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戦争に関するkarotousen58のブックマーク (9)

  • 海外「日本は戦時中ですら…」 戦時中の着物の高いデザイン性に外国人が衝撃

    今回は、戦争柄の着物を見た外国人の反応です。 戦争柄とは、文字どおり戦争の情景等を図案化した着物の柄のことで、 日清戦争期の1894年から、第二次世界大戦期の1942年ごろまで、 約50年間にわたって作られていました。 海外サイトでは「プロパガンダ着物」として紹介されているのですが、 実際は政府や軍部が戦争柄の着物を着るように国民に指導した事はなく、 国民が自発的に取り入れた、数ある流行のうちの1つだったようです。 ですので、街中で戦争柄の着物を着用していた人はごくごく一部で、 実際に着ていたのはほとんどが子供だったそうです。 いずれにしても、「プロパガンダ」と表現する海外サイトも、 「美しく、魅力的な」との形容詞も添えており、 1つの芸術作品として捉え、紹介しています。 写真を見た外国人からも、デザインを賞賛する声が多く寄せられていました。 その一部をご紹介しますので、ごらんください。

    海外「日本は戦時中ですら…」 戦時中の着物の高いデザイン性に外国人が衝撃
  • 九大生体解剖事件、90歳医師の償い 最後の生き証人:朝日新聞デジタル

    九州帝国大(現・九州大)で終戦間際、捕虜の米兵8人を実験手術で死亡させる「九大生体解剖事件」が起きた。事件を目の当たりにした福岡の医師は、その記憶にさいなまれながらも、向き合い、戦争と医の倫理を問い続けている。 7月、事件を伝える展示会が福岡市中央区のイベントホールであった。企画したのは、事件のただ一人の生き証人となった産婦人科医の東野(とうの)利夫さん(90)=福岡市中央区。手記などの資料や書籍、背景や経緯を記したパネルの前で、来場者の質問に答えた。 戦後70年を迎えた昨夏、自身の医院で初めて展示会を開いた。その後も事件について知りたいと医院を訪れる人が相次ぎ、再び展示することにした。「(事件は)決して消えないトラウマ。焼き付いています」。不安を落ち着かせる薬や睡眠薬を使うようになって半世紀近い。 事件との関わりは偶然だった。1945年5月、当時19歳。医学生になってまだ1カ月余りで、解

    九大生体解剖事件、90歳医師の償い 最後の生き証人:朝日新聞デジタル
  • 『百合子さんの絵本〜陸軍武官・小野寺夫婦の戦争』 - 法華狼の日記

    『ムーミン』の翻訳者で知られる小野寺百合子は、戦時中に陸軍武官だった夫とともにスウェーデンに駐在し、機密情報の暗号化を手助けしていた。 夫は元ポーランド軍人のスパイと懇意になり、独ソ戦やヤルタ会談を早期に察知して、勝ち目のない戦争を止めるため国へ情報を送りつづけた。 しかし夫の見解は、現実的でない弱気な意見と解釈され、無視されていく…… NHK総合で放映された1時間半の終戦スペシャルドラマ。ベートーベンの第九交響曲にのせて、故郷と戦線から遠く離れて無力感をかかえた夫婦の半生を映しだす。 http://www4.nhk.or.jp/yurikosan/ 『ムーミン』の翻訳者が諜報活動に関係していたという豆知識は知っていたが、その詳細は知らなかった。だからこのドラマがどこまで史実なのかも判断できない。 とりあえずドラマとして興味深かったのは、遠くはなれた地域で俯瞰的に国際状況を見ていることを

    『百合子さんの絵本〜陸軍武官・小野寺夫婦の戦争』 - 法華狼の日記
  • 国際児童文学という視点からの読書指導

    karotousen58
    karotousen58 2016/01/05
    国際児童文学という視点からの読書指導-新潟大学
  • 米軍はいかにして日本兵を投降させたか〜その周到すぎる心理作戦(一ノ瀬 俊也)

    太平洋戦争中、米軍は最新の軍事情報を得るために日兵を捕虜にしたかった。しかし、降伏を禁じられ、捕虜になるのは「恥辱」とされていた日兵はなかなか投降しない。そこで米軍が展開した周到な情報戦とは? 一ノ瀬俊也『日軍と日兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日兵の精神」を特別公開します(全3回。第1回「日兵の戦争観」はこちら)。 日兵と投降 日兵捕虜を獲得せよ 米軍のみた日軍兵士たちはけっして超人などではなく、勝っていれば勇敢だが負けとなると怯えた。それにもかかわらず彼らの多くが死ぬまで戦ったのは、先に引用した米軍軍曹の回想にもあった通り、降伏を禁じられ、捕虜は恥辱とされていたからである。(→第1回参照) しかし米軍側は最新の軍事情報を集めるためにも日兵を捕虜にしたがっていた。そのため彼らは、まず自軍将兵に捕虜獲得の重要性を繰り返し説くことからはじめた。 IB(*)1943年7

    米軍はいかにして日本兵を投降させたか〜その周到すぎる心理作戦(一ノ瀬 俊也)
  • 「知らなければ繰り返されないのか」 長崎、原爆の日に寄せて。 - スズコ、考える。

    中学2年のときだったと思う。 広島、原爆の日に寄せて。 - スズコ、考える。 のエントリに書いたように平和教育の盛んだった地域で育ち、また同様に同和教育も受けてきた私にとって、道徳的なことや平和に関する授業を受け、それに対する感想を述べたり書いたりすることは年に数回ある日常的なことになっていました。 大人に対する反抗的な気分が盛り上がる時期でもあった14歳。 小さい頃から模範的な感想文を書いては評価を得てきた私にも多少の反発心があったのだろうと思います。道徳の時間に同和授業を受け、部落差別のことについて学んだ後に感想文を書くことを求められ、原稿用紙が前から配られたとき、それを前にボソッと私はこういいました。 「どうせ、きれいごとを書き並べれば良いんでしょ? でもこんなこと、知らなくてもいいんじゃないの? 知らなかったらやらないよ。 わざわざ教えるからまた同じことやろうって人が出てくるんじゃ

    「知らなければ繰り返されないのか」 長崎、原爆の日に寄せて。 - スズコ、考える。
    karotousen58
    karotousen58 2014/08/11
    「反抗、バカにして不貞腐れていた」だけではない。「真っ向から向き合った担任」と「担任の言葉を心に刻んだブログ主」との協働で得たことだと思う。「平和教育と称した、ある種の情操教育」でごまかす教育もある。
  • 加藤春江 1945年8月6日

    加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。べるものがない時だったので母は喜んだ。

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    karotousen58
    karotousen58 2014/08/07
    発言者が受けた平和教育の中身が気になる。私の場合、「子供の頃は戦争で大変だった。今の子は苦労を知らず我儘。」とか「ありがたいお話を心して聞き、大人が喜ぶ感想を返せ。」という説教だった。教育効果に疑問有
  • 「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのか/成田龍一氏インタビュー - SYNODOS

    社会運動、政党政治、普通選挙――民主主義的な言論や運動が活発に行われた「大正デモクラシー」。しかし、その後日戦争の時代へと突入してしまう。なぜ大正デモクラシーは戦争を止められなかったのか。歴史学者の成田龍一氏に話を伺った。電子マガジンα-Synodos vol.142より、一部を転載。(聞き手・構成/山菜々子) 「大正デモクラシー」とはなにか ―― 今回は、「大正デモクラシーはどうして戦争を止められなかったのか」というテーマでお話を伺えればとおもいます。まずは、「大正デモクラシー」はどのようなものだったのでしょうか。 まず、「大正デモクラシー」という言葉についてですが、これは同時代に使用された言葉でもなければ、歴史用語として定着しているわけではありません。論者によって「大正デモクラシー」といったときの時期や内容や評価が様々です。「大正」という元号と、「デモクラシー」というカタカナとが

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