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ブックマーク / ja.wikipedia.org (231)

  • Office Open XML - Wikipedia

    Office Open XML (OpenXML、OOXML) とは、ZIP形式で圧縮されたXMLをベースとし、Microsoftが策定、最初はECMAで引き続きISO/IEC JTC1により標準化されたオフィススイート用ファイルフォーマットである。 2006年12月に ECMA により ECMA-376[2]として標準化され、2008年4月にはISOとIECの合同技術委員会 ISO/IEC JTC 1の副委員会SC 34において、ISO/IEC 29500として標準化された。競合国際規格として「ISO/IEC 26300:OpenDocument Format(ODF)」がある。 Microsoft Office 2010は、ECMA-376の読み込みサポート、ISO/IEC 29500 Transitionalの完全サポート、および ISO/IEC 29500 Strict の読み込み

  • ニコラウス・クザーヌス - Wikipedia

    ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus、1401年 - 1464年8月11日)は、中世ドイツの哲学者・神学者・数学者・枢機卿であり、博学者。 生涯[編集] ドイツのモーゼル河畔の港町クースに裕福な船主の家庭に生まれる。幼い頃の記録は不明確であるが、父親に理解されず苦しんだようである。領主の援助を得てオランダに遊学、敬虔主義的な教育を受けたとされる。ハイデルベルク大学で自由学科を学び、翌年にはパドヴァ大学に移り、1423年教会法の博士号を取得。1425年再びドイツに戻ってからはケルン大学にて教会法を講じつつ、同時にハイメリクス・デ・カンポのもとで学び、偽ディオニシウス・アレオパギタ、アルベルトゥス・マグヌス、ライムンドゥス・ルルスらの思想に触れる。この頃から写発見家としても人文学者に名を知られていく。 その後1430年司祭に叙階され、バーゼル公会議(フィレンツェ公会議)で

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  • 村田珠光 - Wikipedia

    村田珠光 村田 珠光(むらた じゅこう、応永29年(1422年)または30年(1423年) - 文亀2年5月15日(1502年6月19日)または7月18日(8月20日))は、室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者とされる人物。なお僧侶であり来ならば苗字は持たないが、慣習的に「村田珠光」という呼び方が広まっている。 「しゅこう」と濁らないとする説もある[1]。 生涯[編集] 応永30年(1423年)奈良に出生。[2]。父は検校の村田杢市。幼名・茂吉、木一子。 11歳の時、奈良の浄土宗寺院称名寺に入り出家。[2]。僧名である「珠光」の名は、浄土三部経の一つ『観無量寿経』の語句「一々の珠、一々の光」からとられた[1]。 20歳以前に称名寺を出る[2]。その後の経歴は不明。 応仁の乱の頃には、奈良に帰るが、称名寺には戻らずに、東大寺の近くの北川端町で、庵を営む。当時の北川端町は、民家もない田

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  • 菊地敦己 - Wikipedia

    菊地 敦己(きくち あつき、1974年 - )は日のグラフィックデザイナー、アートディレクター[1][2]。東北芸術工科大学客員教授。[3] 来歴[編集] 東京都町田市出身。武蔵野美術大学彫刻学科中退。1995年、同大学在学中にネオスタンダードグラフィックス設立。2000年、ブルーマーク設立。2011年、ブルーマーク解散。同年株式会社菊地敦己事務所設立。[4]ブランド計画、ロゴデザイン、サイン計画、エディトリアルデザインなどを主に手掛ける。特に美術、ファッション、建築に関連する仕事が多い。[4] 主な受賞[編集] 日グラフィックデザイン協会の設置する賞[編集] JAGDA新人賞(2006年)[5] JAGDA賞(2012年、2014年、2015年、2016年、2018年、2019年、2020年、2022年)[6] 亀倉雄策賞(2020年)[7] 東京アートディレクターズクラブの設置する

  • 南画 - Wikipedia

    南画[編集] 田能村竹田『江邨風雨図』 メトロポリタン美術館蔵 江戸中期に南画が隆盛した要因は複合的なものであった。黄檗宗の伝来・画人、商人の渡来・画譜の伝来・狩野派、土佐派の停滞[2]・経済の著しい発展[3]。また、町人文化の発展と儒学の盛行も、宝暦・明和年間以降の文人画の定着を後押しした[4]。 中国の士大夫にとって、文人画は学問のひとつであった[5]。日の南画家、文人画家も同様の認識ではあったが、池大雅や与謝蕪村に見られるように、その学問の範囲は儒学のみならず文学も含んだ。いずれの場合においても、初期の南画家たちは創作に取り組むにあたり、画論を読み、画譜に軛を求めた[6]。 南画は、狩野派や円山・四条派などと異なり、師弟関係が存在しても緩やかなものであり、また画風や画法、画域が厳しく教え伝えられるものではなかった[7]。その一方で、出身階級は画家の制作姿勢に大きな影響を及ぼした

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  • ドミニク・アングル - Wikipedia

    『グランド・オダリスク』(横たわるオダリスク) 1814 ルーヴル美術館蔵 "La Grande Odalisque" ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(フランス語: Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780年8月29日 - 1867年1月14日)は、フランスの画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、特にダヴィッドがナポレオンの没落後の1816年にブリュッセルに亡命した後、注目され、古典主義的な絵画の牙城を守った[1]。 生涯[編集] アングルはフランス南西部のモントーバン近郊ムースティエに画家、彫刻家、装飾美術家の父ジャン=マリー=ジョセフ・アングル(フランス語版)と母アンヌ・ムレの子として生まれた。父ジョセフは美術家というよりは職人で、化粧漆喰、建築、家具の装飾彫刻、看板描きから音楽

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  • ウジェーヌ・ドラクロワ - Wikipedia

    フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日)は、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家、アーティスト。「ドラクロワ」は「ドラクロア」とも表記する[1]。 生涯[編集] 1798年、パリ近郊のシャラントン (現在のサン=モーリス) に生まれた。父は外交官シャルル=フランソワ・ドラクロワ(フランス語版)だが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーラン=ペリゴールが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある[2]。 新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲラン (Pierre-Narcisse Guérin) に入門し、1822年、『ダンテの小舟』で先輩画家であるアントワーヌ=ジャン・グロの強力な推薦もありサロン(官展)に入選した。1824年のサロンには『

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  • ラファエロ・サンティ - Wikipedia

    ラファエロ・サンティの肖像と、ガラテイアの勝利がデザインされている500000リラ紙幣 ラファエロ・サンティ(伊: Raffaello Santi[注釈 1]、 1483年4月6日 - 1520年4月6日[2])は、盛期ルネサンスを代表するイタリアの画家、建築家。一般的には単にラファエロと呼ばれ、日ではラファエッロ、ラファエルロ、ラファエルなどという表記のゆれが見られる。イギリスではラファエルと呼ばれるのが一般的である。 ラファエロの作品はその明確さと分かりやすい構成とともに、雄大な人間性を謳う新プラトン主義を美術作品に昇華したとして高く評価されており、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロとともに、盛期ルネサンスの三大巨匠といわれている[3]。 ラファエロは異例なほどに大規模な工房を経営しており、短い生涯に多数の作品を制作した。多くの作品がヴァチカン市国のヴァチカン宮殿に残されており

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  • エルヴィン・パノフスキー - Wikipedia

    エルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky, 1892年3月30日 - 1968年3月14日)はドイツ出身の美術史家。英語読みでアーウィン・パノフスキーとする表記もある。 人物[編集] アルブレヒト・デューラーを中心とする北方ルネサンス研究で知られる。パノフスキーが、理論化をすすめたイコノロジー(図像解釈学)は、20世紀の美術史学で、「様式論」と並ぶ最も重要な方法論[1]となった。 1892年にドイツ北部のハノーファーに生まれ、ミュンヘンやベルリンで学んだあと、イタリア・ルネサンス絵画とデューラーの関係を扱った論文でフライブルク大学から哲学博士号を取得(1914年)。1926年、新設されたハンブルク大学で美術史の正教授に就任。このとき同大学の哲学教授だったエルンスト・カッシーラーと深く交流したほか、美術史家アビ・ヴァールブルクの知遇を得た[1]。ドイツ時代の重要な研究には、『デ

  • ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン - Wikipedia

    ラファエル・メングスによる肖像画 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann, 1717年12月9日 - 1768年6月8日)は、18世紀ドイツの美術史家である。 生涯[編集] ブランデンブルクの貧しい商人の家に生まれる。苦学してハレ大学に入学し、神学を学ぶ。1743年、ゼーハウゼンで教員となる。若い頃からホメロスなどギリシャの古典文学に憧れ、独学でギリシャに関する研究を続けた。 ドレスデンで古代美術のコレクションにふれ、古代の精神に開眼する。1754年、研究のためプロテスタントからカトリックに改宗する。1755年、ローマに移住。1764年『古代美術史』を刊行。1768年、ウィーンへ行くが、ローマに戻る途中のトリエステでイタリア人に殺害される(ウィーンで授与された金メダルを狙われたためと言われる)。 功績[編集] 『ギリシア芸術模倣論』(1755

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  • 法華 - Wikipedia

    法華(ほっけ) 仏教の経典のひとつ、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の略称。詳しくは妙法蓮華経(法華経)を参照。この経には、正法華経、添品法華経もある。 仏教の宗派のひとつ、法華宗(妙法蓮華経宗)の略称。詳しくは法華宗を参照。 寺の名で、法華寺(法花寺)の略称。詳しくは法華寺を参照。 地名 愛知県名古屋市中川区法華(ほっけ) 愛知県名古屋市中川区法華西町(ほっけにしまち) 関連項目[編集] ほっけ 「法華」で始まるページの一覧 このページは曖昧さ回避のためのページです。一つの語句が複数の意味・職能を有する場合の水先案内のために、異なる用法を一覧にしてあります。お探しの用語に一番近い記事を選んで下さい。このページへリンクしているページを見つけたら、リンクを適切な項目に張り替えて下さい。

  • 【美術論】図像学 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "図像学" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年10月) 図像学(ずぞうがく)は、絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究する学問。[1]。 洋の東西を問わず、近代以前の美術作品は、今日の美術のように作家の個性や美そのものを目的とするというよりも、その作家の属する社会において、成員ならば了解可能なモチーフの組み合わせによって、社会的、宗教的などのメッセージを表出する性格が顕著であった。そうしたモチーフは、例えば西欧において百合は「純潔」を、犬は「忠誠」を表すといった例がよく知られている。また、百合を持

  • 数寄者 - Wikipedia

    数寄者(すきしゃ)は、芸道に執心な人物の俗称。「数奇者」(すきもの)と書く場合もある。 現代では、業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に名物級の茶道具を所有する人物として用いられる。 歴史[編集] 「数寄」とは来「好き」の意味である[1]。広く風流韻事に心を寄せることを意味したが、平安時代には歌道が諸文化の中で重要な地位を占めており、松永貞徳が『歌林雑話』で「好きと云ふも歌人の事なり」と述べるなど歌人のことを指した[2]。その後、茶の湯が流行し、清巌正徹が『正徹物語』で「歌の数奇」に対して「茶の数奇」について述べるなど相対して新たに用いられるようになった[2]。その後、歌道の衰えとともに「数寄」はもっぱら茶の湯での意味になった[2]。 茶事に関連して数寄屋造りと呼ばれる建築様式があるが、『匠明』によると「茶之湯座敷」に「数寄屋」と名付けたのは堺の宗易(千利休)であるとする[3]。ただし、江

  • 足利義尚 - Wikipedia

    足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町幕府の第9代征夷大将軍[2](在職:文明5年(1473年) - 長享3年 (1489年))。 『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、後年、義凞[3](あるいは義煕)(よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の諱で知られる。 応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。 生涯[編集] 伝足利義尚像(天龍寺蔵、肖像については後述) 足利義尚木像(等持院) 寛正6年(1465年)11月23日[4][3]、8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると将軍後継問題が発生した。義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義

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  • 狩野正信 - Wikipedia

    周茂叔愛蓮図 九州国立博物館蔵 国宝 山水図(双幅のうち)九州国立博物館蔵 重要文化財 狩野 正信(かのう まさのぶ、永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日(1530年8月2日)?)は、室町時代の絵師で、狩野派の祖である。 狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日の絵画界の中心にあった画派であった。この狩野派の初代とされるのが、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信である。古記録から、正信は寛正4年(1463年)には京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったと思われる。没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没したことになる。長男は元信、次男は雅楽助。 生涯[編集] 出自[編集] 正信の出自については、伊豆国出身である鎌倉時代に源頼朝に仕えた武士・狩野宗茂の子孫で、江戸時代作成の家譜・画伝類では駿河今

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  • 京都国立博物館 - Wikipedia

    京都国立博物館(きょうとこくりつはくぶつかん)は、独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館。1897年(明治30年)5月に開館した。現館長は松伸之[1]。 主に平安時代から江戸時代にかけての京都の文化を中心とした文化財を、収集・保管・展示するとともに、文化財に関する研究、普及活動を行っている。平常展示のほかに特別展が1年に2–4回行われている。 2020年3月31日時点で、国宝29件、重要文化財200件を含む収蔵品の総数は8,130件[2]。これとは別に、国宝88件、重要文化財615件を含む総数6,520件の寄託品を収蔵している[2]。2019年度の平常展の展示替え件数は1,140件、展示総件数は1,147件[3]。同年度の来館者数は約38万人で[2]、平常展来場者は約16万人[3]。 開館までの経緯[編集] 1888年(明治21年)、宮内省に臨時全国宝物取調局(局長九鬼隆一)が設置さ

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  • 雪舟 - Wikipedia

    この項目では、画家の雪舟(せっしゅう)について説明しています。遊具の雪舟(そり)については「ソリ」をご覧ください。 『絹著色雪舟自画像(模)』(重要文化財[注釈 1]、藤田美術館) 『秋冬山水図』のうち秋景(東京国立博物館) 雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年)[2] - 永正3年(1506年)8月8日(諸説あり)[2])は、日の室町時代に活躍した水墨画家・禅僧(画僧)[2]。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。 備中国(現在の岡山県総社市)に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護を受け周防国に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。 現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日

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  • 彼岸 - Wikipedia

    ヒガンバナ 彼岸(ひがん)とは、日の雑節の一つで、春分・秋分を中日(ちゅうにち)とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ[1]。 最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ。 俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。 起源[編集] 語源[編集] サンスクリットのpāram(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(Pāramitā パーラミター)の意訳「至彼岸」に由来する[2]。 Pāramitāをpāram(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈している。悟りに至るために越えるべき渇愛や煩悩を川(暴流)に例え、その向こう岸に涅槃があるとする(

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    Sixeight
    Sixeight 2010/03/30
    此岸の読み方をやっと把握した。
  • 禅宗様 - Wikipedia

    功山寺仏殿(山口県、国宝) 禅宗様(ぜんしゅうよう)は、日の伝統的な建築様式の一つ。唐様とも言う。 鎌倉時代初期から禅宗寺院で取り入れられ始め、武士の帰依を受けたことで13世紀後半から盛んになった様式で、当時の中国建築の直写が目指された。従来の寺院建築様式である和様、また鎌倉時代初期にもたらされた大仏様に対する言葉。大仏様とは共通する部分も多く、あわせて鎌倉新様式または宋様式と総称される。 概要[編集] 飛鳥・天平時代に中国から伝えられた建築様式は、平安時代を通じて日化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降、日化した建築様式を和様と呼ぶ。 平安時代後期になると、平清盛の大輪田泊対外開港など中国(宋)との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式で、大仏様と呼ぶ。 その後、禅僧が活発

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  • 書院造 - Wikipedia

    慈照寺東求堂 書院造(しょいんづくり)は、日の室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である[1]。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。 概要[編集] 各部名称 書院造とは、平安時代の貴族の住宅様式「寝殿造」を元に、中世末期以降に始まり近世初頭に大いに発展完成した「書院」を主室に持つ武家の住宅様式である[2]。時代とともに、日常的な住まいから接客空間としての広間へ、さらに儀式の場としての対面所へという変遷が窺える[2]。武士の社会的地位の変化にともなう公的空間への移行と言い換えることもできよう。平和な平安王朝期と異なり、戦乱の多い武士の時代には、座敷が交渉や情報交換

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    Sixeight
    Sixeight 2010/03/30
    いまいちどんなのか想像できない。