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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/sikyakuhaiku (5)

  • 俳句時評166回 多行俳句時評(7) 出会い損ねる詩(1) 斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評

    議論の手がかりとして、極端に複雑性を縮減した図式を提示することからはじめたい。〈作品(artwork)〉に向き合うときに体験される、〈詩(Poesie, poeticality, poetria)〉との出会い方には、次の二通りのタイプがあるように、私には思われる。 A:脳髄にズカズカと這入りこんでくるように感じられるタイプ B:その門を通ろうとすると、バチンと弾かれ、拒まれたように感じられるタイプ AとBと、どちらが良いとも悪いともいうことはできない。たんに二通りのタイプがある、というだけである。また、個々の作品に帰属される性質についても述べてはいない。あくまでも鑑賞者の体験として、鑑賞者に帰属される知覚の性質について述べている。ここでBは、〈詩〉と出会う前に拒まれているわけだから、いわば出会い損ねているのだが、「出会い損ね」という出会いのタイプもありうるだろう、と私には考えられる。この図

    俳句時評166回 多行俳句時評(7) 出会い損ねる詩(1) 斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2023/05/05
    「詩客」での2023年度連載は「多行俳句時評」を担当します。第一回更新されました。お読みいただければ、嬉しいです。
  • 俳句時評145回 惑星的な俳句について(4)  斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評

    一年間、ひとつのテーマ、ここでは〈惑星的〉というテーマに絞って書くことを、みずからに課したのだが、予想以上に骨が折れる試みであった。予想以上に、アクセス可能な世界は、私が〈惑星的(planetary)〉という言葉を用いて批判しようと考えている諸文脈に覆われていたからだ。すなわち、ドメスティックな文脈、およびその覇権主義的な延長・拡張に過ぎないインターナショナルな(international)文脈、グローバルな(global)文脈である。それらの文脈をシャットアウトしてみると、あたかも俳句などこの世のどこでも書かれてなどいないのではないかと感じられる一年間であった(そして、それはじっさいにそうなのかもしれない)。 論じるべきトピックは無数に残されている。この最終回では、今後私が長く取り組んでゆきたいと考えているトピックに触れておこう。それをひとことでいえば「メタ価値論」とでもなるのだが、あい

    俳句時評145回 惑星的な俳句について(4)  斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2022/02/06
    「詩客」の俳句時評・第4回を書きました。 最終回です。 お読みいただければ嬉しいです!
  • 俳句時評143回 多行俳句時評(2) 木村リュウジ ワレカラを懐にして      丑丸 敬史  - 「詩客」俳句時評

    (1) 言語野の 端(はな)ばかり見て 秋の暮                           木村 リュウジ はらからの そのははからの 波羅蜜多 枯尾花 或る辭失くして 揺れ止まぬ 木村リュウジ。名、木村龍司。1994.8.8〜2021.10.21。突如、木村はこの世を辞した。彼を知る人はまだその事実をしっかりと受け止められずにいる。 掲出三句は、木村がLOTUS 2018年10月句会に寄せた彼の多行形式俳句デビュー作である。以前、「俳句時評 第130回 多行形式俳句(4)月光魚は帷の淵に」に書かせていただいたように、彼はLOTUS同人の酒卷英一郎の三行形式俳句に魅せられて、LOTUS句会に参加して、自らも三行形式俳句を書き始めた。その記念すべき作である。<言語野の>は、この句会における最高点句であった。華々しいデビューである。筆者は句会が開かれる東京から遠方であるため、欠席投句

    俳句時評143回 多行俳句時評(2) 木村リュウジ ワレカラを懐にして      丑丸 敬史  - 「詩客」俳句時評
  • 俳句時評139回 惑星的な俳句について(2) 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評

    前回の記事(「惑星的な俳句について」)で私は「日俳句」を「俳句」のサブ・システムとして位置づけた。機能的に分化した近代の諸社会システムは、セカンド・オーダーの観察(観察を観察すること)のレヴェルにおいて成立しているから、セカンド・オーダーの観察を失った「日俳句」は死んだ。より穏当な表現でいえば脱分化(Entdifferenzierung)してしまった――同じことだが。このように整理してみると、脱分化したサブ・システムが、その結果、上位のシステムに吸収されなかったことは不思議なことである。リビングとダイニングのあいだの壁・間仕切りを取り除くタイプの脱分化ではなく、柱も床もゆっくりと朽ちて、沈んで消滅していったようにみえる。むろん、「不思議な」というのは皮肉で言っているのだが。 今回の記事では、19世紀末から20世紀初頭にかけて俳句に生じたできごとを、レジュメを切るように、箇条書き的に

    俳句時評139回 惑星的な俳句について(2) 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2021/11/03
    「詩客」の俳句時評の第3回が、週末に公開になります。 第2回もよろしくお願いします。
  • 俳句時評135回 惑星的な俳句について 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評

    今年度(2021年度)は全4回の「俳句時評」を依頼されている。私はすでにあちこちで「日俳句は死んだ」と述べているのだし、いまさらドメスティックな文脈を掘り起こしてコメントをする、というスタイルの「時評」には関心もないし、書く気も起こらない。だから、「日俳句」の死後の・それ以降の・「日の」という冠を外した・日の文脈から自由な俳句作品を発掘して、論評したい。そうした作品をさしあたり「惑星的(planetary)」と形容することにする。internationalでもなく、globalでもない。「反グローバリゼーション」の含意をplanetaryにもたせて――敵の概念を上書きする意図で――用いたのはインド出身の文学者ガヤトリ・C・スピヴァクであった。 ここでの私の文脈を明確にするため、これまで断片的に書いてきたことをまとめておこう。たとえば私は昨年、次のように述べた。 「日俳句」は

    俳句時評135回 惑星的な俳句について 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2021/05/08
    俳句時評を書きました。読んで欲しいです。俳句について言えることだけを言っているのではない、と思っています。
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