タグ

関連タグで絞り込む (2)

タグの絞り込みを解除

正岡子規に関するhidex7777のブックマーク (4)

  • 正岡子規は赤福餅の俳句を詠んだのか?: 正岡子規 病牀六尺の青春

    伊勢土産として有名な赤福。つい先日、包装紙に100年以上に渡って使われてきた正岡子規の「到来の赤福もちや伊勢の春」という俳句に裏付け資料がないと指摘され、店が情報提供を呼びかけているとの報道がありました。 朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASK8S777MK8SPFIB00M.html 気になったので愚陀仏庵の話はお休みして、子規が赤福の句を詠んだのかどうか考えてみました。 赤福では1911(明治44)年から子規の俳句に使っていて「1900(明治33)年、門弟の山勾玉から赤福を土産に受け取った子規が、ありし日の伊勢参りを懐かしんでこの句を詠んだ――。そんなエピソードが創業家で語り継がれ、赤福のホームページでも紹介」していながら、肝心の俳句が子規の作品だとする資料がどこにもないことが分かったというお話です。 「買ひにやりけり春の伊勢旅籠」

    正岡子規は赤福餅の俳句を詠んだのか?: 正岡子規 病牀六尺の青春
    hidex7777
    hidex7777 2017/09/02
    餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠 正岡子規
  • 俳句の日に子規俳句を考えた

    美術の概念を文学に子規の俳句と言えば「写生」のイメージが強いですね。子規の写生論は美術の概念を取り入れたものです。子規が西洋美術の写生、いわゆるスケッチの概念を知ったのは明治27(1894)年。知人の画家中村不折に教わりました。 写生散歩子規は、この年の秋の終わりから冬の初めにかけて、手帳と鉛筆を持って毎日のように根岸郊外を散歩し、句想を得ては手帳に書き付けました。当時のことをこう振り返っています。 「写生的の妙味は此時に始めてわかつた様な心持ちがして毎日得る所の十句二十句位な獲物は平凡な句が多いけれども何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた」(獺祭書屋俳句帖上巻) 写生と俳句の相性の良さを実感した子規は、この概念を核の一つとして俳句革新につなげていきました。俳句で写生の有用性を確認した子規は短歌や文章にも写生の概念を持ち込み、それぞれの近代化を押し進めたのでした。

    俳句の日に子規俳句を考えた
    hidex7777
    hidex7777 2017/08/20
    痰一斗糸瓜の水も間にあはず 正岡子規
  • 元祖野球狂の詩 正岡子規とベースボール①

    夏の甲子園開幕があさってに迫りました。今年も球児の熱い夏が始まりますね。さて正岡子規と言えば野球。よく御存知の方も多いと思いますが、子規を語るには避けて通れないテーマですのでお付き合いください。まずは野球に熱中した子規について書いてみました 日に野球が伝わったのは子規が数えで5歳の明治4年(1871)年。米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成予科で教えたのが始まりとされています。開成予科は後の大学予備門、第一高等中学校の前身で、子規も予備門・一高時代に野球を知りました。年譜や友人の回想などによると明治18~19年のことだったようです。 室内でドタバタ子規と同年生まれで「ほとゝぎす」を創刊した柳原極堂の「友人子規」には次のような一節があります。 学校から帰つて来ると室内を騒ぎ回り、或は手を挙げて高く飛んだり、又は手をさげて低く体を落すなど、いろいろの格好をするので、升さん君は何のまねをするの

    元祖野球狂の詩 正岡子規とベースボール①
  • 正岡子規の最後(1)~ 君が絶筆 ~

    坂の上の雲 > 正岡子規 > 君が絶筆 子規の辞世の句となった糸瓜の三句。その場に居合わせた河東碧梧桐は、当時の様子を次のように回顧している(出典「子規言行録(明治版)」)。 十八日の頃であったか、どうも様子が悪いという知らせに、胸を躍らせながら早速駆けつけた所、丁度枕辺には陸氏令閨と妹君が居られた。予は病人の左側近くへよって「どうかな」というと別に返辞もなく、左手を四五度動かした許りで静かにいつものまま仰向に寝て居る。余り騒々しくしてはわるいであろうと、予は口をつぐんで、そこに坐りながら妹君と、医者のこと薬のこと、今朝は痰が切れないでこまったこと、宮へ痰の切れる薬をとりにやったこと、高浜を呼びにやったかどうかということなど話をして居た時に「高浜も呼びにおやりや」と病人が一言いうた。依って予は直ぐに陸氏の電話口へ往って、高浜に大急ぎで来いというて帰って見ると、妹君は病人の右側で墨を磨って

  • 1