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ブックマーク / toutankakai.com (3)

  • 漢和辞典に遊ぶ | 塔短歌会

    二年ほど前からちょっとこだわっているテーマ(?)がある。「短歌」二〇一九年十月号の「諸橋さんと遊ぶ」が最初だっただろうか。「諸橋さん」は諸橋徹次のこと。『大漢和辞典』『広漢和辞典』などの編者で漢字研究の第一人者である。その諸橋さんと「遊ぶ」とは、たとえば、 譶(はやくち)に言ふことなかれ誩(あらそ)ひて人に言ふならなほさらのこと わが母校双ヶ岡中学に叕(つづ)り来しかの日の決意に又も叒(したが)ふ といった遊びである。 一首目は、早口で言ってはいけない。人と争う場合なら、なおさらのこと、というほどの意味であるが、もちろん歌の内容の深さに意味があるのではなく、すぐわかるように「言」「誩」「譶」を一首のなかに組み入れつつ、一応意味の通る歌に仕立てた言葉遊びである。 二首目は、「又」が一つから四つまでの漢字を、すべて入れているところがミソである。私の母校の双ヶ岡中学が入っているところにちょっとリ

  • 口語短歌における「辞」の変革 | 塔短歌会

    角川「短歌年鑑」(平成26年版)の特別論考で小高賢「批評の不在」と島田修三「聖域のほとり」がともに永井祐の歌を話題にし、特に小高は永井らの歌が「分からないという声が一方にありつつ、いつのまにか認知されてゆく」現状を危ぶむ。『日の中でたのしく暮らす』刊行からまもなく二年。ささやかな肯定感を求めて生きるナイーブな若者像といった時代論や世代論から語られることの多い歌集だが、私はいったんそこから離れて歌の作りそのものを吟味する必要を感じている。と言うのも、永井の歌の肝はモチーフや時代感覚よりもむしろ辞の部分にあると思うからだ。 かつて菱川善夫は「実感的前衛短歌論—『辞』の変革をめぐって」(『短歌』昭和41年7月号)で、安定した辞の規定力とその余韻のうちに「自己」の詩の充実を目指したのが近代短歌であり、第二芸術論を経て、そうした辞の安定性を拒否することで時代の危機と不安の中から人間の悲劇を見つめよ

  • いま、歌人論にもとめること | 塔短歌会

    「基的歌権」というワードが話題になっている。「心の花」七月号(創刊一二〇年記念号)の記念座談会の中で穂村弘は、ある会で「若い作者の歌」の語法の欠点を指摘したところ、同席していた寺井龍哉に「「今は、歌会とかでは、そういう批評は無しなんですよ」と言われて(…)基的歌権みたいな空気が広がっていて、現にこう書かれていんだからそこには必然性があったという前提があって、歌会の批評はその上でより効果的に読みあうことなんだって言うんですよ。ショックでした」と発言している。穂村の発言のすぐ手前で、斉藤斎藤も「歌会とかで、一首の歌を最大限よく読んであげるのが礼節だ、みたいのが広がり過ぎちゃって、人単位では考えなくなっている」と同様の違和を表明している。「心の花」の座談会よりも先に活字となった「短歌研究」六月号の坂井修一との対談でも斉藤は、穂村の「基的歌権」発言を引きつつ「一首の言葉から作者の「やりたかっ

    hidex7777
    hidex7777 2018/10/04
    こーゆーはなしだったっけか>基本的歌権。
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