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知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史~芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった! 戦争・麻薬・カネ 文/辻田真佐憲(近現代史研究者) 芸能界の薬物汚染と太平洋戦争 近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。 漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。 いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何本くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。 いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分
言葉の意味をすり替えて言論を破壊しごまかすのは、「いつものやり口」です。 まとめ ① 当時の日本政府当局も植民地として扱った ② 定義上も植民地である ③ 学問の世界において通説である 2015年、愛知県のさる大学で行われた司書講習において、講師が「日本による朝鮮の植民地支配」にふれたところ、休憩時間中に聴講者の誰かが横車なクレームを入れたらしく、次の時間でその講師が「正しくは併合でした、植民地だったと間違った事を言って申し訳ありません」と言わされる事故がありました。 間違ってなどいません。植民地期の朝鮮は、日本の植民地でした。 が、よりによって大学という場所で、このような馬鹿馬鹿しいほど誤ったクレームがまかり通る事態は深刻です。 「あれは植民地支配だった」と自信をもって貫き、お馬鹿なネトウヨクレームは軽く一蹴できるよう、ざっくり材料を揃えてみることにします。 1、当時の日本政府当局も植民
2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。 『BS日本・こころの歌』でフォレスタの歌声をBGMに「余録」の書き写しをしていた。♪しずかな しずかな ~ ♪と始まった。♪里の秋♪である。いつもの9月だと残暑も厳しく、熱帯夜もあり「暑さ寒さも彼岸まで」と言いながら秋の訪れを待つのだが、今年は「扇風機をもうしまってもいいのでは」とか「運動会の練習で熱中症というニュースがないね」などと早々と秋モードになってきている。 「♪里の秋♪がピッタリマッチする夜やなあ」と思いながら「余録」を書き進めていた。秋を代表する歌だが、私は1番の♪しずかな しずかな 里の秋 おせどに木の実の 落ちる夜は ああかあさんと ただ二人 栗の実 にてます いろりばた♪しか記憶に残っていない。 フォレスタは省略することなく歌うので2番以後少し歌の方
太平洋戦争中、米軍は最新の軍事情報を得るために日本兵を捕虜にしたかった。しかし、降伏を禁じられ、捕虜になるのは「恥辱」とされていた日本兵はなかなか投降しない。そこで米軍が展開した周到な情報戦とは? 一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回。第1回「日本兵の戦争観」はこちら)。 日本兵と投降 日本兵捕虜を獲得せよ 米軍のみた日本軍兵士たちはけっして超人などではなく、勝っていれば勇敢だが負けとなると怯えた。それにもかかわらず彼らの多くが死ぬまで戦ったのは、先に引用した米軍軍曹の回想にもあった通り、降伏を禁じられ、捕虜は恥辱とされていたからである。(→第1回参照) しかし米軍側は最新の軍事情報を集めるためにも日本兵を捕虜にしたがっていた。そのため彼らは、まず自軍将兵に捕虜獲得の重要性を繰り返し説くことからはじめた。 IB(*)1943年7
フランスとその風光明媚な田舎の風景を思い浮かべるとき、絵のような村や広大なブドウ畑、夏にうねった道をご機嫌なドライブのできる、どこまでも続く緑の丘などを想像するかもしれない。しかし、こんな美しい風景の片隅に、1世紀近くも人の立ち入りが禁止された、ゾーンルージュ(レッドゾーン)がある。 現在でも、パリとほぼ同じ広さの100平方キロ近くが、一般の立ち入りや農地利用を法律で厳しく制限されている。その理由は、いまだに世界大戦の戦場跡に残る、おびただしい数の遺骸や不発弾が回収しきれていないからだ。
空襲の安全神話 1枚の写真をご覧いただきたい。 畳の上に炎があり、男女3人が水をまいている。昭和13年に東部軍司令部の監修で作られた12枚組ポスターの一つで、今でいう政府広報である。表題には「落下した焼夷弾の処理」とある。 それにしても不思議な光景である。屋根を突き破って落ちてきた割には弱々しい炎。天井や畳は燃えていない。焼夷弾の間近に迫って怖くないのか。アメリカ軍の焼夷弾はその程度のものなのか。一杯目のバケツで水をかけた後は、一体どうするのか。この一つの炎のために次々とバケツリレーをするのか。謎が深まる。 もう1枚。同じ12枚組の1つである。 ショベルの先に小さな「焼夷弾」らしき物体があり、「折よくば戸外に投出せ」と書かれている。こちらも、畳や障子はまったく無傷である。 こんな対処法が可能とは思えない。実戦で使用された焼夷弾は、発火装置と燃焼剤が一体となっており、投下されると数十メートル
アメリカで使用される通貨は「ドル(dollar)」ですが、ドルは記号で「$」と表し、大文字の「S」が入っています。「dollar」という文字のどこにも「S」は入っていないのですが、なぜドルは記号で「$」と表記するのでしょうか。 Why Is The Dollar Sign A Letter S? http://observationdeck.io9.com/why-is-the-dollar-sign-a-letter-s-1683940575 そもそも、「$」はドルを表す記号ではなく、スペインや旧スペイン植民地で使われている、もしくは使われていた通貨「ペソ」を表す記号です。 By Bill Brooks 話はさかのぼり1500年代、ヨーロッパ中央の現在チェコ共和国がある辺りにあったのがボヘミアです。当時の中央ヨーロッパは銀が豊富に採れる土地だったので、数世紀にわたり銀を海外に輸出し、シル
「The Celebrated Negro Melodies, as Sung by the Virginia Minstrels」のカバーからの詳細、1843年 ミンストレル・ショー(英: minstrel show)とは、顔を黒く塗った(ブラックフェイス)白人(特に南北戦争後には黒人)によって演じられた、踊りや音楽、寸劇などを交えた、アメリカ合衆国のエンターテインメントのこと。ミンストレルとは、原義では中世ヨーロッパの宮廷にいた吟遊詩人や宮廷道化師たちを指すが、アメリカではミンストレル・ショーに出演する芸人たちのことをミンストレルと呼んだ。 概要[編集] 人種差別の産物[編集] ミンストレル・ショーは、そのステレオタイプ的でしばしば見くびったやり方で黒人を風刺した。ミンストレル・ショーは1830年代に簡単な幕間の茶番劇 (Entr'acte) として始まり、次の10年には完全な形を成し
まとめ 三角縁神獣鏡チョコを作ろう!2014 一昨年、突如出現し考古学界を震撼(?)させた三角縁神獣鏡の同型同寸チョコ。昨年ついに製作技法が確立し、技術伝播への道のりが定まった。 そして2014年、福井市立郷土歴史博物館ではヴァレンタインデーを前に歴史好きな乙女たちが相集い、銅鏡チョコの鋳造が行われた。先般の三角縁=魔鏡報道もあって、会場は大いに盛り上がったという・・・ 41339 pv 1352 18 users 698 金田あおい【8月8日・9日は大洗町にてトークイベント】 @ao_ran はい、明日は三角縁神獣鏡チョコを作ろうワークショップです。カフェスペースでは、破砕鏡チョコをお茶菓子として食べていただけまーす!明日の講師藤川明宏さんは、準備のため現地入りするなり講義に使う秘密兵器に何やら仕掛けをしておられましたん。楽しみですー!見学・喫茶利用どぞ!#飛びフル 2014-05-31
第五章 権力闘争 ツイート 論理的思考力と議論TOP 【論理的思考法・議論】 一.論理的な主張の仕方 二.論理的な反論の仕方 三.詭弁・誤謬・レトリック やる夫で学ぶ議論のしかた ディベートとは+動画 喧嘩凸動画と生配信の見方 毎日読むまとめ 【交渉・駆け引き】 権力闘争 【心理・対話スキル】 トマス・ゴードンの『親業』 思考を歪める心理効果 【その他】 リンクと書籍 ―相互リンクサイト様― ◇議論・論理・思考法 議論パターン(翔ソフトウェア) 論理学入門(立徳の道) N&Sラーニング ◇主張・コラム・エッセイ 日本人よ!誇りをもて 歴史と世間のウラのウラ 紙屋研究所 ようこそDr.町田のホームページへ 新聞拡張員ゲンさんの嘆き リューニウム オカルトの部屋 不登校ひきこもりニートの原因・予防・脱出法 ■TOPへ 論理的思考力と議論とディベート ●権力闘争 【分断して統治せよ】 分断統治と
グルジアのギオルギ・マルグヴェラシュヴィリ大統領が今週来日した。まずはこの慶事を言祝ぎたい。ホスト国の我が国にとってはもちろんのこと、親日家の多いグルジアの人にとってもたいへん嬉しいニュースであり、両国関係が進展する1つのきっかけに是非なってほしいものである。 もう1つ、グルジアについては新しいニュースが届いた。政府はグルジアの呼び名をジョージアに変更し、在外公館などを含めて名称に関連する法律の改正案を次の国会で提出するらしい。 最近ワインや力士の活躍で知名度が上がりつつあるといっても、グルジアはいまだ知る人ぞ知る国であるし、日本との直接の結びつきはだいたいこの20年くらいのものだろう(丸2年間留学したのは管見の限り筆者が初めて)。したがって、一見名称変更に大きな影響はないようにも思える。 呼び名の変更はときには過去の歴史との決別すら意味する もっともスターリン期にグルジアに住んでいた日本
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20140910/1410394021 http://d.hatena.ne.jp/dlit/20140911/1410405410 個人的には、歴史は科学じゃなくて(事実と推定されるものを元にした)文学だと思うなあ。事実の推定のやり方はそれなりに科学的だと思うけど、事実と事実の関係の解釈が完全に文学。「歴史の流れ」とかさ、SFとかで時々出てくる「歴史の補正力」と同レベルのトンデモでしょ。 事実推定の段階から文学入ってる歴史修正主義みたいなクソと一緒にすんなっつーのは分かるんだけど、左翼の人たちが大好きな唯物史観だって、都合のいい事実だけを繋げて作った「星座」だと思うしなあ。 ある出来事Aと別の出来事Bに因果関係が存在することを証明するのって、再現がほぼ不可能な「歴史」においては事実上不可能なはずなのに、経済学とか社会学
中島岳志 @nakajima1975 1930年代以降の村岡花子の文章を「発掘」していると、やはり強烈な発言がどんどん出てきます。『婦人新聞』1941年9月21日号に寄せた文章では、「大日本婦人会」の活動に対して強く「協同一致」を求め、「自我を滅した御奉公であるやう」求めています。 2014-08-03 16:40:36 中島岳志 @nakajima1975 1938年1月1日の『婦人新聞』誌上に掲載された座談会「事変下に於ける子供の導き方」で、村岡花子は「戦争は国家の意思」であり、「個人的心理的な観方」を滅却せよと訴えています。同時代のナチスに対しても好意的。「花子とアン」は、この辺りをしっかり描いてほしいと思っています。 2014-08-03 16:46:07
ついに蓮さまと花子が決裂──と、さらなる盛り上がりを見せているNHK連続テレビ小説『花子とアン』。主人公・花子(吉高由里子)が戦争へ抵抗を感じながらもラジオで子どもたちに戦意高揚を煽るような話ばかりすることに、腹心の友・蓮子(仲間由紀恵)が“戦争協力”だと批判。ふたりの厚い友情が、戦争によって切り裂かれてしまった。本日9月6日の回では、「私の口から戦争のニュースを放送することはできません」と、花子はついにラジオの降板を決意した。 視聴者のなかには「花子だって戦争に協力したいわけじゃないのに……蓮さまわかってあげて!」と思っている人も多いかもしれない。しかし、現実はそうではない。花子のモデルで実在した村岡花子氏は、戦争に抵抗を示すどころか、かなり積極的に“加担”していたのだ。 本ドラマの原案である『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(村岡恵理/新潮文庫)によると、ドラマと同様に戦争中も「子供た
中島岳志 @nakajima1975 1930年代以降の村岡花子の文章を「発掘」していると、やはり強烈な発言がどんどん出てきます。『婦人新聞』1941年9月21日号に寄せた文章では、「大日本婦人会」の活動に対して強く「協同一致」を求め、「自我を滅した御奉公であるやう」求めています。 2014-08-03 16:40:36 中島岳志 @nakajima1975 1938年1月1日の『婦人新聞』誌上に掲載された座談会「事変下に於ける子供の導き方」で、村岡花子は「戦争は国家の意思」であり、「個人的心理的な観方」を滅却せよと訴えています。同時代のナチスに対しても好意的。「花子とアン」は、この辺りをしっかり描いてほしいと思っています。 2014-08-03 16:46:07
→紀伊國屋書店で購入 「あとがき」冒頭で、著者一ノ瀬俊也は、つぎのように書いている。「本書の執筆中、第三章の「応召手当」の項では、現在社会問題となっている「派遣社員切り」のことを、第四章の戦死者「死亡認定」の項ではいわゆる「宙に浮いた年金」問題のことをそれぞれ想起せざるをえなかった。われわれの住む国も社会も、じつは六十数年前から変わっていないということがわかったように思う」。 著者が、このように書くことができるのは、「はじめに」の終わりで、つぎのように書いているからだろう。「どうか読者諸賢におかれては、もし自分があの時代に生まれて戦争に行くことになったらどうなっただろうか、あるいはどう思っただろうかを考えながら読んでいただきたい。私も自分がそうだったら、と思いながら書いている」。そして、「おわりに」の最後は、つぎのような言葉で締めくくっている。「戦争の時代を考えるとき一番大切なのは、その時
加藤春江 1945年 夏 私は挺身隊の一員として被服廠に通っていた。 それも女学校4年生の終り、突然、多賀谷先生がコヨリの先に青や赤や黄色を先にぬり、 色とりどりのコヨリを束ねて、手に持ち、両手で上手によじった。 そして生徒皆んなの席に順番に来ては1本づつ引かせた。 皆んなは赤や青のコヨリを手に持った。 先生は真剣な面持でチョークを持ち黒板に書きつづっていった。 赤―被服廠 青―兵器廠 黄―糧秣廠(りょうまつしょう)……… 皆んなは、赤は赤、青は青、と、ひとかたまりになり、わあーわあーきゃあーきゃあーさわいだ。 (皆んな静かにしなさい。皆んな仲良し同吋で行きたいでしょうが、それでは困る人があるんで 公平にする為めに、くじにしたのです) と云った。 私はいやだった。 被服廠10人と云われた時、仲良しは1人もいなかった。 でも決まった事だから我まんした。食べるものがない時だったので母は喜んだ。
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