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haikuとcritiqueに関するhidex7777のブックマーク (23)

  • 俳句短歌『We』第16号より「短詩グラマトロジー」第十回:数装法 斎藤秀雄 - 続・知青の丘

    短詩グラマトロジー 第十回:数装法             斎藤 秀雄 簡単に定義するなら「数の魔性を詩性に利用すること」となるだろうか。中村明は《数字に関連したことばを文章中にちりばめる修辞技法》(『日語の文体・レトリック辞典』、東京堂出版)と定義する。これが修辞となりうるのは、《その模様と表面上の意味とで濃淡二重のイメージを仕掛ける》ことになるからだ(同前、「類装法」の項目。数装法は類装法の一種とされる)。たしかに数には数としての意味(何個、何ヶ月目、等)と、視覚的模様がある。 映画『マトリックス』では、主人公ネオの住居の部屋番号は101。これは、のちに自分がThe One(救世主)であると知ることの暗示であり(NeoがそもそもOneのアナグラムである)、世界がプログラムされたMatrixという仮想現実であることの暗示であり(二進法)、またオーウェル『一九八四年』に登場する拷問・洗脳

    俳句短歌『We』第16号より「短詩グラマトロジー」第十回:数装法 斎藤秀雄 - 続・知青の丘
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    hidex7777 2023/12/08
    『We』16号より、拙稿「短詩グラマトロジー 第10回:数装法」を掲載していただきました。早いもので、連載の10回目でした。
  • 俳句時評166回 多行俳句時評(7) 出会い損ねる詩(1) 斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評

    議論の手がかりとして、極端に複雑性を縮減した図式を提示することからはじめたい。〈作品(artwork)〉に向き合うときに体験される、〈詩(Poesie, poeticality, poetria)〉との出会い方には、次の二通りのタイプがあるように、私には思われる。 A:脳髄にズカズカと這入りこんでくるように感じられるタイプ B:その門を通ろうとすると、バチンと弾かれ、拒まれたように感じられるタイプ AとBと、どちらが良いとも悪いともいうことはできない。たんに二通りのタイプがある、というだけである。また、個々の作品に帰属される性質についても述べてはいない。あくまでも鑑賞者の体験として、鑑賞者に帰属される知覚の性質について述べている。ここでBは、〈詩〉と出会う前に拒まれているわけだから、いわば出会い損ねているのだが、「出会い損ね」という出会いのタイプもありうるだろう、と私には考えられる。この図

    俳句時評166回 多行俳句時評(7) 出会い損ねる詩(1) 斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2023/05/05
    「詩客」での2023年度連載は「多行俳句時評」を担当します。第一回更新されました。お読みいただければ、嬉しいです。
  • 星老いる日の大蛤を生みぬ 三枝桂子【季語=蛤(春)】 | セクト・ポクリット

    ハイクノミカタ 星老いる日の大蛤を生みぬ 三枝桂子【季語=蛤(春)】 2022/4/26 ハイクノミカタ, マンスリーゲスト 「LOTUS」, 「らん」, 「未定」, ぬ, の, を, 三枝桂子, 九堂夜想, 大蛤, 日, 星, 消極的受容力, 清水径子, 生む, 老いる, 鳴戸奈菜 星老いる日の大蛤を生みぬ) 三枝桂子 ) 「ネガティヴ・ケイパビリティNegative capability」とは、英国ロマン派の夭折詩人ジョン・キーツが弟宛に送った手紙の一節にある言葉で、一般に「消極的受容力」などと訳されるが、その意は「不確実なものや未解決のものを受容する能力」または「答えの出ない事態に耐える力」ということである。 特に文学において、人に偉業を成し遂げしむるもの、かのシェイクスピアが桁外れに有していたもの―それが消極的受容力(ネガティヴ・ケイパビリティ)。短気に事実や理由を求めることなく

    星老いる日の大蛤を生みぬ 三枝桂子【季語=蛤(春)】 | セクト・ポクリット
  • 水鳥の和音に還る手毬唄 吉村毬子 | セクト・ポクリット

    ハイクノミカタ 水鳥の和音に還る手毬唄 吉村毬子 2022/4/19 ハイクノミカタ, マンスリーゲスト 「LOTUS」, 「未定」, に, の, 九堂夜想, 吉村毬子, 和音, 手毬唄, 水鳥, 還る 水鳥の和音に還る手毬唄) 吉村毬子 (『手毬唄』)) 吉村毬子さん、貴女が泉下の俳句國へ赴いてから早五年が過ぎました。その間、貴女が遺した唯一の句集『手毬唄』を時折り繙いては、同じ「LOTUS」同人として、そして束の間ながら生活のパートナーとして共に歩んだ日々を懐かしく思い返したりしたものです。先日も夜遅くに詩歌書のならぶ書棚を整理しながら、何気なく手にした貴著につい読みふけり夜明けを迎えたなどということがありました。貴女の生前に『手毬唄』の感想をじかに述べなかったことに他意はなく、しかし、一時のすれ違いが結果的に永遠の別れになってしまったのはやはり遺憾で、今でも何かしら言いそびれたままに

    水鳥の和音に還る手毬唄 吉村毬子 | セクト・ポクリット
  • 「一行という多行」補遺(『LOTUS』49号) - orangeProse別館

    『LOTUS』49号(2022年2月)が届きました。特集は「多行形式の論理と実践〔評論篇2〕」。これは 『LOTUS』47号(2020年12月)「多行形式の論理と実践〔作品篇〕」 『LOTUS』48号(2021年8月)「多行形式の論理と実践〔評論篇1〕」 に続くもので、多行三部作をなすものです。 私は未補さんとの対談形式で「一行という多行」なる記事を寄せています(未補さんは47号に作品を寄せています)。 ところで、この「一行という多行」という対談の冒頭は、こうなっています。 未補 高柳重信は、《多行表記は、俳句形式の質が多行発想にあることを、身にしみて自覚しようとする決意の現われである》(「批評と助言」『俳句評論』昭和四四年七月)と述べています。私には、重信が言おうとしていることの意味が正直よく分からなかったのですが……。斎藤さんは《俳句形式の質が多行発想にある》という意味をどう考えま

    「一行という多行」補遺(『LOTUS』49号) - orangeProse別館
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    hidex7777 2022/03/23
    『LOTUS』49号に寄せた対談「一行という多行」の補足情報を書きました。本誌と合わせてぜひ。
  • 俳句時評145回 惑星的な俳句について(4)  斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評

    一年間、ひとつのテーマ、ここでは〈惑星的〉というテーマに絞って書くことを、みずからに課したのだが、予想以上に骨が折れる試みであった。予想以上に、アクセス可能な世界は、私が〈惑星的(planetary)〉という言葉を用いて批判しようと考えている諸文脈に覆われていたからだ。すなわち、ドメスティックな文脈、およびその覇権主義的な延長・拡張に過ぎないインターナショナルな(international)文脈、グローバルな(global)文脈である。それらの文脈をシャットアウトしてみると、あたかも俳句などこの世のどこでも書かれてなどいないのではないかと感じられる一年間であった(そして、それはじっさいにそうなのかもしれない)。 論じるべきトピックは無数に残されている。この最終回では、今後私が長く取り組んでゆきたいと考えているトピックに触れておこう。それをひとことでいえば「メタ価値論」とでもなるのだが、あい

    俳句時評145回 惑星的な俳句について(4)  斎藤 秀雄  - 「詩客」俳句時評
    hidex7777
    hidex7777 2022/02/06
    「詩客」の俳句時評・第4回を書きました。 最終回です。 お読みいただければ嬉しいです!
  • 俳句時評143回 多行俳句時評(2) 木村リュウジ ワレカラを懐にして      丑丸 敬史  - 「詩客」俳句時評

    (1) 言語野の 端(はな)ばかり見て 秋の暮                           木村 リュウジ はらからの そのははからの 波羅蜜多 枯尾花 或る辭失くして 揺れ止まぬ 木村リュウジ。名、木村龍司。1994.8.8〜2021.10.21。突如、木村はこの世を辞した。彼を知る人はまだその事実をしっかりと受け止められずにいる。 掲出三句は、木村がLOTUS 2018年10月句会に寄せた彼の多行形式俳句デビュー作である。以前、「俳句時評 第130回 多行形式俳句(4)月光魚は帷の淵に」に書かせていただいたように、彼はLOTUS同人の酒卷英一郎の三行形式俳句に魅せられて、LOTUS句会に参加して、自らも三行形式俳句を書き始めた。その記念すべき作である。<言語野の>は、この句会における最高点句であった。華々しいデビューである。筆者は句会が開かれる東京から遠方であるため、欠席投句

    俳句時評143回 多行俳句時評(2) 木村リュウジ ワレカラを懐にして      丑丸 敬史  - 「詩客」俳句時評
  • 俳句時評139回 惑星的な俳句について(2) 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評

    前回の記事(「惑星的な俳句について」)で私は「日俳句」を「俳句」のサブ・システムとして位置づけた。機能的に分化した近代の諸社会システムは、セカンド・オーダーの観察(観察を観察すること)のレヴェルにおいて成立しているから、セカンド・オーダーの観察を失った「日俳句」は死んだ。より穏当な表現でいえば脱分化(Entdifferenzierung)してしまった――同じことだが。このように整理してみると、脱分化したサブ・システムが、その結果、上位のシステムに吸収されなかったことは不思議なことである。リビングとダイニングのあいだの壁・間仕切りを取り除くタイプの脱分化ではなく、柱も床もゆっくりと朽ちて、沈んで消滅していったようにみえる。むろん、「不思議な」というのは皮肉で言っているのだが。 今回の記事では、19世紀末から20世紀初頭にかけて俳句に生じたできごとを、レジュメを切るように、箇条書き的に

    俳句時評139回 惑星的な俳句について(2) 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2021/11/03
    「詩客」の俳句時評の第3回が、週末に公開になります。 第2回もよろしくお願いします。
  • 俳句時評135回 惑星的な俳句について 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評

    今年度(2021年度)は全4回の「俳句時評」を依頼されている。私はすでにあちこちで「日俳句は死んだ」と述べているのだし、いまさらドメスティックな文脈を掘り起こしてコメントをする、というスタイルの「時評」には関心もないし、書く気も起こらない。だから、「日俳句」の死後の・それ以降の・「日の」という冠を外した・日の文脈から自由な俳句作品を発掘して、論評したい。そうした作品をさしあたり「惑星的(planetary)」と形容することにする。internationalでもなく、globalでもない。「反グローバリゼーション」の含意をplanetaryにもたせて――敵の概念を上書きする意図で――用いたのはインド出身の文学者ガヤトリ・C・スピヴァクであった。 ここでの私の文脈を明確にするため、これまで断片的に書いてきたことをまとめておこう。たとえば私は昨年、次のように述べた。 「日俳句」は

    俳句時評135回 惑星的な俳句について 斎藤 秀雄 - 「詩客」俳句時評
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    hidex7777 2021/05/08
    俳句時評を書きました。読んで欲しいです。俳句について言えることだけを言っているのではない、と思っています。
  • 後記+プロフィール665

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    hidex7777 2020/10/24
    「作中主体」
  • 樹の灰、名の灰 斎藤秀雄を読む 竹岡一郎

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    hidex7777 2020/08/16
    竹岡一郎さんが評論をかいてくださった。「名の灰」を書く前に、「名の影」という俳句連作を書いていたことを、知った(思い出せてはいない)。なんと。
  • 高田獄舎「瘴気の子」を読む 竹岡一郎 (『We』9号より) - 続・知青の丘

    「瘴気の子」から、五句挙げてみた。皮肉、嫌悪、嘲笑の句だが、言葉の結びつきは緊密である。ごつごつした細い鉄の、彫像というにはあまりに惨いものが佇んでいる。 しかし、世界が惨くなかったことなど一度も無かった。ならば、これらの句が、昆虫の複眼のような視点から描いた客観写生でない、と言い得る俳人はいるだろうか。 これらの句を一々解析しようとすると、その悪意に疲れる。疲れる、とは誉め言葉だ。これらの惨さと悪意の発するエネルギーを只満喫すればよいと思う。堪能するに足る緊迫感を蔵している事は、誰にも否定できまい。しかし、どうしても解析したくなる句はある。次に試みよう。

    高田獄舎「瘴気の子」を読む 竹岡一郎 (『We』9号より) - 続・知青の丘
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    hidex7777 2020/03/21
    全文読める!
  • 春の夜の歪んでなほされぬ陰部  斎藤秀雄 - 続・知青の丘

    陰部とは、何か? 触れたがらぬ大切なものであろうか。触れたいのに触れない、だが、触れずには済ませられない。こういうやっかいなものにより人間は生かされている。 安倍公房に『鞄』という小品がある。半年前の求人広告をもち、「私」の事務所へ就職面接に来た青年、鞄に導かれて来たという。その、赤ん坊の死体なら三つ位入りそうな鞄に惹かれて青年を採用する。その重さに惹かれ鞄を抱え、所長の「私」も青年のようにさ迷いだすという話。

    春の夜の歪んでなほされぬ陰部  斎藤秀雄 - 続・知青の丘
  • 俳論広場 - 現代俳句協会

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    hidex7777 2019/04/10
    “川名大を忘れる、ためのガイダンス 外山 一機 ”
  • 【加藤知子句集『櫨の実の混沌より始む』】――定型なんて、知ったふり - orangeProse別館

    同人誌『We』第6号〔2018年9月発行〕に掲載された評論文です。掲載時タイトル:斎藤秀雄「定型なんて、知ったふり――加藤知子の俳句」) 加藤知子さんの句を読むとき、どうしても「定型とは何か」ということを考えてしまう。精確には「定型は読みの実践においてどのように機能しているのか」という問題を。 加藤作品に、通奏低音ならぬ通奏打撃音として鳴り響いているのは、跳ね回る爽快なリズムであることは、多くの読者が認めるところだと思う。たとえば第一句集『アダムとイヴの羽音』から引いてみよう。 五月の青年まぶしき葬儀場 柚子の実もいだどこまでも空が明るい 寒椿ふたつ掌にあるたっぷりひとり 怒る男春雷のように咬めり いずれも、一般的な俳句の用語で言うならば「破調」と呼ばれるものだ。つまり一般的に「お約束」とされている「俳句は五七五」というルールを破っているのだが、ここに挙げた句には、「破調」ということばに

    【加藤知子句集『櫨の実の混沌より始む』】――定型なんて、知ったふり - orangeProse別館
    hidex7777
    hidex7777 2019/03/29
    昨年の『We』第6号に掲載した拙稿です。
  • 「前衛俳句」の定義の必要についての覚書 神野紗希

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    hidex7777 2019/02/26
    「前衛」については佐々木健一『美学辞典』223-4頁などを。
  • 商売上手な「ネオ・ナツ」たち あるいは 俳人どもによる信者獲得競争の狂乱がもたらす予期せぬ地獄 - 雑

    [商売上手な「ネオ・ナツ」たち あるいは 俳人どもによる信者獲得競争の狂乱がもたらす予期せぬ地獄] ・ ・ ・ 〈滅亡のなかにあつて滅亡を知らざるもの、「終末の日」にあつて終末を見ざるもの、このやうなひとびとの狂乱の群をはなれて、ひとり燈の下に坐するとき、宇宙論的な虚無の感覚は、わたくしの皮膚のうへにしづかに露を結ぶのである。〉 (荒正人「終末の日」『第二の青春・負け犬』冨山房百科文庫) ・ ・ ・ 滅亡のなかにあって滅亡を知らざるもの、「終末の日」にあって終末を見ざるもの。荒正人が直面していたものはさておき、この文章を読んだときに頭に浮かぶのは、何人かの俳人の、極めて健康的な印象をこちらに与えるピンク色の形相である。 先週、「風土」への幼児退行をみせる北海道俳句協会会長の源鬼彦ら、〈地方〉俳人とその奴隷根性を批判したが、視点を地方からさらに、「俳句珍空間」と呼ぶべき状況にある、俳句界全体

    hidex7777
    hidex7777 2019/02/16
    なんで虚子システムがこうも反復回帰するかというと、(俳句だけじゃないけど)「詠み」ばかり洗練されて「読み」が進歩してないからだと目星をつけている。ワイは。
  • 日本ペンクラブ電子文藝館

  • +PLUS | 俳句結社「炎環」

    穂村 いま時代全体の趨勢として、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。ベストセラーは非常に平べったい、共感できるものばかりでしょう。以前は小説でも、平べったい現実に対する嫌悪感があったから、難解で驚異を感じる、シュールでエッジのかかったものを若者が求めていた。でも今は若者たちも打ちのめされているから、平べったい共感に流れるのかな。 長嶋(※) 打ちのめされているのか(笑)。 穂村 すると、詩歌にあるような、言葉と言葉同士が響きあう衝撃みたいなもの、俳句でいうと切れになるような感覚は、圧倒的に読みにくいという話になりますよね。 (「どうして書くの?」穂村弘 対談集(筑摩書房)) ※長嶋有(作家・エッセイスト・俳人) 書によれば、この対談は2005年のものらしいが、穂村弘の分析は鋭く、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」へ

    +PLUS | 俳句結社「炎環」
  • 本の記事 : 俳句で触れられる現実、探って 関悦史、句集と評論集 - 小川雪 | BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト