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人>美術意匠に関するhozhoのブックマーク (277)

  • 【一聞百見】風の彫刻家・新宮晋 あふれる三田愛と未来志向

    風や水で動く彫刻作品で世界的にその名を知られる新宮晋さん(84)は「風の彫刻家」と呼ばれ、絵作家としても人気が高い。豊かな発想の源といつまでも若々しい理由を聞くために、雪が舞う兵庫県三田市のアトリエを訪ねた。 サンダリーノ誕生JR福知山線の新三田(しんさんだ)駅を降り、タクシーで山里を目指すこと約30分。新宮さんのアトリエは人里離れたところに、まるで隠れ家のように建っている。 山の麓。すぐそばには池がある。自然に抱かれたこの場所で、新宮さんは作品のアイデアを練り、絵のストーリーを考える。 もともと大阪府豊能町にあったアトリエが手狭になり、三田に移したのは平成2年のこと。 「三田なんかどう?」 そう元兵庫県知事の坂井時忠氏(1911~90年)に勧められ、引っ越してきたのだという。24年後には市内の兵庫県立有馬富士公園に、風で動く自身の大型彫刻12点を常設した「風のミュージアム」もできあが

    【一聞百見】風の彫刻家・新宮晋 あふれる三田愛と未来志向
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    hozho 2022/03/11
    “新宮晋さん(84)は「風の彫刻家」と呼ばれ、絵本作家としても人気が高い。豊かな発想の源といつまでも若々しい理由を聞くために、雪が舞う兵庫県三田市のアトリエを訪ねた。”
  • 神奈川県立図書館本館、4月から設計者の「前川國男館」に改称 ル・コルビュジエに師事、戦後モダニズム建築の旗手(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

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    hozho 2022/02/26
    “神奈川県立図書館(横浜市西区)の再整備計画を巡り、県教育委員会は25日、現在の本館を4月から「前川國男館」に改称すると明らかにした。”
  • 山下和正 - Wikipedia

    山下 和正(やました かずまさ、1937年2月10日 - )は、日の建築家。工業デザインも手がけている。また、古地図のコレクターであり、岐阜県図書館には山下和正コレクションがある。 略歴[編集] 1937年2月10日 - 愛知県名古屋市に生まれる 1955年 - 東海高等学校卒業 1958年 - 桑沢デザイン研究所II部リビングデザイン科卒業。 1959年 - 東京工業大学工学部建築学科卒業。日建設計工務東京事務所。(1964年まで) 1964年 - 日建設計を休職(1966年まで)。シュナイダ・エスレーベン建築事務所勤務。(ドイツ) 1965年 - ロンドン市建築局勤務。 1966年 - コーリン・スインジョン・ウィルソン建築事務所(イギリス)勤務後帰国。日建設計工務東京事務所勤務。(1969年まで) 1969年 - 東京造形大学デザイン学科室内建築専攻助教授(1978年まで) 196

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    hozho 2022/02/19
    “山下 和正(やました かずまさ、1937年2月10日 - )は、日本の建築家。工業デザインも手がけている。また、古地図のコレクターであり、岐阜県図書館には山下和正コレクションがある。”
  • 夜に見たら心臓が止まりそうな建物を京都で発見した「目がイッてる」「日野日出志の作風を感じる」などと評判に

    滝川ゆり @yuri19302 @daizphoto 昼間見たら「え!?顔じゃん!かわいい!」と思うけど、夜知らずに見たら私はビビるかもwww みられてるーーって((((;゚Д゚))))))) 2022-02-15 22:05:35

    夜に見たら心臓が止まりそうな建物を京都で発見した「目がイッてる」「日野日出志の作風を感じる」などと評判に
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    hozho 2022/02/19
    “山下和正設計、顔の家、1974年。”
  • 芙蓉庵 [有坂蓉子 Yoko Arisaka] の【富士塚日記】 1424 【 アーティストができること 】

    毎年参加している横浜市のアートプロジェクトですが、2021年は(ギャラリーでのアート作品の展示のほかに)、緑区の企画として富士塚関連の記事作品を展示させていただきました。(私にとってはすべてアートなのですが) まずは、アーティストとしての私がなぜ富士塚を紹介するのか、いや、富士塚はアートの側から紹介するほうがわかりやすい、ということがわかるプロフィール画像(下記に出てくる記事作品の部分)から。 十日市場という町で催された「十日市場まちかどアートフェスティバル」の一環として展示した7枚の作品です。 緑区の魅力のひとつに、「富士山が見えること」さらに「富士山の日(2月23日)にダイヤモンド富士が見えること」があります。かつて長津田でメタル富士を建て、例年富士塚ツアーを催してきた私には緑区とのご縁も深いです。富士山がよく見えることを土地の人たちはどのように関わってきたか、アートを通して表現し伝え

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    hozho 2022/01/23
    “2021年は(ギャラリーでのアート作品の展示のほかに)、緑区の企画として富士塚関連の記事作品を展示させていただきました。(私にとってはすべてアートなのですが)”
  • ヴィットーレ・カルパッチョ - Wikipedia

    『聖ウルスラの夢』(1495年) ヴィットーレ・カルパッチョ(Vittore Carpaccio, 1465年頃 - 1525年頃)は、イタリア、ヴェネツィア派の画家で、同じくヴェネツィア派のジェンティーレ・ベリーニに師事した。風景描写に優れる。カルパッチョはとりわけ、『聖ウルスラ物語』として知られる、9枚の絵画よりなる連作で著名である。 概説[編集] 生涯[編集] 連作『聖ウルスラ物語』 英国使節達の到着(細部) カルパッチョの生涯については不明な部分が多いが、彼の主要作品が1490年から1519年までの期間に制作されたことは確かである。また彼が、初期ヴェネツィア派を代表する画家の一人であることも間違いない。生年月日は推測でしか分からないが、おじであるフラ・イラリオ(Fra Ilario)の遺言書のなかで1472年に言及されているのが、彼についてもっとも初期に判明している事実である。この

    ヴィットーレ・カルパッチョ - Wikipedia
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    hozho 2022/01/15
    “ヴィットーレ・カルパッチョの名を由来とするカルパッチョという料理がある。生牛肉にソースをかけた料理で、名前の由来は赤身の生牛肉の色味が彼の独特の赤色を基調とした作風と似ているので名づけられた。”
  • フリー・デザイナーの先駆者G.ミケロッティ、日野やプリンスも | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

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    hozho 2022/01/06
    “クライアントに対するプレゼンテーションを成功させ、仕事を獲得することを意図していたに違いない。しかし、誇張は最小限に抑えつつ、その車の購入者が夢見る生活を、見事な背景描写とともに表現しているのだ。”
  • 中谷日出 - Wikipedia

    中谷 日出(なかや ひで、1955年[2]8月9日[1] - )は日のアートディレクター、元NHK解説委員(芸術文化、デジタル関連担当)[2]。 来歴[編集] 神奈川県出身。会社員の父と小学校教師の母(後に専業主婦となる)のもとに生まれ、神奈川県伊勢原市で育つ[1]。 東京芸術大学大学院美術研究科卒業後は広告プランニング・広告映像アートディレクターとしてフリーで活動する。その後、1991年に「第1期キャリア採用」でNHKに入局。1994年にはマサチューセッツ工科大学メディアラボに派遣される[2][3]。 1995年、NHKがコーポレートアイデンティティを行った際、文字を卵の形で囲んだ新ロゴマーク(三つのたまご)のデザインを行う(2020年3月まで使用)[1][2]。 1999年解説委員に就任。解説委員としての活動と並行してNHK衛星第2テレビジョン・NHKデジタル衛星ハイビジョン番組デジ

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    hozho 2021/12/31
    “中谷 日出(なかや ひで)は神奈川県出身のアートディレクター、元 日本放送協会 (NHK) 解説委員(芸術・文化・IT担当)。”
  • 小田急新型ロマンスカー「過剰な装飾は不要」

    抜けるような青空の下、深紅に輝くボディが姿を見せた。小田急電鉄が開発していた新型特急ロマンスカー「70000形」(愛称:GSE)がようやく完成し、12月5日、神奈川県相模原市の車両基地で公開された(関連記事「小田急ロマンスカー「GSE」はここが凄い)。 ロマンスカーは小田急が走らせる特急列車の愛称だ。全国で盛り上がりを見せる観光列車ブームのはるか前から、小田急は箱根や江の島といった観光地と都心を結ぶ観光特急としてロマンスカーを走らせてきた。 運転席を2階に配置して前方を展望席にするのがロマンスカーの伝統的なスタイル。長年ファンに親しまれ来年の引退が予定されているLSE、2005年に運行した現在のフラッグシップ車両であるVSEがその代表格だ。 来年3月中旬から営業運転が始まるGSEは、朝夕の通勤時間帯は通勤特急としての役割を担いつつ、展望席というロマンスカーの伝統を引き継いだ。小田急によれば

    小田急新型ロマンスカー「過剰な装飾は不要」
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    hozho 2021/12/26
    “「駅のデザインに興味はありませんか」と問いかけると、即座に「やりたいですねえ」と相好を崩した。小田急には近い将来、新宿駅周辺の再開発が控える。巨大プロジェクトの設計図はどのようなものに。”
  • 文字に宿るデザインの奥深さ。カリグラフィーに夢中です | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

    みなさん、最近ペンや筆を使って文字って書いてらっしゃいますか? パソコンやスマホが普及し、ちょっとしたメモであってもタイピングしてしまうことが多いこのごろ。このコラムでも度々ご覧いただいているように、私は比較的普段からスケッチやメモなどは、使い慣れたお気に入りのペンで書き留めているのですが、今回は文字にまつわる私の最近のアクティビティーについてご紹介したいと思います。 版画やワークショップなど、これだ!と興味を持ったものには、自分でもびっくりするほどの瞬発力で飛びつく私。表現の幅を広げたいという想(おも)いはもちろんですが、単純に手を動かすことが好きなんだと思います。そして、その体験から学び得たものが、自身のものづくりにつながり、モチベーションにもなっていることは言うまでもありません。そんな私の好奇心を今回新たに刺激したもの、それが「カリグラフィー」でした。 カリグラフィーとは、西洋や中東

    文字に宿るデザインの奥深さ。カリグラフィーに夢中です | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
    hozho
    hozho 2021/12/25
    “今このカリグラフィーは大人の習い事としても人気が集まっているそうですよ。”
  • J2山形、エンブレムとロゴマーク一新(河北新報) - Yahoo!ニュース

    hozho
    hozho 2021/12/11
    “山形市出身のデザイナー奥山清行氏が手掛けた。エンブレムは雪の結晶を模した六角形で、全体で雪国らしさを表現。”
  • 「小早川秋聲展」 | 青い日記帳 

    東京ステーションギャラリーで開催中の 「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」展に行って来ました。 https://www.ejrcf.or.jp/gallery/ かの夏目漱石が文部省より英国留学を命じられ1900年からロンドンへ滞在したことはよく知られていますが、小早川秋聲も、1920年からヨーロッパ各地を周遊しベルリン国立アルトムゼーム研究室にて2年間西洋美術を学んでいます。 ただし小早川の場合は国費ではなく自費での渡航。当時海外へ行くのにどれほどの資金が必要だったか正確には分かりませんが、ごく限られた人しか行けなかったのは明らかです。 小早川秋聲「未来」1926年、個人蔵 秋聲の旅は欧州だけに留まらず、中国、インド、エジプト、アメリカとまるで世界を股に活躍するサッカー選手のように様々な国を訪れています。 小早川秋聲[こばやかわしゅうせい/名・盈麿(みつまろ)/1885-1974]は、京

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    hozho 2021/11/24
    “秋聲の旅は欧州だけに留まらず、中国、インド、エジプト、アメリカとまるで世界を股に活躍するサッカー選手のように様々な国を訪れています。”
  • 白砂青松へいざなう鏡の廊下 鳥取県・東浜駅 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

    &MEMBERとは… &MEMBERにご登録(無料)いただくと、気に入った記事に共感を示したり、コメントを書いたり、ブックマークしたりできます。こうしたアクションをする度にポイント「&MILE」がたまり、限定イベントやプレゼントの当選確率が上がります。

    白砂青松へいざなう鏡の廊下 鳥取県・東浜駅 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
    hozho
    hozho 2021/11/23
    “「瑞風」を監修した浦一也氏がデザインした、東浜駅の新しい駅舎”
  • 白井晟一 - Wikipedia

    この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(芹沢銈介の3文字目、白井昱磨の3文字目)が含まれています(詳細)。 試作小住宅(現・顧空庵) 1953年。東京都世田谷区から秋田県湯沢市に移築 湯沢酒造会館(秋田県湯沢市) 旧雄勝町役場(秋田県湯沢市・現存せず) 白井 晟一(しらい せいいち[1]、1905年(明治38年)2月5日[2] - 1983年(昭和58年)11月22日[3])は、日の建築家。村野藤吾、吉田五十八、堀口捨巳、谷口吉郎らと並んで、昭和期の住宅において和風を手がけた代表的な建築家として知られる[4]。他に役場や静岡市立芹沢銈介美術館といった公共施設、銀行の建物も手掛けた[1]。 一方で、その独特な作風や言説から「哲学の建築家[1]」「哲人建築家」「異端の作家」などと称されることもある[4]。1950年代の「伝統論争」の論者としても知られる[4]。 生

    白井晟一 - Wikipedia
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    hozho 2021/11/22
    “白井 晟一(しらい せいいち、1905年(明治38年)2月5日 - 1983年(昭和58年)11月22日)は、日本の建築家。”
  • 孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート

    November 22, 2021 | Architecture, Design | casabrutus.com | photo_Shin-ichi Yokoyama   text_Naoko Aono   editor_Keiko Kusano 哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。 〈懐霄館(親和銀行電算事務センター)〉(1973-75年)。第1期、第2期に続いて白井晟一が手がけた長崎県の〈親和銀行店〉第3期計画として作られたもの。巨大なコンピュータを収めるための施設だが、水盤のある吹き抜けや噴水のある10階サロンなど、人間の思索の場をも内包するかのような建物となった。撮影:柿沼守利。

    孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート
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    hozho 2021/11/22
    “哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日本建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日本建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。”
  • 「篁 牛人〜昭和水墨画団の鬼才〜」 | 青い日記帳 

    大倉集古館で開催中の 特別展「篁 牛人〜昭和水墨画団の鬼才〜」に行って来ました。 https://www.shukokan.org/ 海外ならまだしも日の画家で『日美術全集』に掲載されていながら、ほとんど存在すら知られていない篁牛人。 その篁牛人(たかむらぎゅうじん、1901〜1984)を紹介する初めての展覧会が大倉集古館で開催され静かな話題になっています。 自分も少し前に拝見してきたのですが、2週間が経過した今でも消化不良気味で篁牛人の凄さを、言語化できずにいます。 篁牛人「西王母と小鳥」昭和44年 富山県水墨美術館 非常にパワフルな作品が多くとてもこれが水墨画であるとは目の前に立っても理解するのに時間を要します。 人は観たことのない作風に出会うと時として思考を停止してしまうものです。「篁牛人展」でもしばしばそれが起こりました。 牛人は水墨画家ですが、一般的な水墨画とはかなり印象が違

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    hozho 2021/11/21
    “日本の画家で『日本美術全集』に掲載されていながら、ほとんど存在すら知られていない篁牛人。 篁牛人(たかむらぎゅうじん、1901~1984)を紹介する初の展覧会が大倉集古館で開催され静かな話題になっています。”
  • 現代版「口紅から機関車まで」 ジウジアーロ・デザインの40年 | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

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    hozho 2021/11/14
    “ジウジアーロは70年代、旧来の自動車デザイナーの殻を破り、大量生産プロセスまで提案できる、今日でいうところのデザインファーム構築に成功する。”
  • 早世の天才デザイナー、ピオ・マンズーが遺(のこ)したもの | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

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    hozho 2021/11/13
    “マンズーは限られた人ではなく、広く人々に使い続けられる良質かつ永続的なデザインをひたすら目指した。デザイナーとして、より高い次元での使命を感じていたのだ。”
  • 鈴木華邨 - Wikipedia

    鈴木 華邨(すずき かそん、安政7年1月2日[1](1860年1月24日) / 2月7日[2][3](2月28日)/ 2月17日[4][5](3月9日) - 大正8年(1919年)1月3日[1][2][3][4][5])は、明治から大正にかけて活躍した日画家。名は茂雄、通称は惣太郎[1]。華邨は号で、しばしば華村とも表記される。別号として「魚友」、「忍青」を用いた[1][5]。はじめ容斎派の人物画を学んだが、のちに四条派から土佐派や浮世絵の要素を加えた独自の画法を立ち上げ、特に花鳥画に優れた。20世紀初頭ヨーロッパで北斎以来の日画家とされ、もっとも知られた日画家と称された。小林一三が評価していたため、大阪府池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。 略伝[編集] 安政7年、江戸下谷池之端茅町に加賀藩出入りの呉服商 「武蔵屋」を営む父・鈴木清次郎と母・もとの長男として生まれる[2]

    鈴木華邨 - Wikipedia
    hozho
    hozho 2021/10/10
    “鈴木 華邨(すずき かそん、安政7年2月17日(1860年3月9日) - 大正8年(1919年)1月3日)は、明治から大正にかけて活躍した日本画家。小林一三が評価していたため、池田市の逸翁美術館にまとまって収蔵されている。”
  • 『鈴木華邨』 | 青い日記帳 

    東京美術より刊行となった『鈴木華邨 花に鳴く鳥、風わたる余白』を読んでみました。 『鈴木華邨 花に鳴く鳥、風わたる余白』 逸翁美術館 (編集) 明治から大正にかけ活躍した日画家、鈴木華邨(すずきかそん、1860〜1919)の初めての作品集が東京美術より発売となりました。 日画に興味がある方なら、鈴木華邨の「邨」の字にピンときたことでしょう。 ここ何年かで立て続けに展覧会が開催された小原古邨(おはらこそん、1877〜1945)の「邨」と同じ字です。 『小原古邨 花咲き鳥歌う紙上の楽園』 →『小さな命のきらめく瞬間 小原古邨の小宇宙』及び『小原古邨 花咲き鳥歌う紙上の楽園』レビュー 何を隠そう、鈴木華邨は、小原古邨の師匠にあたります。鈴木華邨の弟子には「邨」が与えられています(岡田梅邨、石川竹邨など)。 もう1点、見覚えのあるフレーズが華邨に冠せられています。「幻の日画家」「忘れ去られた

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    hozho 2021/10/10
    “明治から大正にかけ活躍した日本画家、鈴木華邨(すずきかそん、1860~1919)の初めての作品集が東京美術より発売となりました。”