戦争直後の特殊事情があった吉田茂元首相はひとまず置くとして、戦後の歴代首相の中で、在任期間が最も長いのが佐藤栄作、小泉純一郎、中曽根康弘各元首相です。 この3人に共通しているのは、実態にそぐわない栄誉と名声を受け、政治責任を取らないまま、まんまと逃げ切ってしまったと言うことです。 たとえば、佐藤栄作氏は首相退任後の1974年に非核三原則を日本に確立したことを主な理由にノーベル平和賞を受賞していますが、日米両政府に核持ち込み密約があり、沖縄返還が核付きのものであったことは今ではよく知られた事実です。 佐藤元首相がノーベル平和賞を受賞したのは、時あたかも、佐藤氏の愛弟子田中角栄首相のロッキード疑惑が持ち上がり始めたときでしたが、佐藤氏自身、自民党幹事長時代に造船疑獄があったにもかかわらず、犬養法務大臣による検事総長への指揮権発動で起訴を逃げ切った過去がありました。 そんな佐藤氏が首相になること
【ニュース】 バリックパパンの日本海軍322基地に「設営班慰安所」 1942年3月11日、中曽根康弘主計中尉の「取計(とりはからい)」で開設 防衛省防衛研究所所蔵の文書に記述 高知市の平和・資料館の調査で判明 (つづきあり。「設営班慰安所」の地図です)。 中曽根康弘海軍主計中尉がアジア太平洋戦争中に「外地」で海軍の慰安所を取りはからったとして各方面が追求してきました(本人は、いわゆる「慰安所」ではないと否定してきました)。高知市升形9の11の平和資料館・草の家は、防衛省防衛研究所に、その問題に関連した資料があることをつきとめ、10月27日午前、その文書の内容を同館ホールでの記者会見で報告しました。その文書は、ボルネオ島バリックパパンの日本海軍322基地に海軍の「設営班慰安所」があったこと、それは、中曽根康弘主計中尉の「取計(とりはからい)」で「土人女を集め」、1942年3月11日に開設
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中曽根康弘元首相が、戦時中に慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省の公開している文書の中から見つかったと、高知市の平和団体が27日、高知市内で発表しました。 明らかにしたのは、高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」の岡村正弘館長や馴田正満研究員(63)ら。 今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。 資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上
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