014/10/01
    "田宮たちが「ご迷惑をかけて本当にすみません」と声をかけたが、山村は「いやいや、これで次の選挙は大丈夫だよ」と返した""歌手春日八郎は『身代り新治郎』を発表"
  • 大田卓司 - Wikipedia

    大田 卓司(おおた たくじ、1951年3月1日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。 経歴[編集] 生家はみかん果樹園も経営していた兼業農家[1]。男ばかり4兄弟の三男として育つ[1]。津久見市立第一中学校入学後に野球部に入って格的に野球を始める[1]。最初は三塁手だったが、後に(人曰く「監督にやめさせられて」)外野手に配置転換される[1]。 津久見高校では通算打率.420・17塁打をマークし、遠投が100m、走力は100m12秒台と強打、強肩、俊足の三拍子揃った選手であった。同学年の大島康徳(中津工業)、詫摩和文(鹿児島照国高校)と共に「九州三羽がらす」とも称された[2]。 2年次の1967年、左翼手として春の選抜に出場。吉良修一の好投もあって決勝に進出し、延長12回の熱戦の末、弘田澄男のいた高知高校を2-1で降し初優勝を飾った[3

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    goldhead 2014/05/30
    "ある日、西武に移籍してきた野村克也が「なんで物言わんのや?」と尋ねたところ、「物言うたら疲れるんです」と答えたという"
  • 村田勝志 - Wikipedia

    村田 勝志(むらだ かつし、1939年4月1日 - 2013年4月9日[1][2])は、東京都中央区築地出身の暴力団組員。女子総合格闘家の篠原光は娘[3]。 プロレスラーの力道山を口論の末に刺傷し、力道山の死の原因となったことで知られている。 略歴[編集] 中学時代から番格を務め、握り拳にカミソリを挟んで相手を殴るスタイルから、「カミソリ村田」の異名で恐れられた。上京して住吉一家入り、大日興行準構成員となる。 1963年12月8日の午後10時30分に赤坂ニューラテンクォーター内で、当時国民的人気があったプロレスラーの力道山と足を踏んだ踏まないをめぐっての口論の末、喧嘩になった。過去に外国人レスラーに殴られたことがあり[注釈 1]レスラーの腕力を思い知っていた村田は、護身用に持っていた登山ナイフを力道山の腹に突き立てた。脂肪が付着するほどナイフは深く刺さっていたが、力道山は応急処置を受けて

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    goldhead 2014/05/29
    "中学時代から番格を務め、握り拳にカミソリを挟んで相手を殴るスタイルから、「カミソリ村田」の異名で恐れられた"
  • 山下和彦 - Wikipedia

    横浜ベイスターズ (1999 - 2000) 大阪近鉄バファローズ (2001 - 2004) 東北楽天ゴールデンイーグルス (2005 - 2006) 九州総合スポーツカレッジ 横浜ベイスターズ 横浜DeNAベイスターズ (2010 - 2017) 九州総合スポーツカレッジ 大分B-リングス (2023 - ) 山下 和彦(やました かずひこ、1962年11月29日 - )は、大分県宇佐市出身の元プロ野球選手(捕手)・野球指導者。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 柳ヶ浦高校では3年次の1980年に大分大会で決勝に進むが、大分商業に敗れて甲子園出場を逸する。高校卒業後は1981年に新日製鐵大分へ入社し、1984年の都市対抗に控え捕手として出場。日通運との1回戦では代打で適時打を放つなど活躍し、準々決勝に進出するが、この大会に優勝した日産自動車に惜敗[1]。チームメートに大分鉄道管理局

    山下和彦 - Wikipedia
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    goldhead 2014/05/14
    "しつこいリードから「マムシ」という愛称が定着""巡業中に川原で休憩していたところに現れた野生のマムシを石でやっつけてしまい、それをその場で火で焼いて食べたことから"
  • ジム・ジェンタイル - Wikipedia

    セイクリッドハート高等学校 ブルックリン・ドジャース ロサンゼルス・ドジャース (1957 - 1958) ボルチモア・オリオールズ (1960 - 1963) カンザスシティ・アスレチックス (1964 - 1965) ヒューストン・アストロズ (1965 - 1966) クリーブランド・インディアンス (1966) 近鉄バファローズ (1969) ジェームズ・エドワード・ジェンタイル(James Edward "Jim" Gentile、1934年6月3日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身の元プロ野球選手(内野手)。 近鉄バファローズでの登録名は、愛称の「ジム」とファミリーネームの「ジェンタイル」をつなげたジムタイル。 来歴・人物[編集] 1952年にブルックリン・ドジャースと契約。1956年11月には日米野球にドジャースの一員として来日し、当時2A所属なが

    ジム・ジェンタイル - Wikipedia
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    goldhead 2014/03/05
    "日本プロ野球史上唯一「本塁打よりも得点が少ない」という珍記録を残している"
  • 福島哲 - Wikipedia

    福島 哲(ふくしま てつ、明治34年(1901年)4月19日 - 没年不明)は、日教育者。元境高等学校長[1]。 福島は、二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、北一輝とともに刑死した西田税と米子中学校(現米子東高校)で同期だった。 経歴[編集] 大正13年(1924年)金沢医大薬学科卒[1]。鳥取県立米子中学校教諭、同米子工業学校長、境高等学校長歴任、昭和32年(1957年)勇退[1]。 人物像[編集] 大正14年(1925年)3月、秩父宮が来陰した際、西田税は汽車で同車して秩父宮と談笑した。西田と米子中学校(現在の米子東高校)で同期だった福島哲によれば「西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ。今とちがって、天子さまの第二皇子といえば、それこそ雲の上の人、町長も署長でも緊張してコチ

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    goldhead 2012/11/19
    "西田が秩父宮様と汽車で御同車して談笑していたことは出迎えの西尾町長がびっくりして帰って役場で話し、町中の大評判になったものだ……"
  • 【7月8日】1992年(平4) 脇役が主役になった日 新井宏昌「こういうの困るんだよ」(野球) ― スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球09年7月

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    goldhead 2012/10/29
    "「主役扱いされるの嫌なんだ。俺は王さんや長嶋さんとは違うんだ。どうしていいか分からなくなる。こういうの困るんだ」"
  • 島尾敏雄 - Wikipedia

    島尾 敏雄(しまお としお、1917年(大正6年)4月18日 - 1986年(昭和61年)11月12日)は、日小説家。日芸術院会員。 大学卒業後に海軍予備学生に志願し第十八震洋特攻隊隊長として、奄美群島加計呂麻島に赴任。1945年8月13日に特攻戦が発動され、出撃命令を受けたが発進の号令を受けぬまま即時待機のうちに終戦を迎えた経験を持つ。「ヤポネシア」という概念を考案したことでも知られる。 作品は超現実主義的な『夢の中での日常』などの、戦争中の体験を描いた作品群、『出発は遂に訪れず』などの作品群、さらに家庭生活を描いた『死の棘』などの作品群に大別される。また、小説作品との決定的な差異はないとされる日記や、紀行文など記録性の高いテキスト群や南島論なども多く書き続けた。 はのちに小説家となった島尾ミホ。長男は写真家の島尾伸三で、漫画家のしまおまほは孫にあたる。島尾の浮気に起因する心因性

    島尾敏雄 - Wikipedia
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    goldhead 2012/07/30
    横浜の戸部の生まれだったか。その後もずっと海に近い。
  • 金天海 - Wikipedia

    金 天海(김 천해、きん てんかい 1899年5月10日 - 没年不明[注 1])は、在日朝鮮人の左翼活動家。在日朝鮮人連盟最高顧問。日共産党中央委員。名は金 鶴儀(김 학의、きん かくぎ)。 「天海」は僧名。大韓帝国(後の大韓民国)慶尚南道蔚山郡出身。日大学中退。 来歴[編集] 1899年5月10日、大韓帝国慶尚南道蔚山郡で流通・貿易関係を営んでいた家に生まれた。現在は蔚山特別市内の方魚津(방어진)(行政区画としては方魚里)である[2]。一人っ子だった金天海は梁山の通度寺に預けられ、仏道の修行を行なった。 日統治下の1916年、京城の仏教学校・京城中央学林に入学。京城中央学林卒業後、慶尚南道蔚山郡に帰り、夜間学校の教師をした。 渡日[編集] 1922年冬、朴広海へのまたいとこからの紹介状と、密教系大学への朝鮮仏教会からの推薦状を持参して来日し、大阪市梅田の朴広海を訪ねた。朴広海

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    goldhead 2012/04/04
    "朝鮮戦争が勃発した6月25日、朴烈は、南朝鮮の郊外の料亭で開いた宴会の最中、北朝鮮軍の特殊部隊によって北朝鮮に拉致された"
  • 山本崇記「研究ノート:松田道雄小論―戦後革新政治におけるその位置―」

    はじめに 1 戦後民主主義 1-1 転向 1-2 平和問題談話会 2 松田育児学 2-1 「関西保育問題研究会」 2-2 「ベ平連」 2-3 集団保育の思想 2-4 女性解放 3 保守政治からの転換を求めて 3-1 「新しい日を考える会」 3-2 江田三郎の特殊位置 3-3 革命論の変遷 3-4 公明党への「期待」 4 「死」をめぐって 4-1 「安楽死法制化を阻止する会」 4-2 市民としての医者 4-3 老いと死と 5 松田道雄の思想と行動―その現代的意義 5-1 弱いもののための抵抗論 5-2 松田道雄論 5-3 現代におけるその意義 おわりに 脚注 参考文献一覧 はじめに 松田道雄。「小児科医」「評論家」「ロシア革命研究者」「市民運動家」…。その幅広い活動領域を考えると、単一の規定で松田道雄という人を説明し尽くすことは 出来ない。死後6年以上が経ち、松田道雄研究は、少しずつではあ

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    goldhead 2012/03/25
    『現代日本思想体系』の「アナーキズム」を借りて開いたら編集・解説が松田道雄だった。
  • 東久邇宮稔彦王 - Wikipedia

    東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年〈明治20年〉12月3日[注釈 1] - 1990年〈平成2年〉1月20日)、のち東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)は、日の旧皇族、政治家、陸軍軍人。東久邇宮初代当主。 陸士20期・陸大26期。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は従二位大勲位功一級。 第二次世界大戦後、終戦処理内閣として内閣総理大臣(在職1945年8月17日-1945年10月9日)に就任[2][3]。憲政史上唯一の皇族内閣を組閣。 内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印[4][5]、軍の解体[5]と復員[4]、行政機構の平時化[5]、占領軍受け入れ[5]などを実施した。しかし、自由化政策[注釈 2]を巡るGHQと内務省による対立やGHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した[注釈 3]。在任日数54日間は、長らく内閣制度史上最短記録であった

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    goldhead 2012/03/23
    "1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。"
  • 安岡正篤 - Wikipedia

    1971年 安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1983年〈昭和58年〉12月13日[1])は、日の易学者[注釈 1]、哲学者、思想家。金鶏学院の開学、国維会、師友会の創立など、日主義の立場から保守派の長老として戦前戦後に亘って活躍した。 経歴[編集] 生い立ち[編集] 養曽祖父の安岡良亮 現在の大阪大阪市中央区長堀(旧順慶町)において、素封家の父・堀田喜と母・悦子の四男として誕生。堀田家は尾張の出身で紀氏の流れである[2]。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主の堀田真快がいる。 1904年(明治37年)、大阪市芝尋常小学校入学[注釈 2]。四書のうち『大学』から素読を始める。1910年(明治43年)、孔舎衙小学校を卒業。 旧制四條畷中学校入学。1916年(大正5年)に卒業するまでの5年間(脚気にて休学期間あり)、歩きながら書を読んで電柱にぶつかった

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    goldhead 2012/03/07
    大正教養主義。団体生活と精神生活のダブスタ。(天皇の名を借りた)下からの革命を一切認めぬ「錦旗革命論」は右翼からも目の敵にされる。
  • 鹿子木員信 - Wikipedia

    鹿子木 員信(かのこぎ かずのぶ、1884年(明治17年)11月3日 - 1949年(昭和24年)12月23日)は、日の哲学者、海軍軍人。最終階級は海軍機関中尉。文学博士(東京帝国大学、学位論文「プラトン哲学の研究」)[1]。キリスト教徒[2]。 経歴[編集] 熊藩士族の家系として東京府に生まれる。旧制東京府立第一中学校から海軍予備校を経て、1904年に海軍機関学校を卒業し、「八雲」乗組みとして日海海戦を戦った[3]。海軍機関中尉で病を得て予備役を経て退役。後述のように敵兵を救助したことで上官の叱責を受けたことも海軍を退いた理由の一つである[4]。 日海海戦中、非戦闘員のロシア人従軍牧師が海上を漂っているのを見て軍艦を止め救助したことから人生問題に煩悶、海軍を退役して哲学研究に入り[5]、1906年(明治39年)9月 京都帝国大学文科大学哲学科選科入学にしたが、この時代に近衛文麿を

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    goldhead 2012/03/05
    右翼思想家、海軍軍人、哲学者、登山者。しかし、息子の健日子(ケーニヒ)という名前はすごいな。