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コミュニケーションとごもっともに関するobsvのブックマーク (8)

  • 「アベ政治を許さない」に感じる違和感 - 読む国会

    www.asahi.com 金子兜太さんが書かれた「アベ政治を許さない」という文字は、様々なところで用いられ、未だに政治的なプロテストの場ではよく使われている。 その成立の経緯については充分に理解しているし、敬意を払いたい。 しかし、私は、「アベ政治を許さない」という言葉、あるいはそれを用いた政治的なパフォーマンスには、ずっと違和感を覚えている。 安保法制強行採決のあとから、度々駅に「スタンディング」という形で無言でボードを持っている人がいたが、率直にいえば、黙ってそのボードを持っている人を見ると、怖い、とすら思う。 先日、私のつぶやいた内容を巡って様々なご意見をいただき、改めてなぜ「アベ政治を許さない」というボード、あるいはメッセージに対して違和感を感じるのかを考えた。 そこにあるのはむき出しの怒りだけ もちろん、このブログを見ていただいている人ならおわかりの通り、私は安倍政権の国会運営

    「アベ政治を許さない」に感じる違和感 - 読む国会
    obsv
    obsv 2018/09/24
    “自らを保守と規定する人たちに対して、丁寧に安倍総理の問題点を説明していくことこそ、政治活動であり、政治的なパフォーマンスとして有効足り得るのではないか”
  • 『頭がいい人=話し上手な人 ??』

    「頭がいい人」というと、「話が面白い人」とか、「論理的に話ができる人」とか、そういう風に答える人が多いと思います。 でも、僕が思うには、これは非常に語弊があります。 なぜなら、彼らの多くは、「頭が良い」というよりも「口が良い」と言った方が早いからです。 「頭がいい」と聞かれて、なぜ「話が・・・」という議論になるのでしょう。 これは雄弁術に長けてるか否かの話であって、古代ギリシアの哲学観で言うところの、ソフィスト的見解です。 ソフィストは、多少の議論の余地はあれど、政治ポストに任用されんがために、巧みな話術で説得して指導者を説得して自論を売り込んだ連中のことを言うのが通説です。 ですが、その面だけを取ってソフィストを「賢者だ」と言う主張は、なかなかされがたいものです。 つまるところ、人間というのは「話が上手い」ことだけで「頭の良さ」を相対化して測ることなど不可能なのではないでしょうか。 僕は

    『頭がいい人=話し上手な人 ??』
  • 「コミュニケーション能力」を要求するディスコミュニケーション社会 - 雪見、月見、花見。

    「コミュニケーション能力」と十把一絡げに捉えることの弊害 - 脱社畜ブログ や そもそもコミュニケーション能力ってなによ - 24時間残念営業 を拝見しまして。 私も以前から「コミュニケーション能力??」と思っておりまして、そんなの要求するのってどうなの、というお二人のご意見にとっても共感しています。 特に24時間営業さんは「コミュニケーション能力」の正体って何だろうってところを考えられていましたが、確かにこんなに世の中で言われているのに「コミュニケーション能力」って一体全体なんなのかよく分からないんですよね。 ただ、私なりに解釈らしきものがありますので、今回はこの「コミュニケーション能力」とやらについてちょっとボーッと考えていきたいと思います。 ◆ 「コミュニケーション能力」を基準に人を選ぼうというぐらいですから、この能力には高い、低いがあるという前提があるはずです。 一般的には「難しい

    「コミュニケーション能力」を要求するディスコミュニケーション社会 - 雪見、月見、花見。
    obsv
    obsv 2014/06/28
    個性が大事とか人と違うことをしろ等の説教やアドバイスが世の中に溢れているが、真に受けると孤立する。「みんなと同じことが少し上手い」程度が良い。
  • 子供の頃ゲームで遊ばなかったせいでオッサンになってもこの先もずっと寂しい思いをする

    同世代のレトロゲー話題の盛り上がり方は異常。 子供の頃、あんなのが余程楽しかったんだね。オッサンオバサンになった今でも、あの頃のゲームの曲をライブで演奏してる連中などもいて、生き生きしてる。 一見くだらない(俺はくだらないと思ってないけど)ものでも、娯楽って必要なんだね。 想い出となったり、一生尾を引くみたいだから、子を持つ親はよく考えたほうがいいな。

    子供の頃ゲームで遊ばなかったせいでオッサンになってもこの先もずっと寂しい思いをする
    obsv
    obsv 2014/05/18
    私も同じような環境で育ったからわかる。ゲーム、音楽、テレビ全てで会話が成立せず、それを楽しむ感覚も培われてないので猛烈な場違い感に苦しんだな。更に知らないことを奇異の目で見られるのが輪をかけて辛い。
  • おおぞらはおまえのもの 排他的コミュニケーション能力と博愛的コミュニケーション能力の違いについて

    ドラクエ考察を一回お休みして。 ■シロクマの屑籠: コミュニケーション能力がボトルネックとなった社会 突然ですが、「コミュニケーション能力」って2種類あるんじゃないかと思うのです。 ひとつは、 で、この両者は一見似ているように見えるけど決定的に違っていて、前者は「排他的コミュニケーション能力」、後者は「博愛的コミュニケーション能力」と呼んでもいいぐらいの差があると思っています。 そして上記のリンク先で危惧されている「コミュニケーション能力がボトルネックになる世界」とか、その元エントリで言われている「人とつながる能力」とか、ピース又吉さんが感じている「人とつながらない者、人間にあらず」というのは、基的に前者の「排他的コミュニケーション能力」の方を前提としたものではないかと思います。 わかりやすい例で言えば、体育会系のサークルとか部活動とかで求められるのはまさにこの「排他的コミュニケーション

  • コミュニケーション能力とは何か? - 内田樹の研究室

    土木学会というところから「コミュニケーション能力について」の寄稿を頼まれた。 9月に書いて送稿したものが活字になって今日届いた。 学会誌なので、一般読者の目に触れる機会はないと思うので、そこに書いたものを採録しておく。 「コミュニケーション能力」とは何か 就活している学生が「これからはもっとも重視されるのはコミュニケーション能力だそうです」と言うので、「うん、そうだね」と頷きながらも、この子は「コミュニケーション能力」ということの意味をどう考えているのかなとちょっと不安になった。 たぶん「自分の意見をはっきり言う」とか「目をきらきらさせて人の話を聞く」とか、そういう事態をぼんやり想像しているのだろうと思う。 もちろん、それで間違っているわけではない。でも、どうしたら「そういうこと」が可能になるかについてはいささか込み入った話になる。 例えば、どれほど「はっきり」発語しても、まったく言葉が人

    obsv
    obsv 2013/12/30
    「communicationとは異質間対話であり、コミュニケーションとは同質間対話である」とは前から考えていたのだが、さすがは深い考察をなさる。だが、問題は日本社会は基層でそう言うものを求めていなさそうなところだ。
  • 「コミュニケーション能力」への誤解が生む悲劇とは?

    毎日新聞の電子版に、湯浅誠氏のインタビュー記事が出ていました。タイトルは「『学力のすすめ、資格で自己防衛を』というものです。私は湯浅氏の活動姿勢には誠実なものがあるし、活動を通じて得た現状認識をベースにした問題提起には、注目すべきだと思っています。ですが、この記事、特に以下の部分には引っかかるものを感じたのも事実です。 「(前略)これまで日の社会では、学校で点数をとる勉強をしていれば、卒業式が終わると自動的に企業が引き継いでくれて、社会人として一から育ててもらえた。『パイプライン』がつながっていたんですが、そこに『穴』があいてしまった。」 ――「穴」から落ちてしまう子がでてきたんですね。 「落ちないためにどうすればいいか、具体的な知恵が必要なのに、学校も企業も『コミュニケーション能力』とか『生きる力』など、抽象的なことしか言えない。子供たちにしてみたら、どうやって身につけていいかわかりま

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