タグ

社会と表現に関するobsvのブックマーク (9)

  • 小・中学生の女子はなぜ「うち」という一人称を使うのか? その深すぎる理由(中村 桃子) @gendai_biz

    「ことば」と「自分らしさ」 筆者は「社会言語学」を専門に研究してきた。この分野は、ことばの社会的な側面に注目するが、ここでは、ことばを使って私たちは「自分らしさ」をどのように表現しているのかという問題を取り上げよう。 「ことば」には情報を伝えるという重要な役割があるが、それと同時に、会話に関わっている人同士の関係やイメージも伝えている。 最も分かりやすい「人称詞」の例で言えば、自分を「わたし」と呼ぶか「ぼく」と呼ぶかで、話し手のイメージは変わってくる。また、聞き手を「○○さん」と呼ぶか、「○○」と呼び捨てにするかで、話し手と聞き手の関係も変わる。さらに、会話に登場した人を、「あの人」と呼ぶか「あいつ」と呼ぶかで、その登場した人の印象も変わる。 つまり「ことば」には、自分はどんな人間なのか、聞き手とどんな関係にあるのか、また、話題に上がっている人をどう思っているのかなどを伝える働きもあるのだ

    小・中学生の女子はなぜ「うち」という一人称を使うのか? その深すぎる理由(中村 桃子) @gendai_biz
    obsv
    obsv 2021/05/11
    Iとyouしかない英語のような言語なら、一人称で自己実現するという発想そのものが無くなるのだろうか?
  • トラルファマドール人が見た日本 - bluelines

    大学で言語学を教えています。入門の授業で、「ことばとこころを巡るヨタ話の一類型」として、次の文章を配っています。 題は「トラルファマドール人が見た日」。僕が適当にでっち上げた文章です。 わたしはこの度、極東の島々に住む『ニポンジン』という風変わりな民族の調査を行った。この調査を通じて明らかになったのは、我々が当然のように共有している基的な知覚すら与えられていない人々が居るということである。ニポンジンの話すニポンゴは、知覚を表現する語彙が驚くほど貧弱である。これはとりもなおさず、我々にとっては当然の知覚的区分が、彼らには同一の体験として受容されていることを示す。 例えばニポンジンは、『味』を極端に大雑把にしか分類しない。彼らの味覚に関する語彙は、『アマイ』『カライ』『ショッパイ』『ニガイ』の四種類しかない。信じられるだろうか?彼らはチョコレートをべても、真っ赤に熟したイチゴをべても、

    トラルファマドール人が見た日本 - bluelines
    obsv
    obsv 2020/08/21
    “「人はこの手のヨタ話が大好き」ということだと思います。「世界の果ての民族のことばとこころは、我々とこんなに違っている」というストーリーは、どうしようもなく人の心を掴むようなのです。”
  • 検閲は、アートから何も奪えない:「あいちトリエンナーレ」を巡る議論と、ふたつの“自由”の衝突

    obsv
    obsv 2019/10/04
    “ひとつは表現の自由、もうひとつはそれを批判する自由だ。このふたつの“自由”は、どこまでがフェアかという線引きが予め存在するものではない。両者が衝突しながら線を引くのはいわば宿命づけられている。”
  • 「やせがまん」できなくなった社会―あいちトリエンナーレ問題を考える - 山猫日記

    あいちトリエンナーレ問題 過去1週間ほど、愛知トリエンナーレをめぐる問題がマスコミやSNSを賑わせています。多くの識者が発言をしているところですが、極々簡単に出来事の時系列を振り返っておきましょう。 話題になったのは、「表現の不自由」と名付けられ、過去数年の間に公共の美術展から排除された展示を集めた企画展でした。その中に、慰安婦像を髣髴とさせる作品、昭和天皇の御影を焼くという作品が含まれていたことで、反発が広がります。展示に対しては、一般国民から多くの抗議があったほか、河村名古屋市長をはじめとする政治側から企画の中止を求める具体的な要求もありました。結果的には、総責任者である大村知事の判断で、抗議の一部に観客やスタッフの安全を害する可能性があるものが含まれていたことを主な理由として、展示そのものを中止することとなりました。 一連の問題は、確かに多くの論点を含んでいます。中心にあるのは、表現

    「やせがまん」できなくなった社会―あいちトリエンナーレ問題を考える - 山猫日記
    obsv
    obsv 2019/08/08
    かつて政治は胆力とバランス感のあるエリートの手の内にあったが、情報革命により大衆化された結果、個々人が剥き出しの自由を行使して誰にも制御できない時代が来てしまったと言える。民主主義の自家中毒だ。
  • 江川紹子が【『表現の不自由展』中止問題】を考察…言論・表現の自由を後退させないためには

    「表現の不自由展・その後」に展示されていた少女像(写真:YONHAP NEWS/アフロ) 「私はあなたの意見に賛同しない。しかし、あなたがその意見を主張する自由は、命がけで守りたい」 言論・表現の自由とは何かを的確に言い表した名句を、今こそかみしめ、実践しなければならない。そんな気持ちでこの稿を書き始めたら、残念なニュースが飛び込んできた。 愛知県美術館などで行われている美術展「あいちトリエンナーレ2019」で、戦争中の慰安婦を象徴する少女像などを展示した企画展「表現の不自由展・その後」が、抗議の電話やメールが大量に寄せられ、中止を発表した。 今回は、この問題の質はなんなのか、を考えたい。それは稿の中盤から展開する。 「公金イベント」をめぐる的外れな批判 その前に言っておきたいのは、主催者への抗議のなかに、「撤去しなければガソリン携行缶を持ってお邪魔する」と、京都アニメーションの事件

    江川紹子が【『表現の不自由展』中止問題】を考察…言論・表現の自由を後退させないためには
    obsv
    obsv 2019/08/08
    “言論・表現の自由をこれ以上後退させずに守っていく”為に“自分の思いに忠実であることをよしとしてきた社会の風潮”を問題視し“「怒れる個々の人々」の感情が電話で押し寄せる”ことを制限するのは独裁への道。
  • 岐阜大が国歌斉唱しない方針 馳文科相「恥ずかしい」:朝日新聞デジタル

    馳浩文部科学相は21日、金沢市で記者団に、岐阜大学の森脇久隆学長が卒業式などで国歌「君が代」を斉唱しない方針を示したことについて、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べた。 卒業式や入学式での国歌斉唱は昨年6月、当時の下村博文・文科相が全国の国立大学長らに要請していた。岐阜大は前身の旧制学校の校歌を式で斉唱しており、森脇学長は今月17日の定例記者会見の質疑で、これまで通りの方針で臨む考えを示していた。 馳氏は21日、金沢市内での講演で「岐阜大学の学長が国歌を斉唱しないと記者会見した」と指摘。その後、記者団に「(下村氏の要請は)大学の自主的な活動についてああしろ、こうしろと言うものでもない。学長が(斉唱しないことに)言及することはちょっと恥ずかしい」と語った。

    岐阜大が国歌斉唱しない方針 馳文科相「恥ずかしい」:朝日新聞デジタル
  • 仏風刺週刊紙テロ事件――言論・表現の自由の行方は

    フランスの風刺週刊紙「シャルリ・エブド」で、1月7日、まさかと思う事態が発生した。編集会議の最中に、覆面姿の武装した男性たちが「アラー、アクバル」(「(イスラム教の)神は偉大なり」)と叫んで押し入り、編集長、風刺画家などを殺害したのである。引き継いで発生した別の実行犯による銃殺事件を含めると、合計17人が亡くなった。オランド仏大統領は一連の事件を「テロ」と断定。フランスにとって過去50年で最悪のテロ事件となった。

    仏風刺週刊紙テロ事件――言論・表現の自由の行方は
  • 「了解」は失礼か? - アスペ日記

    最近、「了解」は失礼だという説が出てきているようです。 どこの誰が言い出したのか知りませんが、ごく最近であることは確かです。 少し前のマナーには、そんなことは書いてありません。 たとえば、2003年のこれだけは知っておきたい! 改訂版 ビジネス・マナーハンドブックには、次のようにあります。 しかしそうしたルールができていない社外の人からのメールを受信したときには、「メール、受けとりました」「その件、了解しました」など、簡単でよいからすぐに返信し、… また、2005年の「こんなことも知らないの? 大人のマナー常識513」というマナーには、次のような記述があります。 内容に疑問のあるときにはその点を記して送信しますが、そうでなければ「メール拝見しました。○○の件は了解しました」などと簡単な返信でかまいません。 しかし、2008年の「信頼される社会人へのパスポート敬語検定」*1には、次のよう

    「了解」は失礼か? - アスペ日記
    obsv
    obsv 2014/02/09
    なんか、この手の言葉遣いのマナーって、コンサルが勝手に違反認定してマナー講習のネタを作るマッチポンプじゃないかとさえ思えてくるわ。
  • 1