著者はこの本で、人間の生命とはいったい何なのかについて、これまでにない方法で考察しようとしている。老いること、異性と交わって子どもを持つこと、自分の身体をサイボーグのようにしていくこと、それらが人間にとってどのような意味を有するのかについて、哲学者ならではの思考実験を行なっている。その難解な文体は読者を容易には近づけないが、それでもなお強烈なインパクトを残すことに成功している。レズビアンの思想
著者はこの本で、人間の生命とはいったい何なのかについて、これまでにない方法で考察しようとしている。老いること、異性と交わって子どもを持つこと、自分の身体をサイボーグのようにしていくこと、それらが人間にとってどのような意味を有するのかについて、哲学者ならではの思考実験を行なっている。その難解な文体は読者を容易には近づけないが、それでもなお強烈なインパクトを残すことに成功している。レズビアンの思想
■分子生物学の研究成果で裏付け フロイトは63歳になって『快感原則の彼岸』(1920年)という論文を発表し、その中で「死の欲動」という概念を提起した。それまでの精神分析では生の(性的)欲動が主であったから、画期的な変更である。彼がこれを書いたのは、第1次大戦後に出てきた多くの戦争神経症者の治療体験にもとづいてであった。つまり、そこに見いだされる死の欲動や攻撃欲動は、歴史的・社会的な問題と切りはなすことができない。 にもかかわらず、フロイトはそれをもっぱら生物学的な観点から見た。つまり、人間はすべての有機的生命体と同様に、無機物に帰ろうとする欲動をもつというのだ。それが問題であった。以来、フロイト派の多くは死の欲動という概念を拒否するか、それを受け入れる者も、ラカンがそうしたように、フロイトの生物学的説明を文字通りに受けとることを避け、それを自己流に解釈してきたのである。 本書で著者は、フロ
倫理的判断に対しては、観点や立場に相対的に主張可能である場合がいかにも有りそうに思われよう(たとえば、ある行動が快楽という観点からは善であるが、不健康という観点からは悪で有り得るなど)。それに対して真理を要求する判断においては、相対主義的主張は普通ずっと難しそうに思われる。以下、真理の相対主義といわれるものに対する私自身のスタンスを、概観しておきたい。 私は、真理を発見(アレーテイア)と見なし、科学的発見を概念の提案とみなす。即ち、科学的命題は、発見に寄与できる限り有用な概念装置であっても、それ自身は真であったり偽であったりするものではないと見る。たしか、トゥールミンもそれに近い考え方をしていたと思う。そこで彼は、「光は直進する」という幾何光学的法則を、普遍的真理というよりは、幾何光学的現象の発見の道具、ないしは説明の図式(作図方法の基礎)として見なすべきだと説明していたはずだ。 アリスト
→紀伊國屋書店で購入 「理想の授業」 何とまあ、いい感じに地味なタイトルだろう。こういう本はぜったいにおもしろいはず!と期待感とともに手に取ったが、予想以上に興奮した。「理想の授業」を受けたような気分である。若い頃にこんな授業を受けていたら人生変わっていたかもしれない。 著者は一九六〇年生まれだから、まさにニューアカ世代。元々の専門が文化人類学というのも時代を感じる。バブルだの軽薄だのと批判を浴びることも多い年代かもしれないが、こういう頭の使い方ができる人がいるのが強みだ。言語学的なソリッドな考え方をベースにしつつも、哲学、論理学、数学、社会学、人類学といった領域にも上手に浮気をして飛躍の助けにする、そのバランス感覚がたいへん魅力的なのである。文学的な鋭敏さも備えている。文章は不必要な深刻さや晦渋さとは無縁で、ごく透明。控えめに使われる比喩も効いている。 そもそも「理想の授業」とはいったい
相対主義に関するよくある質問 黒木 玄 目次 相対主義は絶対主義の否定ではない 相対主義はどういう立場か 「相対主義」が嫌われる理由 『「知」の欺瞞』の相対主義批判 相対主義は絶対主義の否定ではない 質問: 科学に関する相対主義は「科学は絶対的に正しい」という考え方の否定であると言っている人がいるのですが、それは本当ですか? 回答: いいえ、それは誤りです。おそらく、そう言っていた人は相対主義に関する議論を何も知らないのでしょう。相対主義は絶対主義の単なる否定という穏健な立場を意味しません。そもそも「科学は絶対的に正しい」なんて言っている馬鹿はどこにいるの? これに限らず、相対主義は単純に絶対主義の否定を意味しません。 「我々が信じている考え方はもしかしたら正しくないかもしれない、我々は悪しき決め付けをしているかもしれない、……」と考える慎重な態度は当然の前提であり、狂信者でもない限り、誰
詩作においては、ことばの自由よりも、思考、哲学、規定の自由を確保するほうが、ぼくにとっては先決で、その場合の与件は何かとおもいわずらうこともある。たとえば固有の領域をたえず対象化してゆくことは固着に行きついて、論法までもがそこで自己目的化されてしまうことが多い。それは自由ではない。となると対象化は、疎隔化した自らへの空間的な解決として、他力的にあらわれてくるほかないのではないか。このとき自分の埒と周囲の埒とに、逸脱のもたらす親和性が生じている。 樹をうたわない詩は、世界をみていない。樹の外観をうたう詩は、世界の視覚構造にはつうじている。樹の内側を想像する詩は、樹はおろか詩作者自身の構造にまで浸潤している。こうかんがえていつもおもいだすのが、偶然のヴィトゲンシュタインともいうべき、まど・みちおの「りんご」だったりする。 散文形で詩を書くとき、詩の外観は改行形と異なり、単純には保証されない。内
ようこそゲストさん ブログトップ 記事一覧 ログイン無料ブログ開設 The Red Diptych
権丈さんと一緒に(総論)政治学者を罵倒した話のより原理的な版ということか、 http://twitter.com/#!/hazuma/status/189325081900625920 ポピュリズムには反対だけど、大衆の善良な意志は信じる(キリッとかいう立場は論理的に存在しえないんですよ。ポピュリズムを肯定するか、エリート主義にいくか、どちらかしかありえないのです。だからぼくは、民主主義者としてポピュリズムを否定しない(否定できない)ってだけ 問題をポピュリズムに流されるか、エリート主義に行くかという二者択一でしか考えられないところが、(総論政治学者や総論政治評論家や総論政治部記者と同断の)総論しか頭の中にない哲学者という種族の宿痾なのだろう。 いうまでもなく、圧倒的に多くのことについては横町のご隠居程度の見識しかない大衆食堂の皆さんにも、程度の差はあれ、これはという専門分野はある。 ほか
死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象 | 松浦寿輝 Corpse and Castration: Or the Symbol of the "Feminine Other" | Matuura Hisaki ファロスとしての「知」 これは必ずしもわれわれがここで論じている一九世紀西欧という特定の歴史的文化圏に限ったことではなかろうが、「知」の主体としての「人間」と言うとき、その「人間」という言葉がインド=ヨーロッパ系の言語ではしばしば自動的に「男」を意味するという事実それ自体によっても示唆されるように、少なくとも共同体の成員間に共有される通俗的なイメージ現象の水準では、そうした認識論的主体のありかたが男性的な徴の下に表象されてきたことは否定しがたい。カテゴリー的認識を可能にする合理主義的理性は「男」によって担われ、「女」はむしろそうした理性の行使によって探究され解明される客体の側に位置
前回は社●で勢いで更新したが、今回もカフェのネットの時間制限との戦いで勢いで更新するかも知れぬ。まあ続きが読みたいという声がごくわずかあるので書くとしよう。 「ジャンルはなんであれ、内容が良ければ良いよね」というか端的に「良いものは良い」という意見は、良く聞く言葉であるし、非常に素直な態度かもしれない。まあ「J-POPなんてだせぇよ」とか「日本のロックなんて偽者だ」と最初から決め付けるよりはそれはそれで健全な態度だと、俺も思う。(例がどちらも音楽になってるが、まあなんについても言えることだと思う。) だがその態度の元にある発想は「我々はある対象を(外部の文脈などとは切り離して)ただそれだけで評価できる」という本質主義なのだ。その対象がたとえば食べ物の味とかなら、まあ俺も同意できるといってよい。(とはいっても食べ物の味に対する我々の評価が社会的に構築されていないということは極めて疑わしい)
久しぶりにネット内の話題について言及したいと思うが、それはなんというかずっと気になっていたのだが、ネット上での文化に関する言説についてである。まあいわゆる中二病とか高二病とかいうやつで、定義とかはよくわかんないんでそこらのはてなダイアリーのキーワードをたどってみればいいと思う。というかもうすでに言葉遊び的なネタになってる感があるから、統一した定義なんてものは希薄であるとは思うが。 しかしなにから話そうか・・・と、まずは俺自身と文化の関わりについてちょっと書いておこう。 まあ話はやっぱ中学からなんだが、中二くらいから洋楽ロックを聴きはじめていた。わかりやすく中二病ってことなのだが、本人的にはごく普通に(つまり他人と自分との差異を強調するためではなく)聴いていたのだ。たぶん深夜ラジオを聞くようになって(嗚呼なつかしやミリオンナイツ)、ビートルズとか興味もって、ゆっくりと洋楽を聴きはじめたのだ。
はじめに 来るべき新しい民主主義社会のあり方を構想した本書。そのアイデアには、人をわくわくさせてくれるような大きな魅力がある。 「熟議」には限界がある。これだけ情報化と人々の多様化が進んだ時代において、「話せば合意できる」はもはやほとんど現実性を持たないからだ。 だから私たちの来るべき政治は、代議士(選良)たちの熟議だけに政策決定を委ねるのではなく、ネット上に集積された人々の「集合的無意識」を可視化して、これを大きな参照枠とするべきである。 われわれの行動パターンや交流関係、欲求の数々などは、今日すべてネット上のデータベースに集積されている(されうる)。これをうまく可視化して、すべての人が一体何を望んでいるのか、無意識レベルまで明らかにすることができれば、それは政策審議における極めて重要な参照ファクターにならざるを得なくなるはずである。 熟議と集合的無意識のデータベースとの相補関係。ここに
【渋沢・クローデル賞ルイ・ヴィトンジャパン特別賞(第29回)】【サントリー学芸賞(第34回)】ロマン主義世代として悩み、憂鬱に襲われたトクヴィルの実像を描き出す試み。トク… トクヴィルの憂鬱 フランス・ロマン主義と〈世代〉の誕生 [著]高山裕二 革命とナポレオン専制を経た19世紀前半のフランス。身分制から解放された「新しい社会」には、自分が何者でもないという不安に苛(さいな)まれる「新しい世代」が誕生した。社会的拘束から自由になり、個人として偉大な事業を成し遂げたいという野心を持つ一方で、彼らは明確な存在根拠を失い、平準化する社会の中で孤独感と恐怖に苦しんだ。 トクヴィルは、新しい世代の苦悩を体現する人物だった。彼は「全般的な懐疑」の念を有し、不信を深めた。彼は人間の不完全性を自覚し、理性では掌握できない精神的な次元を人間が有していると考えた。トクヴィルは「絶対や完全」を根本から疑った。し
宮台真司と大塚英志の対談をまとめた「愚民社会」という書物が社会に出ている。愚民社会といういかにも民衆をバカにしたタイトルのように思えるが、実際のところ、内容もそのとおりである。 まず、宮台氏と大塚氏は、近代化をすべきだという点において、共通の目標をもっている。端的にいうと、日本社会は近代化に失敗しており、日本人は愚民のままであるという。愚民とは「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」という三つの特徴をもつという。さらに皮肉を込めて愚民ではなく、二人とも土人という用語を使用している。宮台氏は、この三つに対して、「引き受けて考える社会」「知識を尊重する社会」「善いことをすると儲かる社会」を提案し、近代化を完成させる社会的処方箋と考えている。特に、個人ではなく、地域自治体を主体とした自立的共同体にその可能性を期待している。 大塚英志に至っては、阪神大震災と東日
『すばる』2012年2月号に掲載された批評家の宇野常寛と哲学者の國分功一郎の対談「個人と世界をつなぐもの」における議論のなかでいちばん目を引くのは、やはり消費社会をめぐる両者の見解の対立である。 すばる 2012年 02月号 [雑誌] 出版社/メーカー: 集英社発売日: 2012/01/06メディア: 雑誌購入: 2人 クリック: 19回この商品を含むブログ (4件) を見る 「消費社会にいかに対抗するか」という問題は、國分の『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)の一つの大きな柱となっている。それに対する國分の処方箋が適切であるかどうかを判断するには、まずはその診断が正しいかどうかを確かめてみる必要があるだろう。 國分功一郎の消費社会論の問題点 最初に、國分が『暇倫』においてフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールに依拠しつつ提示した消費と浪費の区別を確認しておこう。 國分の言う浪費とは、物を
こう言い換えろ→論文に死んでも書いてはいけない言葉30 読書猿Classic: between / beyond readers を書いたとき、「あとは穴埋めしたら論文を出力してるものが作れないか」みたいな話があったので、作ってみた。 何であれ、文章を書く骨法は、書きたいことではなく、書くべきことを(そしてそれだけを)書くことである。 問題は何を書くべきかであるが、幸いにして、論文については後述するようにほとんど決まっている。 結論から言えば、以下の表を埋めていくだけで、論文の骨組みができあがる。 必要な項目は揃い、しかるべき順序で並ぶ。 論文穴埋めシート こんな簡単な穴埋め表がこれまであまり取り上げられなかったのは、わざわざ作るまでもないことも勿論あるが、その他にも次のような理由がある。 つまり、こうした穴埋め表が、 あなたは論文が書けないのではない。 研究ができないのだ。 という目の当
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