浅野温子、舘ひろし&柴田恭兵の“変わらなさ”に「まるでゾンビ(笑)」 8年ぶり『あぶデカ』最新作で再共演
【2018年2月15日 追記】 平成30年度使用小学校教科用図書「特別の教科 道徳」展示会に行ってきました。 来年から、小学生は教科書で道徳を勉強することになりました。そこで、文部科学省に認定された8つの出版社の教科書を比較しました。 出版社の紹介順に意味はありません。 撮影禁止だったので、より詳しい情報は記載したHPで確認してください。 小1の教科書の比較は内容的にも難しかったので、主に小6で比較しました。 実際に手にとって僕が感じたことを記述するように心がけました。 学習指導要領の内容は同じ 出版社別:道徳の教科書 光文書院 廣済堂あかつき 学校図書 日本文教出版 教育出版 東京書籍 学研 光村図書 この記事を書くにあたって 大人だって道徳を学びたい 就活などの経験 小学生の立場には立てませんが…… 高校でも道徳教育推進へ 学習指導要領の内容は同じ A.主として自分自身に関すること B
国有地の安過ぎる払い下げが発覚したことに端を発して、森友学園という学校にさまざまな疑惑が持ち上がっている。大阪府も設置認可を先送りする方針だ。建築費に関して3カ所に異なる報告を出し、建築費を不正に受け取った疑いや、理事長自身の経歴詐称まで報じられている。 さらに今回の不祥事に加えて、この学校が外国人に対するヘイトスピーチと思われても仕方のないような文書を保護者に配布していたことや、幼稚園児に「安倍首相がんばれ、安保法制国会通過よかったです」などと連呼させていたことなど、教育方針上の問題も指摘されている。 補助金をつける、よい学校の基準とは? 私自身、よい教育をする学校に対し、国が補助金をつけること自体は問題だとは考えていない。ただ、よい教育の基準は難しい。例えば、2021年春からの入試改革で中央教育審議会(中教審)は、学校の調査書や面接、自己推薦書などを加味した入試を行った大学は予算的に優
というか、こんな簡単な問題すら理解できない者たちが政治家をやり、しかも政権中枢で政策決定に関与しているのだから、まったくお話にならない。 たとえば下村博文文科相はこんなことを言っている。[1] 「(教育勅語には)至極まっとうなことが書かれており、当時、英語などに翻訳されて他国が参考にした事例もある。ただしその後、軍国主義教育の推進の象徴のように使われたことが問題だ」 下村博文文科相は8日、教育勅語の原本が確認されたことと絡めてこう述べ、内容そのものには問題がないとの認識を示した。 教育行政のトップからしてこの体たらくである。 この下村の認識は二重三重に間違っているのだが、どこがどうおかしいのか、具体的に見ていくことにしよう。 まず教育勅語の全文を見てみる。リンク先の画像が示すように、各学校に「下賜」され、行事のたびに「奉読」が義務付けられたこの勅語には句読点も何もなく、べったりとした文語体
昨夜、賢者タイム中に「道徳教科化」のニュースを見た。 なんでも道徳が科目として扱われ、成績として評価されるようになるらしい。 TBSニュース23「変わりゆく日本」というコーナーで、試験的に行われた道徳授業の様子が放映された。 以下のシチュエーションについて生徒たちの意見を募り、先生と議論する。 「図工の時間。男の子が、となりの女の子に「赤い絵の具を忘れたから貸して」と言っている」 「女の子は(貸してって頼まれるの、今日で3回目だ……)と思っている」 「あなたが女の子の立場なら絵の具を貸しますか、貸しませんか」 貸すか貸さないかは評価対象にならない。 むしろ相手のことを思いやることができるか、より多面的な見方ができるかどうかで判断する。 たとえば「もう2回も貸しているのに、今回貸したらきっと次も忘れちゃう。それはあなたのためにならないから、貸さない」というのは、相手のことを考えているので三段
○江戸時代において江戸しぐさは歴史、文化、いろいろな面から存在を確認できません。よって過去のいかなる時代にも実在しません。 ○江戸しぐさ(えどしぐさ)は、「特定非営利活動法人江戸しぐさ」が江戸町人の行動に由来すると主張し、普及を促進している行動哲学。当該法人が「紙類、文房具類、印刷物」「セミナーの企画・運営または開催、書籍の制作、電子出版物の提供、教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く)」に関し、商標権を有している。漫画での紹介をはじめ、多くの子供や親のための教育本が出版されている。 ただし、江戸時代における江戸しぐさの実在を示す史料の存在が確認されていないことは、「特定非営利活動法人江戸しぐさ」理事長である越川禮子自身も認めている。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%97%E3
前回記事で、教育勅語が説教する「徳目」(ただし最後の1個は除く)について、「時代背景を考えればまあ常識的な内容で、当時の感覚では当たり前の道徳」だと書いた。 これは、当時の人々はそれらを「当たり前の道徳」と感じたであろう、ということであって、その内容が普遍的に通用するという意味ではない。また、人々が自発的に何らかの「徳目」を尊重することと、国家に命令されてそれを守らされることとは、やっていることは同じように見えても、意味はまったく違う。 それが分からない、法と道徳の区別がつかない人々がこの国には多すぎる。これは、この社会の未熟さの表われの一つであり、またこの国を蝕む宿痾の一つとも言えるだろう。以下、渡辺洋三『法とは何か』(岩波新書 1979年)から引用する。 わが国では、法と道徳との分離が徹底せず、しばしば、法的正義と道徳的正義とが同一の「正義」の言葉で呼ばれ、混同して使われてきた。このた
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