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思想と人物に関するgoldheadのブックマーク (12)

  • 渡辺京二と上野昂志、「思想史的知性」と主体の毅然 - king-biscuit WORKS

    ● 渡辺京二が、亡くなりました。敬称や敬語の類を使うのはこういう場合、自分としては理路の調律にさわるところがあるので、敢えてそれらは割愛します。 渡辺京二とは、「最後の人」でした。これは、自分が勤めていた大学で、彼が晩年、全国区の固有名詞として知られるようになるきっかけとなったあの『逝きし世の面影』を学生若い衆らと読んでゆく講義を足かけ10年ばかりずっとやってゆく中で、ゆっくりと確信するようになってきたことでもあります。 何の最後か。「思想史的知性」の最終走者のひとりだった、という意味での。このへん、手前味噌になりますが、自分が書いたものから引いておきます。 「この国の母語を環境とした、時期的には先の戦争が終わって後、高度経済成長の豊かさに後押しされて出現した、良くも悪くもそれまでとは様相の異なる新たな大衆社会状況と、そこに宿ったその他おおぜいのリテラシーに支えられた読書市場を介して可視化

    渡辺京二と上野昂志、「思想史的知性」と主体の毅然 - king-biscuit WORKS
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    goldhead 2023/01/11
    “その凄みを察知できなかったとすれば、それ自体もう、言葉本来の意味での知性、信頼される「村はずれの狂人」としての本願をどこかに捨ててきた単なる俗物でしかないことの、何よりも雄弁な証明になっていました”
  • ルドルフ・クリストフ・オイケン - Wikipedia

    受賞理由:真実のための格的検索、思考の一貫した力、視野の広さ、表現の暖かさと強さによって、数多くの作品の中で人生の理想主義的哲学を実証したこと ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken, 1846年1月5日 - 1926年9月15日)は、ドイツの哲学者。ノーベル文学賞受賞者。通常ミドルネームは外して、ルドルフ・オイケンと名前を表記する。 生涯[編集] ハノーファー王国(現ニーダーザクセン州)のアウリッヒに生まれる。郵便局長だった父親のアンモ・ベッカー・オイケンと唯一の兄は、早く亡くなった。そのため、彼は母親イーダ(旧姓ギッターマン)の愛情を一身に受けて育った。アウリッヒのギムナジウムに学んだ後、1863年からゲッティンゲン大学で、グスタフ・タイヒミューラーとルドルフ・ヘルマン・ロッツェの下で哲学、古典哲学、古代史を学び始める。大学では、殊更際立ったほ

    ルドルフ・クリストフ・オイケン - Wikipedia
  • 古谷栄一「錯覚自我説」 | MUGA表現研究会

    トップページ > 評論 > 古谷栄一「自我錯覚説」 古谷栄一「錯覚自我説」について 高橋ヒロヤス 大正時代に、古谷栄一という人が「錯覚自我説」という興味深い論文を書いている、という話を知人から聞いた。どんなものかと思って、少しネットで調べてみても、ほとんど何も分からない。ダダイストの辻潤(辻まことの父親)が、古谷栄一の錯覚自我説について書いた文章が青空文庫で読める位だ。 そこではこう述べられている。 「錯覚自我説とはなにか? 錯覚自我説とは人間の自我なる意識は万有者の持てる普遍意識で個体に現われた個体意識の錯覚だという説である。 一切の存在は万有生命の惰性の表現である。宇宙は微分流動している。古谷栄一君の中に辻潤が存在し、辻潤は今これを書いている瞬間、かれの耳にしている蛙の音楽と交流している。かつてオランダの放浪哲学者はわれ等が太陽の子孫であることを説いてきかせた。人間の故郷は太陽であると

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    goldhead 2017/02/22
    "古谷栄一の生涯について、その多くは謎に包まれているというほかない。辻潤に感銘を与えたという『オイケン哲学の批難』という著書については、そもそも批難の対象とされているオイケン哲学なるものが不明である"
  • 宮崎民蔵 - Wikipedia

    宮崎 民蔵(みやざき たみぞう、慶応元年5月20日(1865年7月21日(新暦)) - 昭和3年(1928年)8月15日)は、明治・大正期の社会運動家。号は巡耕。後に中華民国を建国することとなる孫文を支援した熊県荒尾市の宮崎家の家筋当主。 生涯[編集] 生立ち[編集] 肥後国玉名郡荒尾村(現熊県荒尾市)出身。兄の八郎、弟の弥蔵・寅蔵(滔天)とともに「民権兄弟」として知られる(特に民蔵・弥蔵・寅蔵を「宮崎三兄弟」と呼ぶこともある)。 宮崎政賢・左喜夫の六男に生まれるが、兄・八郎が西南戦争で戦死し、他の兄も既に没していたため、1880年(明治13年)に民蔵が16歳で宮崎家の当主となる[1]。 遊学期[編集] 宮崎民蔵が海外遊学中に配った名刺 八郎と同様に自由民権運動の影響を受けて上京し、中江兆民の仏学塾に入ったものの、病気のため帰郷する。 1881年(明治14年)の松方デフレによる不況

    宮崎民蔵 - Wikipedia
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    goldhead 2013/01/14
    おれも5年前くらいからそう思ってるんだけど、なんか駄目らしいんだよな>"1888年頃から土地も天が作ったものである以上、全ての人間が均分して受ける権利があると考えるようになる。"
  • 高畠素之 - Wikipedia

    この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "高畠素之" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年8月) 旧前橋藩士の子息。クリスチャンとなり同志社大学に入るも、途中キリスト教を捨て中退。高崎市で社会主義雑誌『東北評論』を発刊、1908年新聞紙条例により禁固2ヶ月の刑を受け入獄、獄中で英訳のカール・マルクス『資論』(1867年出版)に出合う。 1911年、売文社に入り社会主義活動に身を挺す。1915年、堺利彦・山川均らと『新社会』を発行することで、マルクス主義を紹介した。特に1917年からカール・カウツキーの『資論解説』(原題『カール・マルクスの経済学説』、1887

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  • ミールサイト・スルタンガリエフ - Wikipedia

    ミールサイト・スルタンガリエフ ミールサイト・スルタンガリエフ(タタール語: Мирсәет Хәйдәргали улы Солтангалиев、Mirsäyet Xäydärğäli ulı Soltanğäliev、露: Мирсаи́д Хайдаргали́евич Султа́н-Гали́ев、Mirsaid Sultan-Galiev、1892年7月13日 - 1940年1月28日[1])は、ロシア革命期のタタール人民族主義者、革命運動家。 人物・生涯[編集] 現在のバシコルトスタン共和国のウファ県ステルリタマク郡にて生まれた。 1907年からカザンのタタール師範学校(タタール語版、ロシア語版)[注 1]に在籍し卒業後、ウファ市立図書館で勤務する[2]。新聞社での記者活動を経て、1917年にロシア共産党に入党。入党後は、カフカース派で共感を覚えていたヨシフ・スターリンに大

    ミールサイト・スルタンガリエフ - Wikipedia
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    goldhead 2012/09/05
    イスラームと共産主義。
  • マックス・シュティルナー - Wikipedia

    マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年10月25日 - 1856年6月26日)は、ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派の代表的な哲学者の一人とされる。マックス・シュティルナーという名前は、ペンネーム(筆名)であり、名はヨハン・カスパー・シュミット (Johann Kaspar Schmidt) である。シュティルナーの名は、彼の身体的特徴である突起している額(Stirn)にちなんで高校時代につけられたニックネームに由来する。なお日語では「スチルネル」や「スティルネル」と表記されることもある。 概要[編集] ヨハン・ゴットリープ・フィヒテとルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハの哲学に影響され、極端なエゴイズムを軸とする哲学を展開。いかなる人間的共通性にも解消出来ない交換不可能な自己の自我以外の一切のものを空虚な概念として退け、その自己が、自らの有する力[要曖昧さ

    マックス・シュティルナー - Wikipedia
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    goldhead 2012/05/27
    " 「私の事柄を、無の上に、私はすえた。」"
  • 滝村隆一 - Wikipedia

    滝村 隆一[1](たきむら りゅういち、1944年〈昭和19年〉 - 2016年)は在野にして独学の政治学徒。 生涯[編集] 1944年岡山県倉敷市生まれ。埼玉県立浦和高等学校、1970年法政大学社会学部応用経済学科卒業。 1967年「二重権力論」(『試行』21号)を発表。吉隆明主宰の不定期雑誌『試行』を主要な論文発表の舞台とする。1969年『革命とコンミューン』(イザラ書房1976年新版)、1971年『マルクス主義国家論』(三一書房1974年増補版)、1973年『北一輝』日の国家社会主義(ISBN 4326150203 勁草書房)出版。 その後、実証史学の業績を踏まえた歴史理論的研究へと進み、「アジア的国家の論理構造」(『展望』1976年3月号)などの歴史理論的諸論文を発表。その成果の一部は、1978年『アジア的国家と革命』(三一書房)、1981年『国家の質と起源』(勁草書房)に収

  • http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0093.html

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    goldhead 2012/03/07
    ほとんどアナーキズムと区別がつかん。大杉栄虐殺をめぐって内田良平と絶交。"「社稷は国民衣食住の大源であり、もって国民道徳の大源である」"
  • 安岡正篤 - Wikipedia

    1971年 安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年〈明治31年〉2月13日 - 1983年〈昭和58年〉12月13日[1])は、日の易学者[注釈 1]、哲学者、思想家。金鶏学院の開学、国維会、師友会の創立など、日主義の立場から保守派の長老として戦前戦後に亘って活躍した。 経歴[編集] 生い立ち[編集] 養曽祖父の安岡良亮 現在の大阪大阪市中央区長堀(旧順慶町)において、素封家の父・堀田喜と母・悦子の四男として誕生。堀田家は尾張の出身で紀氏の流れである[2]。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主の堀田真快がいる。 1904年(明治37年)、大阪市芝尋常小学校入学[注釈 2]。四書のうち『大学』から素読を始める。1910年(明治43年)、孔舎衙小学校を卒業。 旧制四條畷中学校入学。1916年(大正5年)に卒業するまでの5年間(脚気にて休学期間あり)、歩きながら書を読んで電柱にぶつかった

    安岡正篤 - Wikipedia
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    goldhead 2012/03/07
    大正教養主義。団体生活と精神生活のダブスタ。(天皇の名を借りた)下からの革命を一切認めぬ「錦旗革命論」は右翼からも目の敵にされる。
  • 里見岸雄 - Wikipedia

    里見 岸雄(さとみ きしお、1897年3月17日 - 1974年4月18日)は、日の思想家、人文学者、国体学者、法学者。国柱会を創設した田中智学の三男として東京で生まれ、のちに里見家へ養子に入る。日国体学の創始者として知られ、戦前の言論に大きな影響を与えた。 1920年旧制早稲田大学哲学科卒業。1922年から1924年にかけて英独仏などに遊学し、帰朝後に里見日文化学研究所を創立。1936年、日国体学会を創立。後に立命館大学法学部教授に就任、法学博士号を同大より授与され、国体学科を創設。主任教授となる。 近年、戦前期の国家主義に関する研究が進む中、大谷栄一による近代日蓮主義運動史研究、大塚桂・昆野伸幸による政治思想史研究、林尚之による憲法学史研究などにおいて、その独自性が評価されつつある。現在も日国体学会の『国体文化』で里見に関する研究が行われている。 略歴[編集] この節は検証可

    里見岸雄 - Wikipedia
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    goldhead 2009/12/01
    予は断固叫ぶ。社会主義を日本国体化せよと。毒魚河豚ですらも、これが毒素を除去すれば、膳に賞味すべき佳肴となるではないか。一社会主義を消毒利用し得ざるが如き無力なるものにして何の万邦無比の国体であらう
  • 関曠野 - Wikipedia

    関 曠野(せき ひろの、1944年3月14日[1]– )は、日の思想史家、評論家。愛知県豊橋市在住。父は児童文学作家の関英雄。 来歴・人物[編集] 東京都出身。早稲田大学第一文学部仏文科卒業後、共同通信社入社。国際局海外部をへて1980年に同社を退職し、在野の思想史家(自称の肩書きは「文明史家」)、評論家として活動を開始する[2]。英語ドイツ語、フランス語に堪能で、海外の論文はほとんど原語で読んでいる。その冠絶した知性と変人ぶりから「左翼界の小室直樹」と称せらる。 1982年に処女評論『プラトンと資主義』(北斗出版)を上梓。以来、資主義批判、西欧近代文明批判を軸として、政治思想史、教育論、科学・技術論等、様々なテーマで論考を発表[2]。 思想・主義・主張[編集] 総論[編集] 通俗的なヒューマニズム、単線的な進歩史観や社会進化論的思考、西洋中心主義、等には批判的であるのみならず、ヘ

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