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ブックマーク / www.highriskrevolution.com (3)

  • 『ときメモ』を巡る25年前の風景 | Colorful Pieces of Game

    PCエンジンminiで初めてときメモを遊ぶ人は「幼馴染の万能超人、藤崎詩織にふさわしくなるために自分を鍛えるゲーム」と信じてプレイして欲しいw 元ツイート このツイートをしたとき、いろいろな反応をもらったが、どうしてこう書いたかというと、僕が初めてレビューしたとき、すなわち94年の4月ごろにコナミからやってきた『ときめきメモリアル』のPCエンジン版をプレイするとき、そう思ってレビューを始めたからだ。 それはファミ通のPCエンジン版の最初のレビューでも知ることができる。 僕には伝説的な(7/7/7/6)のまともにプレイしたとは思えないレビューで、じゃあ実質ベタ移植のPS1ではなんで32点(8/8/7/9)なんだよと皮肉を言いたくなる代物だったけれど、書かれていたゲーム内容紹介-- 幼なじみの藤崎詩織ちゃんから告白されるのが目的の、恋愛ときめきシミュレーションゲーム。エンディングはプレーヤーの

    klaftwerk
    klaftwerk 2019/10/30
    受験生で日本にいなかった時期なのでこの辺りの空気感を知らないので興味深いなあ
  • 1988年のPCエンジンCDROM | Colorful Pieces of Game

    とても楽しいハドソン系の飲み会があり、そこで預かってくれないか? と言われたのが、1988年9月に作られたNO・RI・KOのディスクだった。 ウラノリコと書かれているのは、画像データの大半が仮素材の代物だったからだ。 なお、当時のスタッフがPEというエディタで適当に描いたもの。 NO・RI・KOはアルファシステムが制作しているので、マウスで適当に描かれたテキストに結構九州弁が含まれているのがなかなかに面白い。 これはスタンパ(と当時は僕らは呼んでいた)形式、つまり当に生産されたもので、記憶ではマスターを出すとだいたい一週間ぐらいすると来るものだったわけだけど、どうしてこんな仮素材の代物をスタンパにしたのか? 誰も当にCDROMでゲームがちゃんとが動くのかわかっていなかったし、見たこともなかったから、実ディスクを作ってみるのが必須だった 1988年8月ぐらいまでBIOSを作っていて(僕も

  • 把握している限りのパソコン版イースの初期開発史::Colorful Pieces of Game

    僕が聞いている限りでは、この発想はなかったと思います。ファクトはダームの塔の最上階にいて、あのバトルフィールドは最上階以外の何物でもないです。少なくとも山根がそう考えてないと、『Ⅰ・Ⅱ』のインターミッションで、屋上からぶっ飛ぶアニメーションは出てきません。 また、自分が覚えている(同人誌にも書いた)イースの開発の歴史に、のちに分かった若干の付け加えをして書いておきます。 ■橋・宮崎コンビが『アステカ3』と偽って作り始めていたゲームに山根が合流する。 そもそもは『アステカ3』と偽ってアクションRPGを作り始めたのは確かなようです。当時のファルコムメンバーの山根+1で、どちらの話も共通していましたから。30年経っての記憶違いはともかく、彼らがウソつく必要もないわけで。当時、橋・宮崎コンビはファルコムの中ではメインではなかったので、チェックも緩くて勝手に出来たのかなあと。 また、このころは「

    把握している限りのパソコン版イースの初期開発史::Colorful Pieces of Game
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