タグ

哲学に関するpeketaminのブックマーク (62)

  • 挑め!世紀の難問『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』 - HONZ

    学問においていちばん大事なのは、問題をどう解くかではない。どのような問題を設定するかである【アルキメデス】。 アルキメデスが言ったというのはウソだけど、どういう問いかけをするかが重要というのはホントである。このが問いかけるのは、ドーナツを穴だけ残してべることができるか、という哲学的命題だ。この、まったくどうでもいい問題を聞いておもしろがれるかどうか、で、人類を二分することができる。 この人類にとっての超難問に対して、大阪大学の教員たちが堂々と名乗りをあげた。13名それぞれが専門を武器に立ち向かう真の学際的アプローチだ。なかには、その論考のどこがこの問題に関係しとんねん、と言いたくなるのもないわけではないが、そういった牽強付会というのも学者につきものの性癖なので、がまんしてあげましょう。 そこは気にせず、いくつかのすぐれた論考を紹介しよう。まずは数学者。数学者の思考はやはり違う。 “そも

    挑め!世紀の難問『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』 - HONZ
  • 答える→なんで?を繰り返すと最終的にどんな答えに行き着くのか

    http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1246367601/ ※PCな方はオンをクリックするとそれなりに見やすいと思います 切り替えは右側のカレンダー下の「レスのポップアップ」でもできるです 1 :VIPがお送りします:2009/06/30(火) 22:13:21.78 ID:yjZyM+400 俺今日ベビースターラーメンったんだ 2 :VIPがお送りします:2009/06/30(火) 22:14:00.39 ID:l4sLN2Kw0 why? 3 :VIPがお送りします:2009/06/30(火) 22:16:15.31 ID:yjZyM+400 >>2 腹が減ってたんだ 4 :VIPがお送りします:2009/06/30(火) 22:16:45.64 ID:lf+rOMasO なぜ? 5 :VIPがお送りします:2009/06/

    答える→なんで?を繰り返すと最終的にどんな答えに行き着くのか
  • フリードリヒ・ニーチェ - Wikipedia

    フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツ・プロイセン王国出身の思想家であり古典文献学者。ニイチェと表記する場合も多い。 概要[編集] 現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版、ドイツ語版)に才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離脱して無国籍者であった[1][2]。辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。 なお、ドイツ語では「ニーチェ」(フリードリヒ [ˈfriːdrɪç] ヴィルヘルム [ˈvɪlhɛlm] ニーチェ [ˈniːtʃə])のみならず「ニーツシェ」[ˈn

    フリードリヒ・ニーチェ - Wikipedia
    peketamin
    peketamin 2013/12/31
  • ソクラテス - Wikipedia

    ソクラテス(ソークラテース、英語: Socrates[2]、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs ギリシア語発音: [sɔːkrátɛːs]、紀元前470年頃 – 紀元前399年[3][4])は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である[5][6]。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人[5][6]として認識されている[7][8][9]。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネス(英語版)の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆

    ソクラテス - Wikipedia
  • 止揚 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "止揚" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年10月) 止揚(しよう、ドイツ語: Aufheben, アウフヘーベン)とは、ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいう。 解説[編集] 止揚は、「あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと」「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること」という意味を有する[1]。 ドイツ語の aufheben には、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様の意味があり、ヘーゲルはこの

    peketamin
    peketamin 2013/12/29
    中国と韓国、タイ、ベトナムなど東南アジアの言語版にリンクがない
  • 「反哲学入門」を読んだ - 西尾泰和のはてなダイアリー

    「反哲学入門」を読んだ。 哲学者の著者に編集者が口頭で聞いてまとめた。著者は「同じ内容が何度も出てくる」ことを気にしていたが、編集者に「大事なことが何度も出てくるのは、むしろわかりやすいんじゃないか」と言われて、それもそうか、となったらしい。数学でも似たようなことがあるな。大事なことは何度も書けばいいと思うのに、なぜか同じ内容が1回だけ出現するようにしようと考えて、話の順番に悩んだりする。 まあそれはさておき、このの口頭でまとめられた部分はとても読みやすい。 「どうして存在するのか」っていう哲学上の問いに対して、ざっくり「なる」と「作る」の2つの考え方がある。日も古代のギリシャも、ものごとは自然に生まれ出てきて、そう「なる」ものだと考えられていた。一方、ユダヤ教は「創造主が世界を作った」という思想を持っていた。 ソクラテスは既存のギリシャ哲学の否定を繰り返したが、自身では新しい体系を

    「反哲学入門」を読んだ - 西尾泰和のはてなダイアリー
  • 「それどういう意味?」→「定義は?」→「言語ゲームにより無意味」→「言語は文化が作るもの」→「それどういう意味?」

    レベル1 「それどういう意味?」議論をしているときに、意味を尋ねるという論法がある。 相手の言葉の意味がはっきりと分からないときっちりした議論が進められないからだ。 レベル2 「定義は?」理系にありがちだが、 論理性に自信がある人が使いがち。 定義をきっちりすれば、物事を杓子定規に説明できるはずだと思っている。 レベル3 「言語ゲームにより無意味」言語ゲームという哲学的思考がある。 20世紀哲学の最大の発見だと言われている。 なぜ最大の発見かというと、哲学的な諸問題のかなりの部分を終わらせたからだ。 「人間の生きる意味とは?」 「我ゆえにわれありではないか?」 「神は存在するのか?」 これらすべてに答えを出せる、すごい理論だ。 たとえば、「人間の生きる意味とは?」にたいしては、「生きる意味という言葉自体があいまいで、文化によって言葉の意味がコロコロ変わるからNG、単語の意味が確定してないの

    「それどういう意味?」→「定義は?」→「言語ゲームにより無意味」→「言語は文化が作るもの」→「それどういう意味?」
  • 一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

    「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。 そこまでは正しい。 だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」というを出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、このも20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。

    一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。
  • ひろゆきと「正義」の話をしよう

    「5人を助けるために1人を殺すべき?」「原爆は投下するべきだった?」「遺伝子操作は許されるのか?」 身近でありながら、正解の見えないこれらの問いに、哲学はどのように答えるのか? ハーバード大学で最も人気があると言われる、サンデル教授の「正義論」。日でも『これからの「正義」の話をしよう』のタイトルで有名になったサンデル氏のこの理論を、西村博之氏と小林正弥教授が素朴な疑問を取り上げながら、ざっくばらんに語り合う。 5人と1人、どちらを殺す? ひろゆき:こんばんは、「おいらと正義の話をしよう」ということで、小林先生に来てもらいました~! よろしくお願いします。 小林:こんばんは、よろしくお願いします。 ひ:ということで、大体このサンデル教授が誰かっていうのは説明しなくて大丈夫なんですかね? 小:まーでも、ハーバード大学の政治哲学の担当者、政治哲学の第一人者といって違いないと思います。 ひ:日

    ひろゆきと「正義」の話をしよう
  • ジャック・デリダ『アーカイヴの病』読書メモ―<アーカイヴ>を思想する、その手前で。 - みちくさのみち(旧)

    ※前回前置きで終わってしまった記事の続きです。 原題は”Mal d’archive.”1995年刊行。英訳すると”Archive Fever.” “mal”は「苦痛」。外務省のHPにも咄嗟のフランス語みたいなページがあって、それを見ると、頭痛は” mal de tete”とかあるので、そういうニュアンスのものらしい。Amazonで英訳を見ると、燃え上がる火が表紙に用いられている。 アーカイヴの病 (叢書・ウニベルシタス) 作者: ジャック・デリダ,福 修出版社/メーカー: 法政大学出版局発売日: 2010/11/04メディア: 単行 クリック: 53回この商品を含むブログ (16件) を見る[rakuten:book:12143795:detail] しかし何故デリダが、ということをまず思った。私の貧しい哲学知識を駆使すると、脱構築をキーワードにして、形而上学を批判し、ことばと意味の

    ジャック・デリダ『アーカイヴの病』読書メモ―<アーカイヴ>を思想する、その手前で。 - みちくさのみち(旧)
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    超絶品!死ぬまでに一度はべてほしい煮込み10選 ああ。いかにもインターネット!みたいなタイトルをつけてしまった。 「超絶品!死ぬまでに一度はべてほしい煮込み10選」て。読んでほしすぎて大仰な形容詞をつけて数字を入れて読み手の注意を引くタイトル、もうネット記事まるだしである。 でも、わかってほしい。…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
  • ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人

    の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日人が彼に決まって尋ねた事があります。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日にこなかったのか」ということでした。そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということだった。 つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか・・・・・当時の日人はザビエルにこういう質問を投げかけた。 元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄ですから、ザビエルもそう答えました。すると日人が追求するわけです。 「あなたの信じている神様というのは、ずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか」 ザビエルは困ってしまいまして、国への手紙に次

  • 加賀で哲学を齧ってきた。<西田幾多郎記念哲学館編> - 窪橋パラボラ

    ◆石川県西田幾多郎記念哲学館オフィシャルサイト◆ http://www.nishidatetsugakukan.org/index.htm 「石川県に行くことがあったら、『ニシダキタロウ』の記念館に行きたいんだよねえ」とタカハシが言ったのは数年前。 それを聞いた窪橋の脳裏に浮かんだものを絵にするとこういうことになります。 キタロウ。 時は流れてこんな私も『西田幾多郎』を正しく漢字変換できるようになり、今月、晴れて石川県に遊びに行くことになりました。己の無知をカバーするべく下調べをしていたら、オフィシャルサイトのFAQにこんな箇所を見つけて大いに安堵。 Q.西田幾多郎と西田幾太郎のどちらが正しいのですか? A.よく間違えられますが、西田幾多郎が正しいです。(後略) Q.幾多郎のよみ方は「キタロウ」と「イクタロウ」のどちらが正しいのですか? A.「イクタロウ」とよまれる方もいらっしゃいますが、

    加賀で哲学を齧ってきた。<西田幾多郎記念哲学館編> - 窪橋パラボラ
  • 長文日記

  • ララビアータ:「真理の相対主義」について - livedoor Blog(ブログ)

    倫理的判断に対しては、観点や立場に相対的に主張可能である場合がいかにも有りそうに思われよう(たとえば、ある行動が快楽という観点からは善であるが、不健康という観点からは悪で有り得るなど)。それに対して真理を要求する判断においては、相対主義的主張は普通ずっと難しそうに思われる。以下、真理の相対主義といわれるものに対する私自身のスタンスを、概観しておきたい。 私は、真理を発見(アレーテイア)と見なし、科学的発見を概念の提案とみなす。即ち、科学的命題は、発見に寄与できる限り有用な概念装置であっても、それ自身は真であったり偽であったりするものではないと見る。たしか、トゥールミンもそれに近い考え方をしていたと思う。そこで彼は、「光は直進する」という幾何光学的法則を、普遍的真理というよりは、幾何光学的現象の発見の道具、ないしは説明の図式(作図方法の基礎)として見なすべきだと説明していたはずだ。 アリスト

  • 俺が死ねと言ったなら - 日本経済新聞

    ホンダでエアバッグを開発した小林三郎氏(現在は中央大学 大学院 戦略経営研究科 客員教授、元・ホンダ 経営企画部長)が、ホンダ流のアプローチを紹介しつつイノベーションの質に迫る連載。今回と次回は、ホンダの哲学の2柱の1つである「自律」「信頼」「平等」を柱とする「人間尊重」について解説する。(日経ものづくり編集部)技術研究所は以前、全く業種の異なるA社との間で、研究員の交換留学をやった

    俺が死ねと言ったなら - 日本経済新聞
  • アップルのキャッチコピーがダサすぎることを哲学(しない) - 哲学科に編入してしまった。

    あのね、アレですよ。意味の無いことばかり書くのは良いことです。 Appleの宣伝コピーがとてつもなくダサイことに、最近やっと気がつきました。 コピーはなんとなく見過ごしておった。のですが、このごろなぜかGmailのアカウントにアップルさんのチラシが届く。そのタイトルがみな超絶ダサイ。 「iPadAppleの最先端テクノロジーがひとつになった、驚異的で革命的なデバイス。しかも、信じられない価格で。」 「iPad、新登場。」 「心に響くプレゼント。今年のバレンタインにはiPodを。」 「さあ、母の日。今年はちょっと特別なプレゼントを。」 「まだ間に合う。レーザー刻印とギフト包装したiPodを12月24日までに贈ろう。」 「今すぐ、Apple Storeへ。最高の新年を迎えよう。」 「日限り。厳選したアイテムを、スペシャルプライスで。」 つまり、「短い呼びかけ。妙な台詞。」という形式である。

    アップルのキャッチコピーがダサすぎることを哲学(しない) - 哲学科に編入してしまった。
  • アプリオリ - Wikipedia

    アプリオリ(羅: a priori)とは、「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」という意味で用いられるようになった[1]。 概要[編集] カントにおける「アプリオリ」の概念[編集] 「わたしは何を知ることができるか」「わたしは何をなすべきか」を問い、自然や人間を認識する「理性」(理論理性)の限界を明らかにするために批判哲学を打ち立てた18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、哲学もまた数学や自然科学にならって、必然的で普遍的な思考方法を獲得しなければならないと主張した。そして、そのためには、人間のあらゆる経験から独立して、理性自身が認識のわく組みを決めることができなければならない、とした。これが「

  • 「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評

    どうなるんだろう。 というわけで、ニーチェ「善悪の彼岸・道徳の系譜」の解説です。ニーチェは哲学や政治学をやるのなら必読だと思うのですが、いかんせん文学的な表現が多すぎて何を言っているのかよくわかないと投げ出す人もいるんじゃないですかね。というわけでニーチェの思想で一番使える「相対主義」にしぼって説明します。 通常の哲学とニーチェの哲学の違い 哲学は形而上学とも呼ばれています。メタフィジカルな学問だというのです。つまり物理的・現実的(フィジカル)なことにたいしてどのように人間が取り組むかという、現実(フィジカル)より上位(メタ)の構造・ルールについて研究するのです。たとえば、人間の肉体がどのような仕組みで動いているかというのはフィジカルな話ですが、人間はどのように生きているのか・どう生きるべきなのかというのは、メタフィジカルな話です。 さて、ニーチェがやっているのは通常のメタフィジカルな話で

    「なぜ人を殺してはいけないの?」に、ニーチェがマジレスしたら - 誰が得するんだよこの書評
  • ソーカル事件 - Wikipedia

    ソーカル事件(ソーカルじけん、英: Sokal affair)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル[注釈 1]が、1995年[注釈 2]に現代思想系の学術誌に論文を掲載したことに端を発する事件をさす[1]。 ソーカルはポストモダン思想家の文体をまねて科学用語と数式をちりばめた「無内容な論文」を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったところ、そのまま受理・掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめな内容だったことを暴露し、それを見抜けず掲載した専門家を指弾するとともに、一部のポストモダン思想家が自分の疑似論文と同様に、数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用していると主張した。 論文の発表につづいてソーカルは、フランスのポストモダン思想家を厳しく批判する著作を発表し、社会的に大きな注目を浴びた。 事件の経緯[編集] ソーカル論文の掲載[編集] 1994年、ニュ