【公式】賞美堂本店 有田焼 其泉 @shobidohonten 今年最後の日曜日 有田では雪が舞っています❄️ 福珠窯さんに描いていただいている momoco bear 雪華(せっか) 江戸時代に流行した文様です。 繊細な雪の結晶とはらはらと雪が舞う様子を染付と銀彩で表現しています。 pic.twitter.com/UAYqYg2FZh 2021-12-26 11:24:40
夏そばのシーズン真っ盛りだ。王道の秋新に比べると味わいはやや淡白だが、一方で喉越しの清涼感は優れているように思う。こんなそばは、特に暑い日の夕方には凍結酒とざるでいただくのが何よりだ。 初夏の風に吹かれて白い花が揺れるソバ畑は美しい。私が初めてこの光景を目にしたのは小学生の頃。白いじゅうたんの背後には抜けるような青空と真っ黒な岩手山があった。その後大人になってソバの花を見た蔵王や御嶽山麓開田高原でも、同じような光景が広がっていた。こうして私の頭の中には、ソバ=火山という等式が出来上がってしまった。しかし、この関係は決して私の思い込みだけではないようだ(図)。 日本列島の活火山、ソバ産地、黒ボク土の分布(産業総合研究所の原図を加工)と典型的な黒ボク土の断面(農研機構日本土壌インベントリーの原図を加工)。 火山性の耕作不適土壌「黒ボク」に育つソバソバの産地が火山の山麓に多い理由の一つは、ソバの
全国各地にある「道の先に山」 道を走っていると、景色が開けて目の前に大きな山がドーンと現れることがあります。 堂々とした山容は見ていて気持ち良く、その眺めを“特等席”から堪能できるのもドライブの醍醐味の一つと言えるでしょう。 【画像】見晴らしが最高すぎる! 走りたくなる「山アテ道路」を見る(15枚) このように、正面の山へ続いている道を「山アテ道路」といいますが、果たしてそれは偶然できるものなのでしょうか。 中央道の下り(名古屋方面)を走っていると山梨県内の韮崎ICを過ぎた辺りで、大きな八ヶ岳が正面に現れます。 路肩には「八ヶ岳連峰/最高峰(赤岳)2899m」と書かれた標識が。道路を管理するNEXCO中日本によると、こういった山を案内する標識は「単調な走行を楽しくさせたり、道路利用者に適度な刺激を与えることで、利用者サービスや交通安全の向上を図ることや、道路利用者の位置確認のために設置」し
江戸時代の日本では、数学が子供から大人まで、殿様から町民まで楽しめる娯楽として親しまれていたという。……と聞くと「なんだなんだ、また江戸しぐさ系の作り話か」というのが平均的な令和人の感覚だろう。 現代社会の検索欄に「数学」と入力しても、予測変換に「娯楽」は出ない。一般的な人生で数学と分かちがたいのは「受験」であり、つまり立身出世の道具だ。必要であるが楽しくはないので効率的に消化したい一日分の野菜350グラム、のような扱いになっている。 そういう時代に生きていると「数学が娯楽である社会」なんてものは想像しづらいが、考えてみると「頭を使うエンタメ」は古今東西どの社会に存在する。囲碁将棋はずっと定番コンテンツだし、どのチャンネルでもクイズ番組をやっているし、大抵のバトル漫画は単なる殴り合いではなく頭脳戦要素がある。世間一般の大衆は、不要なことに頭を使うのが好きなのだ。歴史のある時代に数学がその一
浮世絵に関心がある方なら、浮世絵がヨーロッパへ輸出する陶磁器の包み紙として使われていたという話を、どこかで聞いた記憶があるのではないでしょうか。それがきっかけとなって、浮世絵の素晴らしさがヨーロッパに伝わるようになった、と。 もう少しちゃんとした説明ですと、フランスの版画家であるフェリックス・ブラックモンが、陶磁器の緩衝材として用いられていた『北斎漫画』をたまたま発見。浮世絵の魅力を仲間たちに伝えたことをきっかけとして、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術ブームが、ヨーロッパで始まったと伝えられています。 浮世絵は、もともと日本において、安い値段で販売される紙屑同然のものでしたが、その芸術的な価値がヨーロッパの人たちによって初めて見出されるようになったという文脈でも、この話はしばしば語られています。 皆さんはこの話を聞いた時、どのような様子をイメージしたでしょうか?現在、陶磁器を持ち運ぶ際、
徳川家とゆかりのある酒々井町上本佐倉の浄土宗の寺院「清光寺」(福田大和住職)で、江戸幕府との関係性などを示す書状の写しなど多数の古文書が見つかっていたことが2日、町などへの取材で分かった。昨秋の台風で甚大な ・・・ 【残り 932文字、写真 1 枚】
黒枠のラベルは、コンテンツホルダー自身が付与したものです。グレー枠のラベルは本文解析で自動付与されたものです。 人吉市の球磨川沿いにある人吉城歴史館は先月の豪雨で地上約1,5メートルまで浸水。展示されている県や人吉市の重要文化財、相良700年の貴重な資料などが被害を受けました。さらに、何のために造られたか分かっていない『謎の地下室』も水没しました。この地下室は、江戸時代に相良藩の家老によって造られ、深さは3メートル以上。災害発生当時は、地下室全体が冠水していたとみられています。ところが、日がたつにつれ、自然にどこからか水が抜けて元の姿に戻り、謎がさらに深まりました。人吉市教育委員会歴史文化課の迫田洋子課長補佐は「復元された石組みの壁面から水が抜けることは考えにくく、外の水脈とつながっている井戸のようなこの場所から水が抜けたとしか考えられない」と言います。つまり「豪雨で冠水した地下室の水圧が
習志野青龍窟 忍道家 @3618Tekubi 「万民千里善歩傳」1860年代 記載 ・下り坂運歩 の検証 滑稽に見えるが、上腕が衝撃をのんで、膝が大変に楽。 検討の余地がある技術。 pic.twitter.com/5XNmwUBVWW 2020-08-09 06:49:02 習志野青龍窟 忍道家 @3618Tekubi 五十嵐剛 【忍道】五段陰忍師範 国際忍者学会会員 松聲館技法研究員 里山武芸舎 関口流抜刀術山田道場 甲賀流忍者検定中級 中野・板橋区の道場にて忍道・武術教室を主催。YouTube「忍道家習志野修行チャンネル」 月刊秘伝にて『忍武秘伝』連載中 narashinoninja@gmail.com youtube.com/channel/UC3N6b…
日本の各地には、伝統的なスタイルの家屋が建ち並ぶ町並みが存在する。高度経済成長期から現代にかけての都市開発や建て替えによってその数はだいぶ減ったものの、それでも今もなお昔ながらの風情を残す地域は少なくない。 私は全国の古いモノ巡りをライフワークとしており、これまでそれなりの数の町並みを見てきた。今回はそんな私の偏見と独断による、すごいと思った町並みを紹介したい。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:市街地に囲まれた田んぼはどこから水を引いているのか > 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter 奇跡の寺内町「奈良
300年余り前に富士山で起きた宝永噴火について新たな発見です。噴火による火山灰で集落全体が埋まったとされている静岡県小山町の須走地区で、当時の家屋の一部が初めて見つかりました。黒く焼け焦げていたことなどから高温の軽石によって燃えた可能性が高く、専門家は「富士山の噴火対策を考えるうえで重要な発見だ」としています。 富士山のふもと、静岡県小山町の須走地区には江戸時代に須走村の集落がありましたが、1707年に発生した宝永噴火で火山灰が3mほど降り積もって埋没したとされています。 さらに現在はその上に街が作られているため、須走村の集落が埋まった記録は古文書などに残されるだけで、実際に家屋が見つかったことはありませんでした。 火口近くにあった須走村の集落がどのような被害を受けたのか明らかにしようと、去年6月、小山町と、考古学や火山の専門家で作る研究チームが初めての発掘調査を行いました。 調査は初めは
大阪の「飛田新地」という、まあ知る人ぞ知るデンジャラスな地区の中に、元・遊郭(昔のエッチ施設ですな)の建物を利用した料亭があるんだそうで。 前から気になってはいたんですが、実際行ってみたら、想像とはまた違った方向で異世界でした。 1975年群馬生まれ。ライター&イラストレーター。 犯罪者からアイドルちゃんまで興味の幅は広範囲。仕事のジャンルも幅が広過ぎて、他人に何の仕事をしている人なのか説明するのが非常に苦痛です。変なスポット、変なおっちゃんなど、どーしてこんなことに……というようなものに関する記事をよく書きます。(動画インタビュー) 前の記事:90年代のワープロ専用機、文字打ちだけなら今でも十分使えるんじゃないの? > 個人サイト Web人生 最高級(元)遊郭を堪能! こちらの店名「鯛よし百番」の「百番」とは、最高級の遊郭である印らしいです。 遊郭だった当時は、こんな値段じゃ絶対に足を踏
元禄2(1689)年に創業し、戦後の食糧難による原材料不足で昭和24年頃に廃業した奈良県田原本町の老舗しょうゆ蔵元「マルト醤油(しょうゆ)」が、70年の空白を経て復活を目指している。廃業を余儀なくされた当主の孫が、当時のまま残っていた蔵の中で奇跡的に生き続けていた酵母菌を発見。この酵母菌を使って2月にも本格的にしょうゆの醸造を始め、その2年後の商品化を目指す。(川西健士郎) 【写真でみる】酵母菌が生き続けていた醸造蔵 老舗のしょうゆの復活を担うのは、18代当主にあたる木村浩幸さん(43)。平成13年に17代目の祖父、藤平(とうべい)さんが87歳で亡くなった際、「蔵を廃業時のまま残していた祖父は、蔵を閉じたことに負い目があったのではないか」と思い至り、しょうゆ造りの再開を考えるようになった。 直接的な転機は10年後。蔵から千点以上の古文書が見つかり、醸造の製法を示しているとみられる記述もあっ
いよいよ年の瀬。皆様にとって今年はどんな1年でしたでしょうか? 来年はオリパラもあり、大変にぎやかな年になりそうです。講談社現代新書も、変わらず「おもしろくて、ためになる」新書作りに邁進して参ります。 2019年最後の記事は『江戸の災害』を上梓されたフレデリック・クレインス氏による「江戸と消火ポンプ」についての解説です。消火ポンプは17世紀にオランダで開発され、江戸幕府に持ち込まれました。しかし、幕府はこれを拒みます。その理由とは? さあ、年末年始は火の用心! 私が日本で経験した火事 2017年冬のある日曜日の早朝、私は自転車で出かけた。自宅は京都の路地街にある。大きな通りに出るまではいくつかの狭い小道を通り抜けなければならない。進むにつれて、次第に濃い煙りに囲まれるようになり、目の前がまったく見えなくなった。 「これは霧ではない。火事かもしれない」。そう考えて、来た道を折り返した。しばら
江戸時代の津軽地方では、アヘン(阿芙蓉)の原材料であるケシが政策的に栽培されていた。弘前藩「御国日記」には栽培地や栽培に関わる医師名が記されており、「御用格」にはアヘンを用いた漢方薬「一粒金丹(いちりゅうきんたん)」の記事が多数見られる。 服用すると気分が良くなる、疲れが取れる、熱が下がる、下痢が止まるなど評判は上々だったが、当初は津軽家の関係者に下賜される秘薬だった。家中の者はかなりの確度で入手できたので、家族や親戚のための願い出も多く、公用旅行の場合は優先的に認められた。 藩外の者でも、藩米の輸送や販売を任せたり、借金を申し入れたりしていた商人などには下賜された。後には民間への販売も行われ、例えば文政年間(1818~29年)には、江戸の長崎屋(常盤橋門前)や万屋(小石川春日)が藩公認の「売弘所」となっていたことが確認できる。
ただちに類書がいくつか思い浮かぶ読者もいるだろう。『欧米人の見た開国期日本――異文化としての庶民生活』 (角川ソフィア文庫)。幕末から明治初期にかけての日本が、欧米人の目にどう映ったかを報じたものだ。 著者の石川榮吉さん(1925~2005)は人類学者。専攻は社会人類学。京都大卒。東京都立大で長く教え、『南太平洋物語―キャプテン・クックは何を見たか―』で毎日出版文化賞受賞。日本民族学会会長(現・日本文化人類学会)も務めた。本書はかつて風響社から刊行された単行本の文庫化だ。 テーマごとに再構成 類書と異なる大きな特徴は、本書が上手な「まとめ本」だということ。外国人が開国期間の日本に関して記した体験記録は多数ある。本書はそれらを軸に、「庶民生活」という視点から、テーマごとに再構成したところが新しい。 加えて著者自身が「文化人類学者」というのもユニークだ。オセアニアなど南太平洋を中心にフィールド
1984年生まれ岡山のど田舎在住。技術的な事を探求するのが趣味。お皿を作って売っていたりもする。思い付いた事はやってみないと気がすまない性格。(動画インタビュー) 前の記事:国内唯一!ウラン坑道は廃退的な異世界だった > 個人サイト オカモトラボ 江戸時代の初めまで瀬戸内海に浮かんでいた「児島」 日本列島の形は絶えず変化を遂げている。 その最たるものの一つは岡山県の南側であろう。あまり知られていないが海岸線が現在とは大きく異なる。 独立した島が多数存在し児島という巨大な島も横たわっていた。 400年前の岡山県の南側の地図(点線が現在の海岸線)。 そして児島と本州との間には「吉備の穴海」という海原も広がり、現代人がイメージするのとは全く違う日本列島の輪郭がそこにあった。 しかもナウマン象が闊歩していたような大昔の話ではなく、ほんの400年ほど前の話である。 干拓よって江戸初期に児島と本州は陸
江戸時代の宿場町の雰囲気が残る長野県南木曽町の妻籠(つまご)宿と、岐阜県中津川市の馬籠(まごめ)宿。両宿を結ぶ旧中山道の馬籠峠を歩く外国人ハイカーが、近年増加している。英国のテレビ放送などで知名度が上昇。2018年度は65の国・地域の人が訪れ、初めて3万人を突破した。日本人より多い6割超を占めており、まだまだ増えそうな勢いだ。 二つの宿場の距離は約9キロあり、徒歩で約3時間の道のり。外国人ハイカーは、交通の便の良いJR中津川駅から馬籠宿に入り、妻籠宿まで歩く人が多いという。江戸時代の旅が体験できるとして広まり、急な坂道はあるものの、荷物を有料で運んでもらえるため、身軽に歩けることも人気につながっている。 妻籠宿の住民らでつくる公益財団法人「妻籠を愛する会」は、両宿のほぼ中間地点にある「一石栃(いちこくとち)立場(たてば)茶屋」を整備。無料でお茶を振る舞いながら、通過する人数と国籍を調べてい
江戸時代の書物の紙に含まれていた毛髪を分析したところ、当時の庶民の食生活が見えてきた――。そんな研究結果を14日、龍谷大などの研究チームが発表した。時代が進むにつれて、海産魚をよく食べるようになったことなどが、元素の分析から推定されるという。 龍谷大の丸山敦准教授(生態学)によると、江戸時代の都市では出版ブームが起こり、たくさんの書籍が発刊された。大量の紙が必要なことから、古紙の回収や再生紙づくりも盛んになり、この過程で毛髪が紙に埋め込まれた。これらの毛髪は、たまたま混入した可能性のほか、耐久性を上げるための材料として、意図的に混ぜられたとする説もあるという。 チームは、江戸時代に作られた書物から、130サンプルの毛髪を採取。炭素や窒素の同位体の割合を分析し、食生活を調べた。 その結果、1700年以降の200年間に、海産魚を食べる割合が徐々に増加していったことが裏付けられた。漁業技術が発達
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