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植物と歴史に関するgoldheadのブックマーク (23)

  • 模倣こそ進化のカギ? 人類は有毒な植物をどうやって料理してきたのか - BBCニュース

    画像説明, ロバート・バークとウィリアム・ウィルズ、ジョン・キングの3人は1861年にクーパーズ・クリークを目指した

    模倣こそ進化のカギ? 人類は有毒な植物をどうやって料理してきたのか - BBCニュース
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    goldhead 2019/09/17
    トウモロコシもナイアシン欠乏によるペラグラなんてのがわかる4,000年前くらいにはアルカリ処理して主食にしていた連中もいたしな。
  • 番外 天正二年伊達輝宗の花見 タイサンボクの冒険 - 独眼竜政宗

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  • 『良い時代劇』かどうかを見極めるポイントは“白菜”だった…意外な野菜が日本の歴史において古株だったりする話

    “良い時代劇”がどうかを見極めるポイントは『白菜』。 これは白菜が日に伝わってきた歴史背景を考慮すると当然の事のようです。 菊池雅之🥞 @kimatype75 知り合いの時代考証専門の方曰く、「良い時代劇かどうかを見極めるポイントは白菜。これが出てきたらその時代劇はダメ。今スーパーで見るような白菜が出てきたのは明治末期」と聞いて、驚いた。と共に時代考証という仕事の難しさも知った。 2017-06-15 11:00:56 nidone @nidone_Orange @kimatype75 @heiwa9jyo 時代劇、時代考証を敢えて甘めにするのも悪くないとは思いますが、当時の生活習慣を地味な面など含めリアルに再現するような方向も面白いと思います。 クレヨンしんちゃんの映画で時代考証の、どこを削ってどこを取り入れるかなどの話を知りました。 勉強になりました。 2017-06-16 09:

    『良い時代劇』かどうかを見極めるポイントは“白菜”だった…意外な野菜が日本の歴史において古株だったりする話
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    goldhead 2017/06/16
    その本でとくに目から鱗だったのは目から鱗が聖書由来だったことだったっけ。
  • 韓国が桜の「起源」に固執する理由

    韓国の桜の季節は日の東北地方と同じ時期、東京よりは1、2週間ほど遅れてやってくる。桜の時期になると毎年繰り返して話題に上げるのが、日韓国間の「原産地」論争だ。そうはいっても日側での反応は薄い、というよりはさほど関心がないように見受けられる。これに対し、韓国側では、韓国=原産地説を否定でもしようものなら、まるで顔に泥を塗られでもしたかのように、ヒステリックで感情的な反応を示す。桜の「原産地」だということへの執着は日人の比ではない。この執着心はどこから生まれたのだろうか? 実は、桜の原産地が韓国だという主張は1950年代にも存在した。しかし、初期には一部による主張にとどまり、大部分の韓国人にとって桜は日の花であり、日を象徴する花だと考えられていた。それは、1945年に第二次世界大戦が終わり、日統治から解放された韓国のあちらこちらで、韓国人の手によって桜の木が伐採されたことが何よ

    韓国が桜の「起源」に固執する理由
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    goldhead 2017/04/13
    "現在、韓国で咲いている桜の多くは戦後、在日韓国人達によって贈られた、「日本産」の桜である"
  • 第二章 独自の園芸の展開 | 描かれた動物・植物

    Home > 第二章 独自の園芸の展開 日の園芸は江戸時代に独自の展開をとげ、当時の世界トップレベルにまで発展しました。それも、他の国々では見向きもされなかった野草が次々に園芸品化されるとともに、斑入(ふいり)の草木や変化朝顔が流行するなど、世界にも例のない方向に発展しました。一方で、異国の草木が次々に渡来し、江戸時代の園芸は隆盛をきわめます。 流行の変遷 新顔の花草花木 江戸時代前半の園芸はツバキ・サクラ・ウメ・ツツジ・カエデなどの樹木が中心で、草類はキクくらいでした。時代が下って18世紀中頃からは、草類が主役になり、オモト・アサガオ・マツバラン・ハナショウブ・フクジュソウなどが登場します。 ツバキ 『草木写生春秋之巻』 狩野重賢画 明暦3 (1657) ~元禄12 (1699) 写 4軸のうち春上 <寄別10-39> 二代将軍徳川秀忠がツバキを好んだのが、江戸時代に園芸が盛んになる

  • シーボルトの直筆の書簡見つかる NHKニュース

    江戸時代、日に西洋医学を伝えたドイツ人の医師のシーボルトは、医療のかたわらで日の植物の研究にも取り組んでいました。その研究のさなかに交わされた直筆の書簡が見つかり、研究者は日の植物学の原点を記した貴重な資料だと話しています。 今回見つかった書簡は、千葉市美浜区にある神田外語大学が保管していたシーボルトの資料の間に挟まれていて、別の文書の筆跡との比較などからシーボルトの直筆と確認されました。 書かれたのは文政11年、西暦1828年で、植物研究の協力者だった日人の教え子、賀来佐之にオランダ語で「日の植物の目録をどうか努めて完成させてほしい」と強く呼びかけています。 当時、シーボルトは滞在期間の終わりが迫っていて、書簡の文末では「私の仕事を終える前に出発しないように」と弟子に長崎にとどまるよう求め、帰国までに研究をやりとげようとした強い執念がうかがえます。 その後、シーボルトは1600

    シーボルトの直筆の書簡見つかる NHKニュース
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    goldhead 2016/02/17
    シーボルトの門人たちは、シーボルトの帰国後も論文を送り続け、いわゆる日本三部作の完成に寄与した。うまくやったもんだ。
  • バウンティ号の反乱 - Wikipedia

    英語版記事を日語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|Mutiny on the Bounty|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針につ

    バウンティ号の反乱 - Wikipedia
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    goldhead 2016/02/03
    パンノキの優遇が原因みたいな話もある。
  • アルマン・ダヴィド - Wikipedia

    アルマン・ダヴィド アルマン・ダヴィド(Armand David、1826年9月27日 – 1900年11月10日)は、フランスの宣教師、博物学者である。中国で博物学調査を行い、ジャイアントパンダの存在をヨーロッパに報じた人物である。 生涯[編集] フランス南西部ピレネー=アトランティック県のバイヨンヌ近くのバスク人の村に生まれた。1848年にカトリックのヴィンセンシオの宣教会に入会したときには自然科学に対する興味を持っていた。1862年に司祭になり、その後すぐに北京に派遣されると、自然史博物館のための動物、植物、鉱物や化石の標を集めた。フランス政府の依頼でパリに送られた標は注目を集めた。パリ植物園は、より多くの標収集のために中国各地の採集旅行を依頼した。それまでヨーロッパで知られていなかった動物や植物の標は、生物の系統的研究や種の地理的な分布の研究に重要な資料となった。 1888

    アルマン・ダヴィド - Wikipedia
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    goldhead 2016/02/01
    ハンカチノキのダヴィディアはこの人からかな?>"中国で博物学調査を行い、ジャイアントパンダの存在をヨーロッパに報じた人物"
  • ヴィーチ商会 - Wikipedia

    『ガーデナーズクロニクル』の1872年の図版に描かれた温室 ヴィーチ商会(ヴィーチしょうかい、Veitch and Sons)は、イギリスの19世紀の園芸業者である。スコットランド出身のジョン・ヴィーチ(英語版)が1808年ころに創立し、19世紀を通じて、多くのプラントハンターとよばれる人々を世界各地に派遣し、世界中の珍しい植物を集め、栽培した。 概要[編集] 創立者はスコットランド出身のジョン・ヴィーチ(1752-1839)で、庭師の仕事を始め、1770年代にエクセターに移ってKillerton邸の庭園の設計、維持の仕事を行った。1808年に、Dyke Acland准男爵の園芸部門の執事 "land stewart"になった。土地を借りて樹木の栽培と販売を始め、さらに借りた土地を広げ、1832年にエクセターのラドフォードに商売の拠点を移した。息子のジェームズ・ヴィーチ(1792–1863

    ヴィーチ商会 - Wikipedia
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    goldhead 2016/02/01
    "19世紀を通じて、多くのプラントハンターとよばれる人々を世界各地に派遣し、世界中の珍しい植物を集め、栽培"
  • 富貴蘭 - Wikipedia

    富貴蘭(ふうきらん)とは、フウランの古典園芸植物としての呼称である。 縞物・朝日殿 概説[編集] フウランは、日特産のラン科植物で、樹木の上に生育する着生植物である。花が美しく、香りがよいことから、古くから栽培されたものと考えられる。その中から、姿形の変わったものや珍しいものを選び出し、特に珍重するようになったのも、江戸時代の中頃までさかのぼることができる。文化文政のころ、一つのブームがあったようで、徳川十一代将軍家斉も愛好し、諸大名も盛んに収集を行なっていたと言う。このころは植木鉢の上に金網のカゴをかけ、手を触れぬように鑑賞し、あるいは息がかからぬよう、白紙を口にくわえたとも伝えられる。また、参勤交代のおりに花をつけた植木鉢を駕籠に持ち込み、その香りを楽しんだともいう。 その後、次第に層が広がり、江戸末期には一般庶民にも愛好家が増えたようで、安政二年に作られた番付表が残っている。明治維

    富貴蘭 - Wikipedia
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    goldhead 2014/08/01
    "植木鉢の上に金網のカゴをかけ、手を触れぬように鑑賞し、あるいは息がかからぬよう、白紙を口にくわえたとも伝えられる"
  • http://www.kamoltd.co.jp/cms/

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    goldhead 2014/04/09
    伊勢系について>"「よく垂れていますなあ」という言葉はこの花に対する最高の賛辞となっていたようです"
  • 日本に“激辛”料理が生まれなかった理由 唐辛子から見る日本ピリカラ論(前篇) | JBpress (ジェイビープレス)

    暑い盛り。辛いものをべて暑さを吹き飛ばしたいと願う人もいるだろう。それをかなえてくれる材が、唐辛子だ。 赤く熟した実は見るからに辛い。実際に口にしてみると、やっぱり辛い。そして、べているときは苦痛さえ覚える。ところが、しばらく経つとまたあの辛さが恋しくなる。唐辛子はかくも魅力的な材だ。 いまや世界中で育てられべられている唐辛子。真っ赤に染まったキムチ、チゲをべる韓国や、口がヒリヒリするほど辛みの利いた麻婆豆腐をべる中国南部と比べ、日で唐辛子はさほど好まれないと言われる。だが、日人には日人としての唐辛子との長いつきあいがあったのもまた事実だ。そこからは、辛さの日的な受け入れ方も見えてくる。 今回は唐辛子をテーマに、日における歴史と現代科学を追ってみることにしたい。前篇では、“辛さの日的な受け入れ方”を探るべく、日人と唐辛子とつきあいの歴史を追っていく。後篇では、唐

    日本に“激辛”料理が生まれなかった理由 唐辛子から見る日本ピリカラ論(前篇) | JBpress (ジェイビープレス)
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    goldhead 2013/07/26
    最近唐辛子で腹壊すようになった。加齢だろうか。
  • 田道間守 - Wikipedia

    田道間守(たじまもり/たぢまもり)は、記紀に伝わる古代日の人物。 『日書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と表記される。 天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖として、また柑橘の祖神[1]としても信仰される[2]。 記録[編集] 田道間守の生まれについて、『日書紀』垂仁天皇3年条では天日槍(新羅からの伝承上の渡来人)の玄孫で、清彦の子とする。一方『古事記』応神天皇段では、天之日矛(天日槍)の玄孫は同じながら多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子とし、清日子(清彦)は弟とする。 『日書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」[3]すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日[4]に天皇は崩御する。翌年(景行天皇元年)3月12日、田道間守は非時

    田道間守 - Wikipedia
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    goldhead 2012/04/20
    非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)は何だったか論争。
  • 山脇たか

    トップページへ > シーボルト記念碑とたき・いね・たかへ 私のこと 私の身の上ばなしをいたしましょう。 私は16歳の春、祖父シーボルトの門人三瀬周三と祝言をいたしました。 三瀬は伊予大洲の生れで、やはり祖父の門人二宮敬作さんの甥でございました。 敬作さんの奥様のお姉様くらさんの子でございます。三瀬は敬作さんから医術を学び、村田蔵六さん(のちの大村益次郎)からオランダ語を学びました。 敬作さんが、再びシーボルトが長崎にやってくると聞きまして長崎に胸おどらせて駆け付けますときに、 三瀬もともども付き随ってやってきたのでございます。 18、9歳の頃でございましょうか。生れつき温和で、口かずも少ない方で、それに学問好きで、頭も鋭い方でございました。その上に書も画も巧みでございました。 オランダ語の外に英語もできましたのでシーボルトはその才能に驚いておりました。祖父シーボルトが連れて

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    goldhead 2012/02/17
    シーボルトの孫娘。"さようでございます、私の覚えておりますものだけでも、杉、そう杉が一番多くございました。400本ほどもございましたでしょうか。枇杷、桃、柿、蜜柑、いちじく、梅、芭蕉……"
  • 信濃毎日新聞[信毎web] 松やに採取跡を平和学習に 上田市教委が「戦争遺跡」保存着手

    戦時中に航空燃料に使うため「松やに」を採取した跡が残る上田市下之郷の市有林のアカマツについて、市教育委員会が戦争遺跡として平和学習に活用しようと保存に乗り出した。松くい虫などの被害で枯れた木も多いため、伐採を始めたほか、近く虫よけの薬剤を投与する対策を施す。県教委文化財・生涯学習課は「県教委が把握している戦争遺跡は建造物だけ。県内の市町村教委が植物を平和学習に活用する事例は珍しい」とする。 市教委は来年度中に、近現代史の専門家らでつくる「戦争遺跡検証等会議(仮称)」を設置し、これらのアカマツや飛行機工場計画地(仁古田)、点在する防空壕(ごう)跡など市内の遺産、遺跡の歴史的価値をあらためて検証する計画もある。 上田市森林整備課によると、同市有林で採取跡のあったアカマツは55。里山保全などに取り組む地元住民でつくる「ヤマンバの会」の調査によると、太平洋戦争末期、不足していた燃料を確保する

  • カール・ツンベルク - Wikipedia

    『日植物誌』("Flora Japonica") カール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg [ˈkɑːɭ ˈpeːtər ˈtʉːnˈbærj], 1743年11月11日 - 1828年8月8日)は、スウェーデンの植物学者、博物学者、医学者。 カール・フォン・リンネの弟子として分類学において大きな功績を残した。 また出島商館付医師として鎖国期の江戸日に1年滞在し、日における植物学や蘭学、西洋における東洋学の発展に寄与した。出島の三学者の一人。 日語表記[編集] 日語での姓の表記が一定せず、ツンベルク[1]、ツンベルグ[2][3]、ツンベリ[3]、ツンベリー[4]、トインベルゲ[5]、ツーンベリ、ツュンベリー[2][6]、ツューンベリ[2]、チュンベリー、ツェンベリー、トゥーンベルイなどがある。スウェーデン語に近い発音表記は、トゥーンベリ[3][1]であ

    カール・ツンベルク - Wikipedia
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    goldhead 2011/04/13
    "ツンベルク、ツンベルグ、ツンベリ、ツンベリー、トインベルゲ、ツーンベリ、ツュンベリー、ツューンベリ、チュンベリー、ツェンベリー、トゥーンベルイ""スウェーデン語に近い発音表記は、トゥーンベリ"
  • http://www.daito.ac.jp/~hiyo/soturon/%96%9C%97t%81u%8Dg%97t%81E%89%A9%97t%81v%8Dl.htm

    二〇〇二年現在、私の感覚ではコウヨウは紅葉と書き、秋に木々が美しく色づくことを指す。モミジはやはり紅葉と書き、掌型をしたあの紅い植物を指す。幼少の頃、背中に平手打ちをくらいくらわせた思い出がよみがえる。 ではまず、我々が一般に言う「モミジ」について説明する。植物学の分類上「モミジ」という植物はない。正しくは「カエデ」である。卒論の題材に沿って植物辞典を開くまで、二十二年間掌型をしたあの植物を「モミジ」と呼ぶものだと思っていた。実際に「○○モミジ」と命名されているものもいくつかあるが、植物辞典を引くと「カエデ属カエデ科」に属しており、呼称で「○○モミジ」という言葉が使われているだけで、「モミジ」という植物ではないことが分かる。 二〇〇二年現在、世界中に二〇〇数十種・国内に二〇数種が野生(自生)しているといわれる「カエデ」ではあるが、国内では観賞用としての価値が非常に高く、江戸時代以降は頻繁に

  • フツーに生きてるGAYの日常 薔薇族は生きている051●薔薇族と百合族の「お見合い会」という試みから見える、当時の時代状況

    2024-03 « 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 » ゲイ雑誌が「ゲイとレズビアンのお見合い」をお膳立てする!? 今だったら「なんということをっ!」と大騒ぎになりかねない企画ではありますが、たった26年前の日では大真面目に企画され、試みられていたのです。歴史をふりかえるって面白いですねぇ~いろんなトリビアに出会えます。自力復刊薔薇族3号は1981年を特集しているわけですが、この年の誌面に載っていた様々なトピックのうち「今の目から見て最も面白い企画」は、ダントツに『薔薇族と百合族のお見合い会』でした。 ところで。「薔薇族と百合族」と当たり前のように書いてあること自体も、今の感覚としては驚きなわけですが(笑)、1981年当時は男性同性愛者の呼称は、今でいう「ゲイ」は一般的ではなく「ホモ」あるいは「薔薇族」という用語

    goldhead
    goldhead 2009/11/18
    1981年に企画された薔薇族と百合族の結婚を前提としたお見合い。/"伊藤文学さんがテキトーに思いつきで言い始め、『薔薇族』誌上で多用しているうちに、いつの間にか浸透してしまったようです(爆)"
  • http://www.shonan-it.org/kamakura/

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    goldhead 2009/03/12
    中文ばかりでなく英文バージョン作らなくていいのだろうか。
  • 化石からたどる植物の進化